RUN!!

いちみ

第1話 溢美の花

溢美の花

 教室に二人の少年がいた。始まりはたったそれだけだった。


 沖高等学校は、少子化と人口流出に悩まされる、どこにでもあるような田舎の高校だ。昭和の初期に建てられたと言われている木造の平屋校舎とは反対側に、地元の杉で建てた新しい木造の平屋校舎が建っている。少子化の加速が速すぎて、一学年三教室あったものが今、教室として機能しているのは、一つしかない。真ん中の昇降口から向かって真ん中二年教室、一つ飛んで三年教室。再来年には廃校になるので、一年生はいない。

 一学年、二十人の小さな学校。町の中心部から坂を北上した場所にある。坂上と呼ばれることもあり、高校前の坂は鬼坂と生徒から呼ばれている。基本的に高校にはバスは走っておらず、鬼坂に入る手前の橋元というバス停でおりるしかない。


 有川明司は右足をかばうようにして、バスを降りた。医者にはもほぼ完治したと言われたが、駅伝には出ることはかなわないだろう。沖町はなゆめ駅伝大会。町の企業や個人の有志で集まった団体が、町おこしの一環で駅伝をするのだ。

 役場から走り出して、町内をぐるりと一周する形になる。三~四キロ程度のコースが十区あり、ゴールは鬼坂の手前、橋元だ。最後に高校の校庭で野外音楽祭や出店が披露される。

 最後の町おこし駅伝だった。高校が閉鎖されることと、有志を募ってもなかなか参加者が集まらないためであった。明司は特別に思い入れのあるわけではなかった。しかし、小学生六年生の頃から参加しているこの駅伝の最後を走りたいという気持ちは少なからずあった。

 十月十三日。

 明司は部活の顧問から正式に駅伝メンバーから外された。ぎりぎりの人数でやっているので、テニス部から借りてくるしかない。この学校には陸上部とテニス部、それか帰宅部しかない。明司は不承不承に頷いた。大学へ行っても陸上をしたい明司にとって、故障のまま駅伝に出ることは鬼門である。

「ただ、残念なことにテニス部から引っ張ってこれなかった。明司のせいにはしたくないが、今回は参加を見送ろうと思う」

 だったら走る、と口から出そうになった言葉を飲み込んだ。明司は軽いストレッチをして誰よりも早く教室に戻った。部室がないので、教室で着替えたり、準備をしている。空き教室ならたくさんあるので、問題はない。

 左端の教室に入ると、なぜかそこにいるはずのない人物が立っていた。はらりと頬を伝っているものがある。

「痛い?」

 咄嗟に明司はそう聞いていた。その少年は答えもせずに明司の隣を走り去った。友枝紫夕。白い髪に白い肌、赤い瞳が特徴的な、アルビノの少年だ。明司とは同じクラスで、席替えをした今は、隣同士に座っている。後を追おうとして、右足の違和感を思い出す。舌打ちをしたい気分だ。

 追うことを諦めて、明司は紫夕の立っていた場所に近づいた。物盗りという雰囲気ではなかった。室内は静かだ。歩くたびみしみしと音を立てる床も、静寂に呑まれる。

 紫夕が見ていたものは、一学年上の陸上部の先輩の荷物だった。そこにはメモ用紙が一枚だけ乗せられていて。見てはいけないと思っていても、震える手はそれをひっくり返した。

――好きです。

 名前もない、ただ想いを乗せた紙切れだった。きっと紫夕の思いは叶わないと思った。あの先輩には同い年の彼女がいる。でも、明司にとって、それは悪い気持ちを起こすだけに充分な効果があった。


「どういうつもりだよ」

 次の日の昼休み。明司がちぎったノートの切れ端で指示したとおり、紫夕は古い校舎の昇降口に来た。自分がしていることが悪いことだとわかっているだけ、明司はすでに撤回したくなっていた。

 明司は昨日の紫夕の告白の紙切れを使って、彼を脅そうとしているのだ。

「言い触らされたくなければ、俺の言うことを聞け」

 あまりに幼稚な言葉に自分でもあきれてしまう。それは紫夕にも伝わったらしい。大きなため息が明司の耳に届く。重たい沈黙が二人の間に蔓延する。やっぱりなし、という言葉を飲み込むこと数十回目。

「・・・・・・何?何が望みだよ」

「え、え、え、いいの?」

 自分が悪役であることを忘れて、明司は聞き返した。白い前髪から覗く赤い目がわずかに伏せられる。それをイエスとして、明司は紫夕に一歩近づいた。肩をつかんだのは、逃亡を防ぐためではない。ただ、勢いのままであった。

「駅伝を、走ってほしいんだ」

 すぐに渋面が作られた。眉毛と眉毛の間隔が狭くなって、唇はへの字に曲がる。町役場主催の駅伝委員会には、参加の取りやめを今日の夕方告げに行くことになっている。チャンスはこの昼休みしかなく、それはおそらく紫夕にもわかっていた。

 つまり、昼休みの間、紫夕が渋れば、自動的にこの脅しは明司の利益をうまないのだ。もちろん、面白半分に言い触らすこともできるが、明司はそれほど悪役にもなることはできない。紫夕が渋った時点で、明司にチャンスはなくなった。

「そっか・・・・・・ごめんな」

 明司は紫夕の肩から手を離した。自分に悪役はつとまらないし、無理矢理走ってもらっても、明司の気色は納得しないだろう。エゴとわがままだけだった自分を恥じて、通せんぼしていた出入り口を明け渡す。古ぼけた昇降口は開閉するだけでも怪音が響く。

 明司は紫夕が立ち去るのを待たずになぜか置いてあった古ぼけた椅子に座ってうなだれた。みしぃと、悪い音が聞こえた瞬間に立ち上がる。ここはどこもかしもこも悪い。

 赤い目はまだ明司を見ていた。立ち去っていないことが不思議で、小首をかしげる。もうこれ以上は用事もない。いや、用事がないのは明司だけで、紫夕には恨みを晴らすという大義名分が残っている。そのことに思い当たった明司は腰から九十度、体を曲げた。

「ごめんなさい、でした。その告白が」

「いいよ。それは、もう。どうせ、無理なんだ」

 投げやりな言葉に、明司はゆっくりと体を元の位置に戻した。少し低い顔をのぞき込んで、また小首をかしげる。気まずそうな赤い瞳とかちあう。その目は本当に諦めているようで、冷え冷えとしていた。

「俺、その、よくわかんないんだけど」

 明司はその瞳がまた燃えるようになればいいと思った。

「先輩はアンカーで、俺が九区だったんだ」

 区間ランナー表も今日、提出だ。

「先輩に、たすきを繋げてみない?」

 だから、つまり、今日、出ると言えば、強制的に九区を走らされることになるだろう。届かなかった想いの分、先輩にたすきを渡すことができれば、いいのでは。何がいいのかわからず明司は言った。

「・・・・・・気持ち悪い、て言わないんだな」

「なんで?」

 何でもない、と明司は軽くあしらわれた。これ以上ない誘い文句かと思ったのだが、その気になってもらえなかったのだとわかると、明司はまた近くの椅子に腰掛けた。今度は音を立てなかったので、そのまま座っていた。

 不意にほこりっぽい空気が動いた。目の前に仁王立ちするのは紫夕だ。

「いいよ」

 そう言ったのも、紫夕だった。


 明司には恋愛がわからなかった。わからないということは、恋をしたことがなかった。何かに愛情を注ぐことはあっても、それは友情だったり父性のようなものだったりする。恋をする意味を、明司には理解できなかった。恋をしなくても人を好きになることはできるし、恋をしなくても死なない。

 だからといって、恋をしている人を否定するつもりは、明司にはない。明司にとって、恋とは必要を感じないものでも、憧れるものだった。その恋のまっただ中ににるのが、紫夕だということも、わかっていた。駅伝を了承したときの彼の目は、本気の炎でめらめらと赤く輝いていた。

 紫夕を応援すれば、自然と自分も何かに恋できるのではないかと、思った。最初は脅してやろうというつもりだったが、いつの間にか、紫夕がいくらか報われるようにと願っている。

 男同士が、今のところ普通ではないというのは、いくら恋がわからなくても明司は理解している。だから、全部が報われるわけではないことはわかっている。先輩には彼女がいるし。明司はそれでも紫夕が可哀想だとは思わなかった。男だろうが、なんだろうが、好きになる心があることは人として当然備わった感情だ。そこが欠けた自分の方が、人間らしくない。

 宮島初。先輩の名前だ。明司は、名簿を見ながら体が震えた。その上には友枝紫夕の名前があったからだ。今すぐにでも紫夕に見せたかったが、今、明司は顧問の車の中だった。

 選手登録をしに役場へ顧問の車で向かっていた。明司は足がよくなるまではマネージャー業に勤しむことになり、紫夕も駅伝の間はテニス部を休部することになった。

 駅伝に出ることになったと伝えられたメンバーは、嬉しそうなやつがいる一方で、面倒くさそうなやつもいた。今の時期なら大きな駅伝大会など他にもたくさんある。町おこしだかなんだかのために、わざわざ時間を潰すことを嫌がるのはもっともなことだった。しかし、明司は参加したかった。

 最後の町おこし駅伝、五年間出続けた駅伝、そして、紫夕の想いのかかった駅伝だ。

「友枝とは友達なのか?」

 不意に顧問から問いかけられる。明司が昼休みに突然テニス部の紫夕を連れてきたのだ。顧問は聞きたくても、申込用紙などにサインをするなどして、時間は過ぎてしまったのだ。

 明司は友達だと答えようとして、言葉を詰まらせた。友達、なのだろうか。脅してしまったのだ、紫夕は友達だとは思っていないかもしれない。

「と、友達っす」

 やっとそれだけ答えて、誤魔化すように笑った。午後から隣に座って授業を受ける紫夕は普通、と言うしかない。だが明司のほうを見ようとしなかった。明司は頻繁に視線を向けていたのだが、いっこうに、見る気配がないのだ。

 部活が始まっても明司にはかまわず、他のメンバーの元へ行く。二年生からは五人ほど出る。その二年生グループに混ざってしまった。学年二十人の小さなクラスだ、テニス部と陸上部で確執があるわけでもないので、すぐに打ち解けていた。

 もちろん、最初渋っていたやつらも、やるとなったら本気で走るつもりだ。この大会には近隣の高校も招待されている。近隣とはいえ、車で一時間も先にある学校だが。いつも記録会などでは競り合うので、お互いライバル視している。

 車は新しくなった町役場の駐車場にするりと入り込んだ。明司はまだ違和感の残る右足をかばいつつ、車から降りた。鍵もかけないで、顧問はさっさと前を行ってしまう。

 新しくなったと言うが、無機質な箱形のコンクリートの舎が近代明治のころの洋風建築みたいな時代を遡行したものに変わっていた。これには賛否両論が交わされたが、作ってしまったものは仕方ないと、住民は諦めている。

 高校から離れているからか、なかなか見る機会がない。明司は改めてみて、この町から浮いていると思った。それなら沖高校の方がこの町とマッチしているだろう。

 中はシンプルで、町おこし増進課は真ん中正面から左奥にある。職員は何人配属されているのか知らないが、今は二人しかいない。そのうちの一人と知り合いだったか、顧問は手続きついでに話し込み始めた。明司は手持ちぶさたに出された冷たい麦茶を飲んだ。

 駅伝に出ることが決まって、浮かれ、忘れていたがここは明司にとってあまり嬉しい場所ではなかった。今のところ姿は見ていないが、いつ現れるかわからない。顧問の話が早く終わらないかと、大人しく待つ。

「明司?」

 だが悲しいかな、声はかけられた。オレンジ色のポロシャツに、長い髪をポニーテールにしている、眼鏡をかけた女性だ。明司の従姉にあたる有川湊。母方の血の色が強いのか、明司とは似ていない。

「あ、あー、湊」

「駅伝出るの?」

「あー、マネージャー?」

「足ダメだったんだね。でもあんたの代わりがいるの?」

 九区は四・二㌔の長丁場な上に、起伏の激しいコースだ。同じく起伏の激しい三区を夢というのだが、九区は花と呼ばれている。長距離選手の明司にとっていつもトラックを五千走ると思えば、そんなに気落ちするような距離でもない。起伏さえどうにか攻略すれば、トップでたすきを渡す自信はあった。

 それを紫夕には言っていない。紫夕はテニス部だ。体を動かすこと自体は造作もないだろう。ただ走りに特化していないので、故障につながるかもしれない。

「・・・・・・たぶん、大丈夫」

 湊は名前を呼ばれたので、明司のもとから離れていった。明司は彼女のことが苦手だ。彼女とは七歳、離れている。親戚である彼女の家は比較的近い。中学生の頃に遊びに行ったときに彼氏を連れ込んでいるのを見て、面白くない気持ちになったのだ。

 恋かな、と思ったがそれともどうやら違うのだ。嫌悪に近い気持ちがこみあげて、嫉妬しているようでもないのだ。形容しがたいが、それから彼女がとても苦手になった。

「有川か」

 そういえば、お前も有川か、と顧問に視線を寄越されたので、従姉です、とだけ答えておいた。


「フォームが綺麗だ」

 明司が片付けていると、隣にいた宮島初がそう呟いた。

「本人に言ってくださいよ」

 その方が紫夕は喜ぶだろう。走り慣れていない彼を心配していたが、それは杞憂に終わった。暮れ泥む校庭をクールダウンで走っている。紫夕はテニス部にしておくにはもったいないくらい、走りに特化していた。フォームは綺麗で、無駄がない。頭で考えて走っているのか、無駄走りもない。明司は嫉妬すると同時に、一緒に走りたいとさえ思った。

「無駄走りもない」

 だから本人に言え、と明司は心の中で毒づく。

「なんでテニス部なんだろうな」

 それは明司も気になっていたことだった。でも、単純にテニスが好きなのかもしれない。中学までの紫夕を明司は知らない。紫夕は高一の時に東京からやってきたのだ。両親がここの出身で、戻ってきたのだという。

 全体的に白い彼は一躍時の人となったが、それも慣れれば普通の人だ。明司はぼんやりと校庭をゆっくりと仲間たちと走る紫夕を眺めた。病的な白さだが、今は夕焼けに照らされて赤く燃え立っている。

「初さんはクールダウンしないんですか」

「充分走ったの、見てただろう」

 初も長距離選手だ。この部で明司の次に速い。几帳面で面倒見も悪くない。黒い短髪に太い眉毛が男らしい。首から垂らしたタオルにはイニシャルが刺繍されていて、おそらく彼女からの贈り物なのだろう、とわかる。部長をしていて、みんなに慕われるいい先輩だ。

 だから、紫夕の気持ちを応援している。先輩がもっと悪い人なら、明司は甘美な誘惑をつきつけなかったかもしれない。

 明司はあらかたの片付けを終えると、ストレッチの笛を鳴らした。二人一組になってするストレッチは、基本的に決まった者同士でやる。初の相手は明司だったので、必然的にその代わりを紫夕がつとめる。

「いい調子だ」

 初はそう言うと、開脚した紫夕の体を押した。股関節が柔らかいのか、押さずともぺたりと草の生えたグラウンドに体がつく。二人の仲はよいように明司には見えた。その実、笑い合う姿は部活外でも増えた。

 十月二十一日。

 紫夕が陸上部に仮入部して一週間が経った。いつものように、明司は古い校舎の昇降口に持ち込んだ椅子に座って昼食をとっていた。薄暗くいつ倒壊するかもわからないそこは、明司にとって安穏な場所であった。集団行動をすることが苦手だった。それでも陸上部に入ったのは、走ることが好きだったからだ。

 長距離を選んだのは、長い間ずっと走っていられるから、という単純なもので、適性もあった。走りすぎて右すねにひびが入るまでは、どこまでも走って行けるような気がしていた。ほぼ完治したがまだ筋力の戻らない今もまだ、そんな気がしている。

 明司を走りに駆り立てたのは、なんであるか忘れた。それは幼い頃に野山を駆けまわっていたときから自然と身についたものかもしれない。だが、そんなことは明司にとっては大事なことではなかった。

 すでにこんなへんぴな高校でも大学からお誘いが来ている。まだ走る舞台があることに喚起している自分と、怪我の完治を待たずに走り出したい気持ちを抑えることに、明司は苦心していた。それをこの校舎は家鳴りで言い聞かせるように、明司の気持ちを穏やかにしてくれた。

 弁当のから箱を椅子の下に置いて、大きくのびをする。黒い校舎の枠の外から見た同じような形をした、新しい校舎。そこには人の息づかいが溢れている。秋も深まった暖かい太陽が間にある校庭を照らしている。

 そこを一人の少年が明司のいる方向に歩いてきた。白く輝く髪の毛で誰かすぐにわかる。紫夕を認めても明司は隠れることはしなかった。扉のきしむ音と、名前を呼ぶ声は同時だった。

「ここ、人来なくていいな」

「うん、お化けが出るとかで、誰も来ない。夏はたまに肝試ししてるのか、落書きとか増えてることがある」

「俺は来なかった方がよかった?」

 明司は首を横に振った。駅伝に無理矢理巻き込んだのだ、何かあったのなら話を聞きたい。立ち上がって、自分の座っていた椅子に紫夕を座らせた。明司は例のがたがたの椅子にゆっくりと腰掛けた。

「・・・・・・明司はこの駅伝に何か執着でもあったの?」

 悩みでも打ち明けてくれるのかと思ったら、明司にとっては些末なことであった。

「執着はないけど、愛着はあるよ。五年間も出続けたんだから」

 明司の言葉に紫夕は頷いた。しかし駅伝に紫夕を脅したのは、それだけが理由ではない。先にも述べたように、走りたい気持ちを誰かに代弁してほしかったのだ。

 そして新たにできた動機。紫夕の恋を見ていたい。それを言ったらきっと彼は怒るだろう。明司は走りたいという衝動の話をした。紫夕は始終口を挟まなかった。いや、聞いていなかったのかもしれない。途中持ってきていたペットボトルに口をつけた。

「ごめんな、俺のわがままに付き合わせて」

「別に。気持ちはわかるから」

 明司は小首をかしげた。走りたい衝動が紫夕にもあるのか。もしかしたら紫夕は陸上経験者だったのではないか。走るフォームに、最初から用意されていたシューズやランウェア。裏付けには充分だ。

 そして何よりも、タイムが実力を示していた。それは明司と並ぶほどで、九区を任せるに申し分なかった。明司の視線を受けて、紫夕は自分を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。しかし、何も語ろうとはしない。もしかしたら、その笑みは明司の考えを肯定する笑みだったのかもしれない。

「やるからには頑張るから」

「あ、うん。よろしく」

 予鈴が鳴る。掃除の後に午後の授業だ。二人は冷たい風の渡る校庭を歩いた。


 マネージャーといっても、特にやることはない。短距離走ではないのでスターティングブロックはいらないし、ハードル走ではないのでハードルもいらない。生徒全員が自分のボトルを用意しているから、明司はそれを間違えずに渡したり、タイムを計ったりするくらいだ。ちなみにタイムの記録も選手自身が行う。これは顧問の指導だった。自らを律しろ、そのためにできることは自分ですること、というものだ。

 だからか、陸上部は少人数であるにもかかわらず、記録会では上位に食い込む選手が数人いる。明司と初はその筆頭だった。初は仲間であり、ライバルでもある明司の不調を喜ぶそぶりは見せない。明司から見ても初は男気のある男だった。

 初と紫夕と三人で走ることができたら、明司はそんな夢を抱きつつあった。紫夕の恋を忘れたわけではないが、自分の走りへの貪欲さに呆れるばかりだ。

 初や紫夕の調子の良さにつられて、全体のタイムが伸びてきていた。テニス部の連中も出たくはないが、出るとなった紫夕を応援しているらしく、十一月を前にした二十七日。古い横断幕の修繕をしているのを見かけてしまった。

 緑に映える、黒い赤の段幕に黄色で県立沖高等学校と書かれている。ところどころシミができていたりほつれていたりするのをなおしているのだ。幸いにも現場には明司しかいなかった。テニス部分の小さな一口大のチョコを買って、こっそりと差し入れると、照れたような彼らの顔を見ることができた。

 十月三十日。

 その日は練習が休みだった。週に一回は休みの日がある。だが、選手は学校へ出てならす程度に体を動かす。

 明司も自分の足が順調に回復しているのを感じていた。だから、少しだけ、と校庭をゆっくりと走っていた。それはほとんど歩いているのと同じくらいの速度ではあったが、わずかにいつもより速い風を頬に受けて、胸に感動が満ちる。

 そんな明司を止める者は誰もいなかった。しかしかわりに残酷なほど速く、彼らは走りすぎていった。何に対して何の根拠で言っているのかもわからない大丈夫を何度も繰り返した。校庭を五周した頃には、明司は走るのをやめて、白線の内側をうなだれて歩いていた。

 足はなんともなかった。ただ、心に暗雲が雷を伴ってやってきたように、重苦しかった。初と紫夕が隣り合って走っているのを見ると、余計に思うのだった。三人で走りたいと思っていた心が砕かれていくのを、押し隠すのに必死で。

 気づいたら鬼坂の下まで歩いていた。バスで帰ってしまおうと思ったが、そのバスは一時間半後。明司はしかたなく、歩いて橋元の橋を渡った。一人でできるから、走ることを選んだはずなのに、なぜか今は誰かと走ることを望んでいる。

 不意に後ろからタイヤが地面を食む音が聞こえてきた。明司は立ち止まって後ろを見た。だがその姿はすぐに明司の隣を過ぎていった。テニス部の学生が帰宅するのか、次々と明司の隣を走って行く。

 淀んだ川にでも飛び込んだように、息苦しく生臭い気持ちがした。てっきり紫夕が追ってきたのだと思ったのだ。紫夕は今、少しの夢を見ている最中であるのに。走ることを奪われた明司は、どこにもそのモヤモヤとした気持ちを持って行くことができなかった。

 家まで歩くことしかできずに、川に沿った国道から田んぼをつっきる農道を歩いていると、今度こそ、明司を止めるクラクションが鳴らされた。白い軽トラを湊が運転していた。車を隣につけると、湊は窓を開けた。

「乗りなよ、家まで送る」

 断る理由はあったが、あまりにも身勝手なので素直に車の中に乗り込んだ。軽トラの仲は農具や作業工具などがいくつか散らばっていた。ラジオが流れているのか、ノイズに混じって話し声が聞こえた。

「顔色、悪いよ」

 頷いたきり、明司は口を開かなかった。このまま走れなくなる、と言う感覚はなかった。ただチャンネルの映らないテレビのようにざぁざぁとさざ波が立っていた。明司にとって初めてのことで、答えは見つからない。

「失恋した?」

「してない。湊は、その好きな人」

「今度ね、結婚するの」

 まだお母さんには内緒ね、と言って前を見ながらいたずらそうに笑う。昔から付き合っていた人と籍を入れるから、それをサプライズしようと思う、そう湊は言った。恋をしている人の瞳だった。きらきらと燃えるような輝きを放っているのだ。紫夕の瞳も最近、そんな輝きを取り戻していた。

「お、おめでとう」

「ありがとう。・・・・・・ねぇ、本当にどうしたの?具合悪いんじゃない?」

 そういえば、体が熱い気がする。足から発熱でもしただろうか。

 明司は家に着くと、玄関先で倒れた。


 結局三日間学校へは行くことにならなかった。十一月三日。文化の日には、休日練習へ顔を出すことができた。結局、明司はあの不快な気持ちを風邪のせいとするしか、なかった。

 大会まで二週間とちょっと。顧問からは風邪を引かないよう注意がされた。走り込みもだんだん緩やかになって、今はそれぞれ大会まで緊張と集中が途切れないように、各自のペースで走っている。

 チーム全体の士気が上がっていくと同時に、明司の心がだんだん下方へ向くのを感じていた。それは、選手名簿を見て感じた高揚感を忘れるほど下向きになっていた。

 気づけば、自分がいる必要性や、駅伝に参加する意図など、一から考え直す勢いで、明司自身が一番戸惑っていた。マネージャー業が暇になっていくと、ぼんやりとする時間が増え、結局、日陰で走っているのを見ているだけとなった。

 誰もが、明司をいる者として扱っているのに、明司だけはその輪の中にいないような気分で。朝から始まった練習が区切りをつけて昼に終わると、誰とも会話をせずに校門を出た。紫夕は初と楽しそうに笑っていた。

 次の日。

 いつものように、土のにおいのする校舎で、弁当を食べていたら校庭を走ってくる少年を見かけた。それは白い髪をしていて、当たり前に誰だかわかった。明司は咄嗟に下駄箱の陰に隠れた。

「明司?」

 名前を呼ばれたが返事をしなかった。

「いるんだろ?そのままでいいから、話を聞いてくれ。俺、駅伝やっぱやめる」

「なんで?!」

 そのままでいいと言われながらも、明司は飛び出さずにはいられなかった。そこには白い髪をした赤い目の少年が立っていた。綺麗な髪の毛が風になびいてさらさらと流れていた。その下にある目は、依然、強い光をともしている。

 明司ははったりを使われたと、すぐに理解した。悔しくなって、床をどんと踏みならす。紫夕はその様子を楽しそうに見ていた。

「嘘に決まってんだろう」

 言葉にならない文句をにらみ付けることで伝える。だが、紫夕はどこ吹く風だ。明司はますます地団駄を踏みたい気分になる。

「最近、話してないと思って」

「話す相手、間違えてるよ」

「俺が話したい相手くらい、自分で決める」

「俺は話したくないから、もう行くね」

 意地悪を言っている気はしたが、明司は自分の気色に折り合いをつけることができなかった。今、チームメイトと話したら、きっと自分はひどいことを言う。そんな気がしていた。

「文句があるなら、言えばいいだろ」

 紫夕が入り口を通せんぼする。それはあの日、明司がしたことと同じだった。だが明司は自分の醜い心を吐き出すような勇気はなかった。自覚したばかりの孤独や意味やプライドが、大きく山になって、言葉をせき止める。

 文句なんてない、と言うにとどまる。それでも紫夕は譲らなかった。この粘り強さは明司にはないもので、それ故に戸惑いといらだちがわき起こる。

「どうせ言ったって無駄だ」

「あるんじゃないか。全部聞き入れる覚悟はないけど、言えよ。お前が引きずり込んだんだろ」

 チームメイトだろ、と言う言葉に、明司の目の前が明滅した。

「チームメイトじゃない!ただのマネージャーだ!」

 ついかっとなって出た言葉に紫夕はやっと、動揺を見せた。その顔を見た瞬間、堰を切ったように言葉があふれ出す。それを止めなければならないという理性と、止めなくていいという本能がせめぎあって、本能が勝つ。

「紫夕はいいよな、好きな人と走ることができて。俺には好きな人と走ることができない。思い入れのある、最後の大会にも出ることができない。今もいてもいなくてもいいし。・・・・・・なぜか知らないけど、紫夕に八つ当たりするし」

 ひどい八つ当たりだと、言葉を吐き出すごとに正気に戻っていく。走ることができないのは、自分のせいで、走ることを強要したのも、自分なのだ。最後は、ごめんの一言で区切りをつけた。

 大きく息を吐く音がした。それだけで間抜けと言われたような気がして、今度は自己嫌悪の海におぼれていく。選手ではない自分が、選手に心配をかけてどうするんだと。

「明司は好きな人いるんだ?」

「・・・・・・うん、みんなのこと好きだから」

 呆れたようなため息のような笑い声のような。紫夕は新しい方の椅子に半分だけ座った。半分の面積をたたいて座るように促されたので、明司はおずおずとそこに腰を下ろす。

 校庭では数人がバトミントンで遊んでいた。泥中にいるような疎外感が今はないことに、明司は気づく。ごめん、ともう一度謝ると、しかし紫夕は首を横に振った。

「俺、明司にすっげぇ感謝してる。初さんと走ることができるなんて、考えられなかった」

「でも、俺が告白を踏みにじってる」

 想いは伝えなければ、伝わらないのだ。初ならきっと拒絶はしない、と明司は思う。

「それは、いいんだ。名前も書いてなかっただろう。伝わらないのを前提にしてたんだ」

 今からでも、と思ったが、今からではもう、距離が近すぎる。それに初目当てで駅伝に出ることもばれてしまう。不純とは言いがたいが、軽いと見られてもおかしくない動機に、初が納得するかわからない。

「中学の時は、長距離走、してたんだ」

 やっぱりそうなのか、と明司は頷いた。迷いのないフォームに考え尽くされた走り。一朝一夕では身につかないことだ。

「そのときも好きな先輩がいて、俺はやっぱり我慢ができなくて、メモ用紙に告白して下駄箱の中に入れた。どうなったかはしらないけど。手ひどくフラれたわけでもないのに、走るのが嫌になったんだ。でも好きな人と走るって楽しいな」

 きつい目元が緩やかになる。優しい笑顔に、明司は胸が切なくなるのを感じた。ずっとその笑顔がほしかった、と明司は思った。自分の代わりに走ってほしかっただけの気持ちが、どこかずれているような気がして、妙な気分になる。布越しに触れる肩の体温がやけに高い気がする。

「明司はこれからいくらでも走ることができるよ。だから」

「わ、わかってる。これから好きな人もできるだろうし、そのときに走るためには、今は我慢しないと」

 紫夕は何か考えるようなそぶりをして、そうだね、と頷いた。自分が頓珍漢なことを言ったのではないかと、不安になったが、それを確かめる前に予鈴が鳴った。


 家に帰ると、親戚会議が行われていた。どうやら、明司の従姉である湊の結婚宣言は今日だったらしく、相手の男も同席していた。その顔は中学の時に見た男が少し大人びたような顔で、おそらく、同一人物だと明司は判断した。

 明司は自分が必要ないことを悟って、早々に部屋に戻ろうとした。問題は式をあげるかあげないか、神前式なのか仏式なのキリスト教式なのか、という部分であるからだ。結納などもまだで、ただ親に結婚宣言をするだけのはずだが、親戚一同集まっての会議となっている。

 白無垢を着せたい派と、ウェディングドレスを着せたい派でわかれているようで、広い部屋の中は喧々諤々としている。その中で湊は嬉しそうに笑っていた。

「明司、おかえり」

 どうしても広い部屋の前を横切らないと、部屋には行けないので、こそこそと移動していたら、湊に見つかった。

「ただいま」

「明司はどっちがいいと思う?」

 湊の問いにその場にいた全員が、明司を見た。どうでもいいとは言い出せず。明司は考えて考えた結果、無難な答えを出した。

「二人がいい方が、一番いいんじゃない?」

「じゃぁ私、ウェディングドレス着たい!」

 すかさず湊がそう言った。どうやら湊たちの意見も聞かずに話は誇大していったらしい。だが白無垢派が攻勢にでる。この喧噪はなかなか収束をみないと、明司もその場にとどまることにした。どうせ自分たちの意見など聞き入られることはないので、湊と話していることにした。旦那さんになる人は、緊張で縮こまっている。

「覚えてる?明司の初キス、私なんだよ」

 さすがに覚えていない明司は首を横に振った。初キスと言っても赤ちゃんの頃だろう、それなら覚えていなくて当然だ。

「明司が小学校四年生の時かなぁ」

 それはさすがに覚えているはずだが、明司には覚えが全くなかった。だが、なんとなくそれで湊に覚えた嫌悪感の正体が見えたような気がした。自分にキスをしておいて、他の男を連れ込んだことに、生理的な嫌悪を抱いたのだ。そこに恋愛感情はなく、ただの独占欲だったのだろう。そしてその嫌悪が強いあまりにキスの記憶はなくなってしまったらしい。

「今度の駅伝、役場チームも頑張るからね」

「おじさん軍団には負けないかな」

 背中をどんと、たたかれた。あまりの強さに咳き込むと、湊は立ち上がった。

「私、式挙げない!」

 静寂で満たされた部屋に、明司の拍手だけが響いた。


 翌日。

 明司の家の前に紫夕が立っていた。紫夕が来てから二年目。まだ町民にはアルビノの見た目が奇異に写るらしく、朝早くから畑に出たり、散歩をしている人の目が物珍しげであった。特に明司の住んでいる集落は、学校と真反対の南側の丘の上にある。

 対して紫夕は東の町営団地に暮らしている。何か用があったのか、南側に来ると、学校からは離れてしまう。校章を後ろにつけた自転車にまたがって、石段を降りる明司からは視線をそらしている。

「おはよー」

「おはよ。乗ってけば」

 道路の四分の三が農道なので、あまり人目がなく、警察も口頭で軽く注意するだけだ。明司は躊躇いなく、紫夕の自転車を奪った。大岡と呼ばれる地区から、北を見ると、高いところに高校の屋根が見える。そこまで約四㌔ある。

「走ろう」

 明司は有無を言わさず、自転車にまたがってゆっくりとこぎ始めた。ついてくるのを確認するためにふりかえると、綺麗なフォームで明司の隣を通り過ぎた。その後ろを置いて行かれないように明司は追う。

 自転車に乗れば簡単に手に入る速度。久しぶりに感じるそれに、明司は鼻歌を歌った。ジョグ程度の速さだが、頬をなでる風の豊かさや、粘度を感じる土の感触に心が躍る。

 鬼坂までくると、明司は自転車から降り、紫夕はジョグをやめた。今日は試走の日だ。車の通りが平日の夕方よりも少ないので、土曜日に行われる。団体ごとに日付も決まっていて、大雨でも降らない限りはその日のうちに試走を終えることになっている。

 今日はもう一団体、試走するところがある。ライバル校の北産業高校だ。飛び抜けて速い選手はいないが、平均的に実力のある学校だ。高校の裏手にはすでに銀色のバスが止まっている。都合により一緒に試走になりそうだ。

「北産業、て強いの?」

 紫夕の問いに明司は頷いた。北産業高校は産業をメインとした高校だが、授業内容は進学校レベルで、実際大学に進学する生徒も少なくない。つまり頭のよい人が多いのだ。

「初さんや紫夕みたいな人はいないけど、一定して速い選手がいるよ」

 明司は北産業の選手をあまりよく知らないが、ぼんやりと頭に思い浮かべる。口の悪い糸目の人が浮かんでくる。名前は忘れた。明司と紫夕が坂上の校門に近づくと、そこに一人の少年が立っているのがわかった。きっと初だろうと思っていたが、近づくにつれて糸目が際立つ。

 例の糸目選手だ、と明司が認識すると同時に、怒声が聞こえてくる。

「お前!怪我しよったらしいなぁ!ざまぁみろ!」

 威勢のよい声に、逆に腹が立たない。怪我をしたのも事実だ。ざまぁみろと言われるくらいには、速かったということだろう。明司は名前を思い出すことに真剣になった。記録会などの大会では毎度顔を合わせるのに、名前だけは覚えていないのだ。

「あれが強いの?」

 おそらくわざと大きくした声で、紫夕は言った。毎度、後ろに置いていくので、どの順位で彼がゴールしているのか知らない明司は、小首をかしげた。

「ふざけんな!白いの!」

 糸目が紫夕にむかって暴言を吐こうとした瞬間、北産業の部長だろう男が彼の首根っこをつかんで引きずっていった。漫画のような展開に、思わず笑いがこみ上げる。

「今日はご機嫌だね」

「はは、八つ当たりしたからかな」

 背中を強くたたかれて、明司は失笑した。紫夕には悪いと思うが、明司は言葉をぶちまけることによって、いくらか腹の底にたまっていたものが消化された。

 再び自転車を押して歩き出した明司の隣を紫夕が歩く。さすがに舗装はされているが、両端は雑木林となっている。日陰を選んで頂上までつくと、初が待っていた。困った顔で、北産業の方を見ているので、先のやりとりも見られたことだろう。

「満田は今日も元気だな」

 そうだ、満田琉だ、と明司は思い出す。中学が一緒だったわけでもないし、遠い親戚だったりするわけではない。だが、彼はいつも明司につっかかってくる。歯牙にもかけないので、明司の方はぼんやりと覚えてるのみだ。

 満田の登場はいつものことなので、明司も初も動じない。だが、紫夕は居心地が悪くなったのか、表情をあからさまにゆがめた。付き合っていくうちにわかったことだが、紫夕は顔に出やすい。嫌なことがあれば、嫌だと主張する。明司はいつも冷静な紫夕の意外なところを人間らしいと思った。

「何?」

 じっと見つめすぎていたのだろう、不思議そうな顔が明司を見上げる。

「いや、紫夕はよく百面相をすると思って」

「そうか?」

 自分の頬をつねる紫夕を見て、思わず笑う。

「自転車、おいてくる。鍵貸して」

 車のドアは鍵をしないが、自転車はきちんと鍵をかける。明司は紫夕から鍵を受け取ると、自転車小屋に向かった。自転車小屋は銀色バスのある裏手へ向かう道の途中、校舎の左横に位置する。鬼坂があるせいで生徒のほとんどは車で送迎をしてもらっている。

 適当な場所に自転車をとめると、明司は急いでみんなの場所に戻ろうとした。じゃり、とアスファルトが音を立てたので、明司は後ろを振り返る。そこには満田とその仲間が立っていた。

「あの生白いやつ、はやいんか?」

「うん、速いよ」

 話は終わったとばかりに、明司は立ち去ろうとした。ここにいてもいいことはないような気がしたからだ。だがそれを遮るように、満田が口を開く。

「ほんまかいや。なよなよしとって、気持ち悪い。俺は、お前と」

「口より足を動かそうよ。勝負の方法なんて、それしかないだろう」

 これまで満田にどれだけ言われても揺れなかった心が初めて揺れた瞬間だった。アルビノが珍しいのはわかるが誹謗の的になるのはおかしい、という理論よりも、紫夕が中傷されることが許せなかった。続く言葉がどれだけ明司にとって肯定的であっても、チームメイトを傷つけるような言葉を言われて、とっさに言葉を切ったのだ。

 小さな舌打ちが聞こえてきたが、明司は聞かなかったふりをして、背を向けた。校庭に集合する仲間を目指して軽く走る。もう大丈夫だと思えるくらいには足に痛みはない。しかし、まだ本調子ではない。

 紫夕が開けてくれた輪の中に入ると、顧問が話し始めた。北産業が三区間を走ったところで、沖高校が走ることになっている。毎年、土地勘のある沖高校が北産業に追いつくのだが、役場は遠くから来ていると言う理由だけで北産業を先に走らせる。

 顧問の説明が終わると、選手十名はぞろぞろと鬼坂を下る。下に大きなバンが用意されていたので、それに乗り込むのだろう。明司は初めて見送る側になって心細さのようなものを感じた。乗ってもよいと言われたが、乗っても意味がないので、ゴールである橋元で待つことにしたのだ。試走を終えて帰ってきたときのために、準備したいこともあった。


 果たして、試走を終えたメンバーが見たものは、焼きそばだった。ちょうど昼時の腹が減る時間。橋元のY字路の近くの空き地で明司はそれを配っていた。役場の関係者と学校で作ったものをパック詰めしたもので、ほのかに暖かい。

 六区で追い抜いた北産業もやってきて、大所帯になる。部長同士は馬が合うのか、楽しげに話している。紫夕はそこから離れて明司のそばにいた。それがどことなく嬉しいような気がしたが、なぜ嬉しいのかまではわからなかった。誤魔化すように、話を振る。

「どうだった?」

「思ったより起伏が激しい」

 九区はアップダウンの激しい道だ。国道から大きな農道へ入るところで一度上り坂になる。すぐになだらかな坂を弧を描くようにして下り、平坦の中にわずかな上下をはさみ、再び国道へと出る。その際に大きな橋を渡るため、北坂と呼ばれる大きな坂を上らないといけない。

「駅伝の先輩として助言はある?」

 明司は少し照れたように頭をかいた。

「えっと、最初の上下はペースを抑えて、最後の大きな上りに注意していれば大丈夫かな」

 一度走れば、紫夕は自分でペースを組み立てられるだろう、明司はそう思って、余計なアドバイスはしないでおいた。紫夕も自分で走るペースを組み立てているようだった。

「おい」

 不意に声をかけられて、二人はその方を見た。焼きそばを食べながら、二人に向かってくるのは、満田だった。明司は紫夕をかばうように前へ出た。もともと紫夕は関係ないのだ。言いたいことがあるなら、自分に言えばいい、いつになく強気な明司に満田は若干ひるんだようだ。

「負けねぇからな」

 それは明司に言ったのか紫夕に言ったのかわからなかったが、満田はそれ以上絡んではこなかった。負けてたまるか、と後ろでぼそりと呟く声に、明司は振り返る。

「紫夕なら大丈夫だよ」

「うん」

 いつも通りの彼がそこにいて、まるで不安を感じさせない。きっと、たすきは繋がる。そもそも田舎の駅伝だ。たすきが繋がらないことの方が珍しい。一応、町の精鋭が出ることになっているのだ。伝統のあるこの駅伝に参加したかった。先代からつながれたたすきを途切れさせたくなかった。走る渇望を満たしたかった。そして明司は紫夕の恋が少しでも報われればいいと思った。

 たかが田舎の町おこしの駅伝だが、みんな、本気だった。


 十一月十六日、朝。

 本番まで五日。そろそろ町の雰囲気も変わる頃。町の中心部には駅伝の段幕が垂らされ、あちこちにポスターが貼られていた。最後の大会だからと、商店街では独自の旗を作って、売っているようだ。従姉の湊が旗をいくつか持っていて、デザイン性の高いものには賞が与えられるのだという。

 急遽できたいくつかのコンテストや催し物の中でも、やはり一番の目玉は駅伝だった。白い霧に覆われた朝の道を明司は走る。筋力が戻ってきたのだ。足に違和感もない。この調子なら、町中の平坦の続く五区くらいなら走ってもよいのではないか、と思えるほどだった。

 快調に足を運んでいると、町営団地のある大久保に通じる道から一人の青年が走ってきた。一度、自転車で荷物を学校へ運んでから、また家に帰って学校まで走ることがここ最近の二人の日課だった。朝練習は各自で行うことになっていたので、そうやって走り込んでいた。

 紫夕と合流すると、明司は商店街の中をわざと通って大回りをして鬼坂の下まで走った。日替わりでコースを決めるのも、明司の楽しみだった。紫夕は文句一つ言わずにいつもペースを合わせてついてくる。

 わずかに緊張感が陸上部の中に生まれていた。それは集中へと繋がっていて、よい方向に進んでいるようだった。にじむ汗を腰にぶら下げていたタオルでぬぐうと、紫夕の赤い瞳とかちあった。

「このまま駅伝に出ても問題ないくらいだな」

 紫夕の言葉に困ったように明司は眉根を下げた。

「走りたいけど、俺には次に走る場所があるから」

 それは次の記録会かもしれない、大会かもしれない、大学のグラウンドかもしれない。わからないが、明司の目指している場所はもっと遠くだった。そこに紫夕がいないのは、寂しかったが紫夕の追い求めるものとは違うのだから仕方ないと思っていた。

「そっか・・・・・・」

 紫夕の顔がわずかに暗くなったが、明司はそれを見て見ぬふりをした。触れていいことなのかわからなかったのだ。

「それにしても去年はなかったのに、今年は壮行会するんだな」

「最後だからね」

 最後だからなんでも盛大に行われる。壮行会には出場団体がやってくるし、それを見に近隣住民もやってくる。お祭りの前のお祭り状態だ。壮行会は午後からなのでまだ人影は見えないが、先ほど走った町中は色めき立っていた。

 沖町は限界集落、とまではいかないまでも、若者の少ない町だ。まるで最後の輝きを放つように、町全体が活気づいていて、今までに見たことのないような、人の息づかいを明司は感じていた。この町にこんなにも人がいたのかと思うような。

 鬼坂を上りきると、昇降口のあたりにひらひらと緩やかな風にたなびいているものがあった。黒赤い布に、黄色い文字で沖高等学校と書かれた横断幕だった。間に合ったのだ、明司は嬉しくなって、紫夕の腕をつかんだ。あれを見ろ、と指さすと紫夕の顔をも晴れる。

「すごい、こういうのあったんだ」

「あったんだって」

 テニス部が見つけてきたんだ、と言うと紫夕は驚いた顔をした。しばらく二人はその場にたたずんでいた。

 午後。

 壮行会に来た人で、体育館はごった返していた。ギャラリーにまで人が入って、教師は対応にてんてこ舞いだった。人数の割に広い体育館であることが幸いして、人が外にまで溢れることはなかった。なんとか整列すると、後ろに従姉の湊もいた。彼女は福祉課の人間だ。なぜいるのか、明司はわからないでいたが、前方に旦那の姿を認めて、応援に来たのだと理解した。

 彼女たちは十一月の七日に籍を入れた。あのあと親戚会議は紛糾して、一度旦那の実家に持ち越された。まるで国会のようだと明司は思った。旦那の実家の方はいたって冷静に、本人たちの意思に任せる、と結論をつけたのもあって、有川家はそれに従うことにした。とりあえず、籍だけ入れて、それから式などは予算の都合もあるので、本人たちのいいときに挙げることになった。

 登壇した町長が話し始めると、言葉に合わせてやんややんや、と言葉が飛び交った。黙って話を聞くような町人ではないらしい。明司はこの町が放つ熱をまぶしそうに見つめた。

 壮行会が終わると、後ろから声がかけられた。振り返ると後ろの方で見ていた湊だった。旦那のところへ真っ先に行かないのが彼女らしい。長年感じていた彼女への苦手意識がなくなっていることに気づいたが、形だけ、なぜ来たのかと渋面を作って見せた。

「すごい人だね。毎年こうなら、続けられるんだけど」

「最後だから特別なんだよ」

 この祭りが終われば町はひっそりと息をするのだろう。霧が地表の熱を奪うように、冷えていくのだろう。明司はそれが悲しいことだとは思わなかった。いつか帰るところがなくなろうとも、この思い出だけはなくならないだろうから。

 湊は仕事を抜けてきたらしく。励ましの言葉をかけると、旦那に会いもせずに学校を後にした。湊がいなくなると、すぐにに紫夕が横に並ぶ。最近、紫夕は初ではなく明司の隣によく来る。もちろんストレッチなどは初としているが、それ以外の時間を明司と過ごす。

「彼女?」

「従姉だよ」

「好きな人?」

「既婚者」

 紫夕は笑った。なぜ笑われたのかわからずに、首をかしげた。紫夕は答えずに、ただ隣に立っていた。



 雨が降っていた。それは本番前日のことだ。二十日は晴れると予報ではいっていたが、本当に晴れるか心配になるくらいの雨だった。バケツをひっくり返したような雨は突然で、当然、練習はなし。もちろん、軽い練習だけでもするつもりだった、沖陸上部は、最終調整ができずに、体育館で軽いストレッチを行っていた。

 明かりをつけてもどこか暗いくらいの空模様で、体育館は雨の音で声がまともに届かない。まだ人数はそろっていない。顧問も最後の一人を待っているようだったが、集合時間をすぎても来ないので、結局連絡を入れることになった。

 体育館の外で顧問が電話を始めたので、部長はストレッチを行うように指示を出した。明司も最近は練習に混ざっている。ほとんど調子を取り戻しているので、今は衰えた体力作りに励んでいる。

 和気藹々とした中、突然、顧問が血相を抱えて体育館の中に入ってきた。

「恵藤が自転車からこけた」

 恵藤は八区を任されているメンバーだ。この大雨の中自転車で来ようとしていたらしく、鬼坂の手前の橋元ですべって転倒したらしい。左腕を折ってしまったらしく、病院にいるとのことだった。命に別状はないが、明司には深い絶望のようなものを感じていた。せっかく頑張ってきたのに、と言う思いと、紫夕の恋の結末を見てしまったかのような。

 誰もが黙り込んだ。雨が体育館の屋根をたたく音だけが聞こえてくる。本番は明日だというのに、明司には打つ手が見当たらない。このまま終わるのか、そう思っていたら、初が明司を指さした。

「お前、足は大丈夫か?」

 でも、と言いかけて、足はもう完治していることを思い出す。あとは体力と勘を取り戻すだけだった。

(俺が走る?)

 八区はアップダウンの少ない平地だが、四㌔ほどある。途中でバテやしないか、明司は頷くのを躊躇った。ここで諦めてしまえば、二度と走ることのない大会だ。他の大会や記録会はまたいつでも出ることができるかもしれない可能性を残しているが、この大会だけは二度と来ない。

 誰もが明司を見つめるなか、不意に手を握られた。

「なぁ、俺の話を聞きに九区まで走ってくれないか」

 それはまるで、明司が紫夕を脅したときと同じような言葉だった。でも、伝えるべき相手が間違ってはいないだろうか。伝えるべきは十区の初ではないのだろうか。

 赤い強烈な目が明司を見ていた。その目の輝きは何度も見てきたものだった。その瞳の中にわずかに揺れる自分がいて、それを見た瞬間に、切なさがこみ上げてきた。この瞳は今だけ明司を映している。

 今伝えようとして、明司はやめた。

「・・・・・・俺も伝えたいことがある。八区、走るよ」

 基本的に控えの選手ではないと選手の入れ替えはできない。だが、今さら沖高校の辞退は望まれない。すぐに役場に連絡をつけると緊急の会議を開いてもらえたらしい。

 昼過ぎ。一応体を動かしたりストレッチをしたりしていた。雨はザァザァ降りからしとしとと音を変えた。誰しもが黙り込む。

 不意に体育館のドアが開いた。顧問が出られるぞ!と大きな声で叫ぶと同時に、再び沈黙が満たした。しかし一人、また一人と言葉の意味を理解すると、体育館は絶叫の嵐となった。

 沖高等学校は、北産業の強い後押しで駅伝の参加を認められた。


 十一月二十日。

 昨日までの土砂降りは嘘のように、空は高く澄み渡り、薄水色のペンキを流したような、晴天。気温は十一月にしては高いらしく、ジャージ姿でアップをする人の姿ばかりだ。時間にしてたった一時間ちょっとの短い駅伝だ。箱根駅伝のように二十㌔も走るわけではない。

 記録会では五千㍍を走るものからしたら、たった四㌔だ。アップダウンがあるとしても、そこまで苦にはならないかもしれない。それでも、明司は入念にストレッチをして体を温めた。明司にとって、走ることは息をすることに等しい。これまで息を止めていた。自転車で感じた風も土もすべて本物で本物ではない。明司が感じたいのはこの足だった。

 幸いだったのは、同じ区間に満田がいなかったことだろうか。満田は九区だ。紫夕が何か言われていないかと、心配ではあるが、北産業の後押しは主に満田の後押しだったらしい。扱いに困る相手ではあるが、全悪というわけではない。

 不意にスマホが鳴った。顧問からかと名前を見ると、紫夕の名前だった。急いで出ると、声がひっくり返ったようになった。それを電話越しに紫夕が笑う。

『緊張してる?』

「そりゃ、まぁ、久しぶりだしね」

『明司なら大丈夫』

「あ、うん」

 気の利いた言葉を言えなくて、歯がゆい。九区にたすきを繋げて伝えたいことがある。でも、それはちゃんと言葉にできる自信がなかった。紫夕を見ていると切なくなる。それはなぜかを問うのもいいのかもしれない。でも、まずは走り抜かないといけない。

「待っててね」

『うん。待っている』

 それで通話は途切れた。


 六区までの情報はスマホのチャットアプリで伝わってきた。どうやら北産業の後ろをぴったりとくっついて走っていたようだ。きっとすぐに七区の選手がやってくる。七区は一番短いコースなのだ。アップダウンは少しある程度で、比較的走りやすい。旧道と新道が合流する地点で、学校名が呼ばれた。北産業と沖高校だ。羽織っていたウィンドウブレーカーを脱いで、道に出る。ユニホームは深い赤に白く太い縦線が脇から下に走っている。

 遠くの方に少し離されたようだが北産業の後ろを走るそのユニホームが見えた。カーブで一瞬姿が見えなくなったが、その一瞬でスパートをかけた沖高校が北産業に追いつく。たすきを掴んで伸ばした手に手を伸ばす。走り出すと同時に、背中を押された。

 走れ、という気持ちが伝わる。

 明司は自分が特別だという自覚はなかった。足が速いと言っても、全国レベルで特別すごい記録を持っているわけではない。勉強がすごく得意なわけでもない。平凡なただの少年であることを自覚していた。

 だから、誰かに好かれることも、誰かを好きになることも劇的なことではないのだろう、と思っていた。普通に好きになって、いつか家庭を築いて、いつか新しい生命を育むのだと、思っていた。

 でも、今自分は特別な体験をしているのだとわかる。九区にたすきを繋げたい。それは先代から受け継がれてきたものであり、今七区からつながれたものである。

 その特別な脈筋の中に明司はいる。

 いつの間にか明司の前にも隣にも誰もいなかった。ほぼ同時にたすきリレーをしたはずだが、離されたのだろうか。手首の時計を確認すると、明司は怪我をする前とほぼ同じ速度で走っていた。離されたのではなく、突き放していたのだ。

 オーバーペースだ、そう思ってもスピードを落とすことはできなかった。心臓が生ぬるさを捨てるように鼓動する。本来、明司が走っていた世界がまた開ける。意外にも体は軽かった。紫夕と走っていたからだと気づく。彼がペースメーカーになってくれる。一緒に走っているという体感。

 叫びだしたい衝動にかられたが、リズムが乱れるのでやめた。まだ冷静な自分がいることに明司は驚いた。それに叫ぶ言葉も見つからなかった。口の端があがる。楽しい、それだけで走ることができた。

 ただ平坦な田んぼの真ん中を突っ切る道。国道と合流しても、ただ、アップダウンはない。徐々に自分のペースが落ちていることに気づいていた。だが、最初に突っ込みすぎたせいで、北産業もつられてペースを上げたらしく、後ろを振り返っても距離は変わっていなかった。

 ただ、九区へたすきを繋げたい、この切ない気持ちを届けたい。その一心で走った。遠くにぼんやりと自分と同じ色のユニホームを見つけると、たすきに手をかけた。

 だが、まだ届けるには早く。明司はすぐに手を離す。アスファルトを食む音が耳に聞こえてきた。オーバーペースで走ったせいで、息があがっている。

(しゆう)

 心の中で何度も名前を呼ぶ。

(君を見ていると、なぜか切なくなるんだ)

 なかなか縮まらないような気がして、焦りが生まれる。だがペースを乱してはいけない。この区間は走りやすいが、目標物との距離感が掴みにくいのだ。紫夕の後ろには急な坂が見えている。

 沿道に並ぶ声援が近くなった。白い髪が、緑の中に溶け込んでいる。とても君は綺麗だ、と明司は思った。そして明司はたすきをとった。軽く手の中におさめて、一度そこをぎゅっと握る。

 あんなに遠く感じた距離が、今度は一瞬で近づく。ラストスパートをかける。紫夕にたすきを渡した瞬間、明司は彼の背中をたたいていた。行け、と。紫夕は紫夕の思いを遂げるために、行け、と。


 湊の旦那は八区だったらしい。軽トラの後ろに乗せてもらい、明司は沖高校へ向かっていた。明司がたすきを渡して、二十五分後に沖高校の優勝がスマホに伝えられた。

 紫夕からも、あの糸目に勝った、とメッセージが寄越された。ほっと息をついた瞬間、はたはたと水がこぼれた。それは持っていたペットボトルからではなく、自分自身から流れているもので。

 明司は嗚咽を殺して泣いた。


 特別な瞬間は終わっていた。顧問が回収してくれたジャージに着替えて、校庭に出ると、役場が頑張って作ったという音楽祭のためのステージが校庭の奥に用意されていた。陸上部も今日は解散してよいと言われたので、明司は古い校舎の昇降口に向かった。

 そこはこんなときでも人はいなくて、ひっそりとしていた。遠くでカラオケ音源が流れてくる。まずはカラオケ大会らしい。新しい椅子は見えるところにはなかった。どこにいったかと、物陰に移動すると、薄暗がりに人の足が見えた。

 喫驚して、声をあげそうになったが、すぐにしぃと声がした。よく見ればその足はよく知った顔と繋がっていた。白い髪に白い肌、赤い目をした彼。

 紫夕が座っている場所からは、ライブ会場がよく見えた。今は、我らが顧問がカラオケを熱唱している。それをみて思わず笑ってしまった。

「伝えたいことがあるんだ」

 紫夕の静かな声が校舎に響いた。ゆっくりと立ち上がって、明司の前に立つ。その瞳は燃えていた。

「俺も、ある」

 先にどうぞ、と目で促されて、明司はごくりとつばを飲んだ。八区の明司から九区の紫夕へ。

「俺は、紫夕を見ていると、とても切なくなるんだ。なんでだろう。わからないけど、紫夕はとても綺麗に見える」

 赤い瞳が柔らかく笑った。その瞬間、明司はこれが恋なのかもしれないと思った。

「こ、これで最後、かもしれないのは、寂しいけど、ありがとう。走ってくれて、ありがとう」

「溢美、知ってる?言葉の意味」

 明司は小首をかしげた。

「褒めすぎ。俺は綺麗じゃないよ。綺麗に見えたのなら、それはまやかしで、俺は、お前の気持ちを利用しようとしていた、卑怯者だ」

 初めて芽生えた恋。それは叶わないものなのだ。明司は自覚しているから首を横に振った。

「走りたかったのは、明司だけじゃない。俺も走りたかった。明司と」

 だから、あのときはったりでも伝えたいことがあると言った。そうすれば明司は走るだろうと、そう考えて。紫夕は早口で言う。

「明司が俺に八つ当たりしたときに、言いたかったことがある」

「何?」

「俺と走ってくれ。他の誰でもない、俺と、走ってくれ」

 それは告白にも似た強烈な言葉だった。好きよりも苛烈に咲く花。溢美に咲く花。

「・・・・・・走ろう。俺は、まだ伝えたい」


おわり

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