泡沫の夢

 ────五年前。暖かな光の中で目を醒ました瞬間を今でも憶えている。


 生きている限り無限に訪れ、その日のうちに記憶の波にさらわれ忘れ去られるいつも通りの朝とは違う。その日の朝だけを私は忘れられないのだ。

 なぜなら、その前日に故郷が滅ぼされる地獄を経験した事を忘れるほどに……。血の臭いと色々な物が燃える様子を思い出しても夢ではないかと思うほど、朝の空気が平和だったからだ。



「気が付いたか。もう大丈夫、都までこの俺が付いてるから」



 一緒の荷台の向かい側、私の"生まれつきの呪い"で凍てつく空間の中。彼は優しい微笑みを浮かべて目の前で座る。後ろ髪を一つに結えている男────ありし日の朱路さんを見て私は、やっと前日の出来事を現実と認識して泣き崩れた。




 神屋楯国カミヤタテノクニ凪町ナギノマチは、永遠に失われてしまったのだ。




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「いさぎちゃん、気持ちは分かるが……食べないと死んじまう」



 身柄を保護されてから私は、事件のショックで何をするにも手つかずになり、荷台の中で座りっぱなしだった。

 何かを食べようとすれば、両親が週末に作った味噌汁と魚料理が思い浮かぶ。

 外を歩こうとすれば、もういない友人達の姿を思い出す。

 毎朝自分の天然の呪いであれ鬼道・呪術を見れば×××××××─────その刹那に鋭い頭痛が起こり、呻き声をあげ頭を抱える。視界が明滅し、ザーーーッという大きな耳鳴りに包まれる。自分が自分でない様なフワフワとした感覚でおかしくなる。



 だからこの時は、目に入るもの全てが毒に映った。



「…………少し、俺の昔話をしたい。返す必要はないから。とにかく隣座るね」



 朱路さんは私の横に腰を落とし、椅子がわりに置いてある板に背をもたれる。

 私はぼぅっとその様子を多分死んだ目で眺めていた。



「君には好きな人、いた?家族とか」



 それはもちろん、沢山いた。両親、友達、天野の守手もりての叔父様……………。



「いただろうな。俺にもいた、けど、もういない。なぜならその子は黒妖魔こくようまの種族でね…………知ってるかもしれないが、噂を信じた馬鹿な国際自警団に黒妖魔の集落は根絶やしにされた。その子ももう、多分生きちゃいない」



 朱路さんは首元から、翡翠ヒスイのペンダントを取り出す。ペンダントはひどく欠けており、そして表面に石屑いしくずが取り付いているなど、見るからに質の良いものでは無かった。



「俺の宝物だ、今ではあいつの形見になったが。二人で割って分け合ったものだ。あいつはもういないけど、この宝物を見るたびに死にたい時でも、生きなきゃって思えた。この気持ちが呪いの様だと感じた事は数知れないが、今じゃありがたい」



 小刀が、私の目の前に置かれた。それには確かに見覚えがあった。黒ずんではいるものの、無印むじの紋様が掘られた独特な木製のさや、紫色の糸で硬く締められたつか………私は泣き腫れた目を広げて、ハッと朱路さんを見上げる。

 それは今年の私の誕生日のお祝いに、両親がくれた珍しい小刀だった。



「やっぱ大事なものだったか。落ち着いた時に渡そうと思ってた。これだけしか、取り返せなかったからね……」



 もう泣き疲れて枯れたはずの涙が、また溢れる。大きな悲しみを猫の額ほどの安心感が薄く包んでいく。



「でも、今の君にはこれが必要だと思う。呪いだとしても、多分」





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 都に向かういつ時かの昼下がり、罠にかかった鹿を締めた帰り道を思い出す。



「朱路さんは、なぜ軍人に?」

「そうだな…………割と成り行きだよ。理由なんてない」

「そうですか、でも、朱路さんが軍人で良かった」

「………そっか」

「あなたの様に強い力で皆んなを守れたらもう、あんな辛い思いせずに済むって思った」



 朱路さんは黙って頷くだけだった。私は少し考えて、続ける。



「話変わるけど朱路さん。私に才能があるって、本当ですか?」

「それに関してはとんでもない程あるよ。十年に一人ともいないだろうね」

「じゃあ決めた、私、軍人になります。あなたみたいに、強くて優しい軍人になりたい。これから新しくできる大切な人とか、知り合いとか、そうでない人も、みんな守れる様に」




 ***

 ***

 ***



 バチッッと覚醒とともに、夢に映る記憶が破り去られた。

 ぼうっと昨日のことを思い出す。


 身体を覆う氷が溶け始めていた。朱路さんに殺されかけたのは夢ではなかったのだな、と、失望にも似たぐちゃぐちゃな気持ちで泣きたくなった。


 恐怖感で高鳴る心臓と心を何とか鎮める。

 状況を確認したくて顔を上げると、少し離れた場所からこちらの様子を伺っている様子の朱路さんと一人の男が見えた。

 賭けは通らなかったことを悟り、肌が粟立った。


 一気に氷塊を解除して、残された僅かな呪力を込めた氷刃ひょうじんの切っ先を彼らに向ける。


「来ないで」


 緊張で声音が上擦れた。感情のたかぶりで自然と涙も溢れた。

 もう、格上に抵抗するだけの余力も無い。最早絶望の中で足掻くことしか…………。

 害意を感じる朱路さんの右手がこちらに向けて持ち上がる。それが嫌にゆっくりに感じた。



 鉄の様な質量を持つ空気が、手のように私の首を鷲掴わしづかみにして持ち上げる。悲鳴は押さえつけられた喉を通って潰れた。もがき、氷刃を振り回した。その氷刃が自分の体に触れ、傷を作っている事すら気が付かなかった。視野は狭窄きょうさくし、呼吸は浅い。周囲の音が遠ざかる。

 本当に死ぬ────。軍人になって二年かそこら、何もできず、何も叶えられず、憧れたはずの人によって。



 その時、フッと身体が軽くなり冷たい地面に身体が触れた。

 解放された首、気道から必死で空気を吸い込み、地面をいて叫んだ。呼吸と共に搾り出される声で落ち着き、わずかに暗く覆われた視界が晴れる。


 その時、自分の目の前に朱路と一緒にいた男が、自分を守る様に背を向けて立っているのが分かった。何が起きたのかは分からない。だが、これにすがらなければ死ぬ。


「助けて……」


 気力を搾り出し、掠れる声で私はその男に頼んだ。

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