マネさんの失敗

増田朋美

マネさんの失敗

今年は例年に比べて二週間近く梅雨明けが早かった。それと一緒にやってきたのは、ちょっとでも汗が出てしまいそうになるような暑さである。ちょっと動いただけなのに、汗が大量に出て、電気代だけが上がるという日々が続くのである。そして毎日空襲警報と同様にやってくる、節電を呼びかける放送。もう安定した暮らしというものは、二度と来ないのかもしれない。

そんな暑さのせいか、水穂さんは咳き込んでなかみをだす発作を繰り返していた。時々由紀子が来訪して、水穂さんの世話をしてくれるが、誰かずっとそばについて看護してくれる人が必要なことははっきりしていた。その日も、杉ちゃんたちがお昼の支度で忙しくしていると、水穂さんがまた咳き込み始めた。由紀子は急いで水穂さんのもとに駆けつけたが、それには間に合わず、結局畳を汚す大惨事になった。由紀子は大丈夫?苦しい?と声をかけてあげたが、ごめんなさいと言おうとして、水穂さんはまた咳き込むことの繰り返しであった。

「あーあ。またやったのね。いつになったら、落ち着いてくれるんだ。畳の張替え代がたまんないよ。」

ご飯を持ってきてくれた杉ちゃんが、汚れた畳を拭いている由紀子と、ぐったりと布団で寝そべっている、水穂さんを眺めながら言った。由紀子は、そんなことを平気で言う杉ちゃんを、嫌な目で見た。

「そんな顔しないでよ。確かに僕らもなんとかしなくちゃいけないけど、本人が動かなければどうにもならないよ。」

「でも今日は暑いんだもの。水穂さんにとって、辛くても仕方ないわよ!」

由紀子が急いでそう返すと、

「これからもっと暑くなるよ。そんなこと言ってたら何もできなくなっちまうよ。暑い中でも、それなりになんとか生きていかなくちゃ。」

と、杉ちゃんが言った。確かにそのとおりなのである。それしか人間にできることもない。つまり、おきたことに対して、どうするかを考えるしか無いということだ。

「誰かに世話を頼むと言っても、そういう会社は、ターゲットは年よりばかりで、水穂さんのような人を手伝ってくれる人は、ほとんどいないよ。家政婦さんを頼むにしても、ジョチさんが虱潰しに、家政婦斡旋所を当たってくれたらしいけど、水穂さんが、やる気が無いから、みんな音を上げてすぐに辞めちまうんだ。だから、そういうところに頼んだって全く意味がないよ。」

杉ちゃんが言うことも間違いはなかった。

ちょうどその時。

「只今戻りました。」

と言って、製鉄所の利用者の一人である、白石萌子さん、あだ名はマネさんと呼ばれている女性が、お使いから戻ってきた。

「買ってきましたよ。ちょっと大きなスーパーだと、カレーのルーも色々あって迷いますよ。一番、売れているカレールーを買ってきましたよ。」

そう言いながらマネさんは四畳半に入ってきた。ちょうど、由紀子が、畳をビショビショにして、真っ赤な液体を拭き取っているのが見えた。

「また、やったんですか。」

マネさんは、すぐに言った。

「ごめんなさい。」

水穂さんは、やっとその言葉が言えた。

「だからあ、お前さんは、すぐに眠っちまえ。本当にさ、せめて、一日三食しっかり食べるとか、そういう目標を持ってくれ。でないと、僕らが浮かばれない。ごめんなさいなんて言わなくてもいいけどさ。でも、ちょっとは、本人もなんとかしようと思わないと!」

杉ちゃんがそう言うと、由紀子は、額に滲んだ汗を拭いた。汗が目に入って痛いのだろう。

「由紀子さんも、毎日ここへ来られるとは限らないし。誰か手伝ってくれる人が見つかるといいですね。」

マネさんは、杉ちゃんに言った。

「いいですねじゃだめなんだ。そうじゃなくて、思ってるだけじゃだめで、実行しようと思わなくちゃ。また、答えは期待できないけどさ、家政婦斡旋所に電話してみるか。病院なんて、同和地区から来たやつを入院させるなんて、今年はなんて間が悪いとか、そういう愚痴を漏らしてさ、何も治療もしないで放置しておくのが落ちだろう。そんな可哀想な真似は、僕らはさせたくありませんからね。医者なんて、偉ければ偉いほど、自分のことばっかり考えちゃってさ。患者のことなんてどうでも良くなるんだ。そんなやつに、水穂さんを見てもらうなんて、こっちはお断りだぜ!」

杉ちゃんはすぐに反論した。

「でも、偉い先生だったら、見てくれるんじゃ。こんなに大変では、専門家に見せてあげたほうがいいのでは無いでしょうか?」

「ああ、無理無理無理無理。偉いやつなんて、皆馬鹿だから、バカなやつのおかげで、偉さが際立つことを知らない。だから、水穂さんを見てくれる人なんていないよ。」

マネさんがもう一回言っても、杉ちゃんはすぐに打ち消した。由紀子も、

「そうねえ。」

と、小さなため息をついて言った。

「いろんな病院に連れて行ってあげたけど、誰かに頼らないと、見てもらえなかったわ。あたしも、本当は医療を受けてもらいたい気持ちはあるんだけど、それは、、、もうね。」

なんだかその、もうね、が、えらく重たかった。その言葉を聞いてマネさんは、いくら脱出を試みても異世界から逃げられなかった、というある人の小説の一場面を思い出した。でも、小説は小説であった。現実とは違う。水穂さんを手伝ってくれる人材や、医療機関に導いてくれるような人材が、きっと見つかるのではないか。よし、思っているだけでは行けないんだ。それなら、行動しよう。マネさんはそう誓った。

その翌日。製鉄所の中庭に植えられている、イタリアカサマツの剪定と治療のため、樹木医の立花公平さんと、庭師の正吉じいさんと製鉄所の利用者に呼ばれている、木本正吉さんというおじいさんが製鉄所に来訪した。まず立花さんが、松の木を観察した。しばらく木を眺めていた立花さんは、だいぶ元気を取り戻してくれたようですねといった。そして立花さんの指示で、正吉じいさんは、余分な枝を切っていった。二時間ほど作業をして、松の木は、それまでの乱れた枝をきれいにして、見違えるほど立派な木になった。

「いやあ、ありがとうございます。おかげで松の木もかっこよくなりました。なんか、木もペットみたい。愛情をかけて育てれば、すごく良くなるんですね。じゃあ、お茶をどうぞ。」

接客を頼まれていたマネさんは、急いで立花さんと、正吉じいさんにお茶の入った湯呑を差し出した。二人は、ちょうどお昼どきなので、ここでお昼を食べて帰りますといった。二人は、松の木の近くにある岩の上に座って弁当を食べ始めた。立花さんのは、よく分かるコンビニ弁当であったが、正吉じいさんのは、立派な松花堂弁当というものであった。作業が終わると、立花さんたちは、やっぱりご縁の話で盛り上がる。まだコンビニ弁当ということは、いい人もいないんだな、と正吉じいさんは、よくからかっていた。

「まあ、そういうことで、木にはモテるんですけど、人間の女性は、全然興味が無いみたいですね。まあ、木のお医者さんなんて、地味な仕事ですからな。それより、正吉さん、そんな立派な松花堂弁当、どこで買ったんですか?」

と、立花さんが正吉じいさんに聞くと、

「ああ、自分で作るのも、暑いから面倒なので、宅配弁当会社にお願いしてるんだ。」

正吉じいさんは、答えた。

「宅配弁当?最近流行りですよね。なんとかの宅食とか、あと何かな。いろんなメニューが食べられて楽しいじゃないですか。」

マネさんが正吉じいさんに話すと、

「いやいや、そんな大手の会社じゃないよ。頼んでいるのは、株式会社ポカホンタスという会社だよ。」

と、じいさんは、にこやかに答えた。

「ポカホンタス。聞いたことがない弁当会社ですね。」

立花さんが口を挟む。

「いやあ、大規模な会社じゃないんだけど、もともと、おばあさんたちの料理のサークルだったらしいんだ。それが、面白い料理を作るということで評判になってね。こういう宅配弁当として、商品化したらしいんだよ。こういう普通の弁当ばかりではなく、飲み込むのがちょっと苦手になってしまう人向きの、介護用の弁当も作っているみたいだよ。」

お年寄りは、口が軽いというか、話好きだ。にこやかに笑って、正吉じいさんは、そう説明してくれた。

「その宅配弁当会社は、どんな人が利用しているんですか?高齢者だけですか?それとも、飲み込むのが難しい人であれば、年齢関係なく、お弁当を売ってもらえるんですか?」

マネさんは思わずそう聞いてしまう。

「ああ、そうだねえ。わしは、高齢者ということで利用させてもらっているんだけど、たまに弁当の配達員さんから、ALSとかそういうご飯を食べられない人にも、届けたということを聞いたことがあったから、そういう重い障害がある人も、利用しているんじゃないかなあ。」

正吉じいさんは、ちょっと考えて、答えてくれた。それを聞いてマネさんは、もしかしたら、そういう会社であれば、水穂さんのような利用者もいるのではないかと思った。そこのトップの人に聞けば、もしかしたら提携している看護人の斡旋所とか、あるかもしれない。マネさんは、立花さんと正吉じいさんが帰ったあとで、こっそり株式会社ポカホンタスと、インターネットで検索してみた。すると会社は、富士市内にあり、製鉄所からさほど遠くないところにあることがわかった。更に、ウェブサイトもあり、それを見てみると、お年寄りばかりではなく、たしかにALSの人や、心臓疾患などがあって寝たきりの人なども、弁当を受け取っていることもわかった。ここであればなにか、教えてくれるに違いない。社長さんは、土師熙子さんという、明智光秀の奥さんと同じ名前のおばあさんだった。よし、この人にあって、ちょっと相談してこよう。おばあさんであれば、自分の話を聞いてくれるに違いない。マネさんはそう決断した。

翌日。スマートフォンのナビゲーションアプリを頼りに、マネさんは、株式会社ポカホンタスがあるところにいってみた。会社と言っても、正吉じいさんがいったことは本当で、製造工場も有していない、やや大きなだけの家であった。でも、誰かが弁当を作っているらしく、常にうまそうな匂いが外に漏れていて、中には幸せな気分になれるのではないかと思われた。

マネさんは何の迷いもなしにチャイムを押した。すると、

「はい、どなたでしょう?」

と、おばあさんの声がしたので、

「あの、私、白石萌子と申します。報道関係とか、そういうのではありません。社長さんの、土師熙子さんにお目にかかりたいんですが。」

マネさんは、正直に自己紹介した。

「少しお待ち下さい。それは私です。」

しばらくして、玄関のドアがガチャンと開いた。中から、80を過ぎたおばあさんが、マネさんを迎えてくれた。とてもきれいなおばさんだった。この人が、土師熙子さんだろう。マネさんは、彼女にお入りくださいと言われて、部屋の中に入らせてもらった。お茶を飲むまもなく、マネさんは、水穂さんのことを、一生懸命話した。同和地区の出身者であったために、医療を受けられないということを、一生懸命おばあさんに伝えたつもりだった。熙子さんは、最後には、涙を浮かべて、なんとか、手伝ってくれる人材がほしいと言うマネさんの話を、最後までちゃんと聞いてくれた。

「白石さん。」

熙子さんは、マネさんに言った。

「あなたの気持ちはよく分かるわよ。あなたが真剣に水穂さんのことを思っていることもちゃんとわかりました。でも。」

「でも?」

マネさんは、すぐに彼女に食らいついた。

「それは、本当に、水穂さんにとって、楽になることかしら?」

「え?」

熙子さんの答えにマネさんは、思わず言ってしまう。

「もう一度言うわ。きっと、医療関係の人に、馬鹿にされて、一番つらいのは、水穂さん自身よ。」

「そんな、、、。」

マネさんは、おばあさんの柔らかすぎる態度に、がっかりしてしまったというか、そう言われて腹がたったというか、複雑な感情を抱いてしまったのだった。

「なんで、、、。」

思わずそう言ってしまう。

「なんで、そうなってしまうんですか。私はただ、水穂さんに少しでも楽になってもらいたくて、相談してるのに。」

「ええ、それはわかるわよ。でも、同和問題は非常に重いものでね。素人では、解決できないことがたくさんあるの。それを、水穂さんが知っているから、医療機関にも行きたがらないんじゃないかな。楽になってほしいんだったら、できるだけそっとしてあげたほうが、いいのではないかしら。」

熙子さんは、静かにそういうのだった。

「でも私は、なんとかしてあげたいと思うんですけど。」

マネさんがそう言うと、熙子さんは、

「経験してみればきっと分かるわよ。あなたはまだ若いから、そういうことが見えてないだけ。そのうち、世の中にはどうにもならないこともあるんだってことがわかって、今まで以上にきっと、人の悲しみとか苦しみとかわかるようになれるわ。」

と、にこやかに笑っていった。

「わかりました!私、もう相談なんかしません。それでいいですよね。私が、なんとかします!」

マネさんは、熙子さんと対立するように言った。もうどうして年寄は、こういうのんびりしたセリフを言うんだろう。そういう悠長なことを言っている場合ではない。まあ、お年寄りが言うことは、役に立たないんだな。マネさんはそう思いながら、お暇しますんで失礼しますと言って、すぐに熙子さんの家を出た。

家を出て、バス停にマネさんは向かった。バス停までどうやって歩いてきたのか、マネさんはよくわからなかった。怒りに任せて来てしまったという感じだったのだろう。ふと、道路を見ると、男性の声で、

「5、6、7、8、9、10、、、。」

と数を勘定している声が聞こえてくる。マネさんが前方を見ると、一人の白い杖をついた男性が、バス停にやってきたのだった。

「公園から、バス停まで、13歩。」

と言って男性の声は止まった。

「何を勘定して、」

思わずマネさんが、声を出して言うと、男性は、マネさんの方を見ようともしないで、

「すみません、癖なんです。」

と言った。つまり、この人は盲人なのだ。なのでマネさんの声は聞こえるけれど、マネさんがどんな顔をしているか、見ることはできないのだろう。もしかしたら、見ることがどんなことなのかも知らないのかもしれない。

「あの、バスは、何時に到着するんでしょうか。点字の時刻表が無いので、申し訳ないのですが。」

「ああ、ああ、14時丁度に来ます。」

男性に聞かれてマネさんはそう答える。

「ありがとうございます。海外へ行けば、点字の時刻表がある国家もあるようですが、日本ではまだまだそれはありませんね。」

そういう男性に思わずマネさんは、

「ええそうですね。何よりも、お年寄りが、綺麗事ばっかり言ってて。私達の具体的な悩みなんて、何も聞いてくださらないですからね。」

と言ってしまった。

「そうですね。」

男性は、嫌な顔もせず、彼女の話にあわせた。

「確かに、日本では世代間の繋がりというものが、機密でなく、かけてしまっていることが多いですからね。まあ、障害者や、お年寄りは捨ててしまうという文化でしたから仕方ないかもしれないです。僕もそういう人の話を聞いたことがあったので、なかなか世代性を生きるとか、そういうことは難しいなと思いますね。」

と、言うことは、なにか特別な仕事をしているのだろうか。まあ、盲人ということで、普通の仕事につくのは難しいだろうから、特殊な仕事をしても、おかしくはない。

「なにか、嫌なことでもあったんですか?そういう言い方でしたから。」

男性にそう言われて、マネさんは、やっぱり自分の予感は当たったと思った。もしかしたら臨床心理士とか、そういう職種の人なのかな。

「あの、なにか、カウンセリングとか、そういう仕事をされているんですか?」

マネさんは思わず聞いてみる。

「いえ、ただのあはき師ですよ。一応、盲学校の付属の教育機関で、心理療術師の資格は持ってますけど、そんなもの、実際に話しを聞いていると、何も役には立たないです。カウンセリングの技法とか、そんなものは何も役にたちはしません。それは一種の飾り物です。」

そう答える男性に、こういう人なら、水穂さんを楽にしてくれるのではないかと、マネさんは思った。

「そうなんですか。今まで、どんな人のカウンセリングとかされてきたんですか?」

と、マネさんは急いで言った。

「ええ、カウンセリングというかっこいいものではありませんよ。ただ、僕らは、悩んでいる人に、悩みを解決する方へ気づいてもらうように、持っていくだけです。もちろん、変われないこともあるでしょうから、そういうときは、意識を変えてもらうとか、そんなこともしてもらわなければなりませんが。でも、基本的には、クライエントさんにお話してもらって、変えられることは変えられる方へ、変えられないことは変えられないにも楽になるようにアドバイスするだけです。それだけのことです。年齢も、職種も関係ないのです。ただ、聞いてほしいだけの人は、いっぱいいます。」

そういう男性に、こういう人であれば、もしかしたら、話を聞いてくれるのではないかとマネさんは思った。

「もし、よろしければ、お名前と連絡先を聞いてもよろしいですか?私は、白石萌子と申します。今、大切な人がいて、その人が、とても、大変な病気で、医療も受けられないで、ずっと、寝たきりの状態で。手伝ってくれる人がほしいんです。それで、今ポカホンタスさんに相談に言ったんですけど、何も答えになりそうな答えが得られなくて。年寄は、そういうものですよね。それなら、あなたみたいな人に、お願いしたほうがいいと思いました。ぜひ、私達のところに来てもらえませんか?」

早口で、マネさんがそう言うと、

「わかりました。僕は古川涼と言います。連絡先は、こちらです。」

そう言って涼さんは、背広の胸ポケットから、名刺を取り出して、マネさんの前に差し出した。マネさんは嬉しい持ちでそれを受け取った。それと同時に、大型バスが、二人の前にやってきた。




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マネさんの失敗 増田朋美 @masubuchi4996

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