三題噺「声」「額縁」「部屋」(約2,400文字)

 なんだかおかしな声が聞こえた気がした。


 文字にするなら「フギャー」か「ハギャー」みたいな感じ。まあ無理もない、今の揺れはなかなかだった。外の木陰で涼んでいてもわかるくらいの地震はひさびさで、そういやなんかすごい音もしてたなと、そこまで考えた時点でようやく「あっ、お向かいさん」と思い当たる。


 ——自分のところがも同然だったから忘れていたけど、あそこ大変なことになってない?


 それは真夏の盛りを過ぎたあたり、夏休みの終わり際のこと。

 私が連日高校に通い詰めているのは、もちろん学校が大好きだからってわけじゃない。といって不真面目さが祟っての補習地獄というのも違う。端的に言えば部活というか、あるいはその真似事みたいなものだ。


 高校の敷地の端も端、今にも崩れそうなおんぼろのプレハブ小屋。その一番南側が私の入り浸っている軽音部の部室で、そしてその向かいが魔窟こと美術部だった。

 すごい。入口の木製ドアがボロボロなばかりか、なんだか大変ファンキーなペインティングがなされていて、そしてその小さな窓から覗く室内がまたすごい。見たこともない怪しげな道具みたいなものが山ほど詰め込んであるし、あとドアに近付いただけで「うっ」ととなるというか、嗅いだこともない変な匂いが漂ってくる。


 怖い。どう見ても怪談話に出てくる「おめぇ、あの部屋入ったんか!」のやつだ。祟られるのも嫌なのであんまり見ないようにしていたのだけれど、でもある日開け放たれていた窓から偶然見えてしまったのが、全身汗でびしょびしょにしながら巨大な絵を描く〝姫〟の姿だった。


 ——そっか、油絵ってこんな匂いがするんだ。


 彼女のおかげでひとつ物知りになって、そうなるとさすがに無視もできない。正直あまり関わり合いになりたくないのは、彼女がどうとかではなく私にやましいところや後ろめたいことがあるからなのだけれど、でもだからこそご挨拶くらいはしておく必要があった。だって、知らなかったのだ。こんなところで、どう見ても人のいちゃいけない呪いの小部屋で、まさか毎日絵を描いている人がいただなんて。


 ——集中力のいる作業でしょうに、向かいで毎日爆音鳴らしてごめんなさい。


 やめる気はないけど。でもいっぺん謝るだけ謝っとけばまあ筋は通したことになるでしょ、と、ただそれだけのつもりがでも世の中は甘くない。この姫、どうも思っていた以上におかしな女で、私に抗議するどころかむしろ「こっちこそごめんね、くさくて」みたいなことを言って、そしてそれがすべての始まり。


 たぶん、こういうのを「ウマが合う」っていうんだと思う。

 なんか自然と仲良くなって、毎日わざわざ顔を合わせては雑談なんかにかまけて、そんな夏がゆっくり終わりかけてきた頃、突然大きな地震が来た。フギャーだかハギャーだかわかんない姫の叫びが聞こえて、同時に響くなんかものすごい音。どんがらがっしゃーんと、プレハブ小屋、たぶん私のよく知る部屋から。


 ——まずい。


「ちょっと姫ー! 生きてる?」


 血の気が引いた。大慌てで駆け出して、そして例の始まりの窓の外、彼女の作品が転がっているのを見た。よかった。お前だけでも逃げ出したか——ではなくて、私の気がかりはそれを避難させた張本人であろう姫だ。その名を叫びながら窓に駆け寄り、そして覗き込んだ室内、私はちょっと信じられないものを見る。


「ひえっ……」


 部屋の中央。うずたかく積み上がっていたのは——間違いない。


 すぐそばのスチールラック、そういえば無造作にぽんぽん放り込んであった、ものすごい量の額縁だ。


「だれかー」


 そんなか細い声が、その額縁の山の中から響いてくる。うそでしょ。さすがにゾッとしたというか悲鳴を上げたというか、もう半泣きになって部屋に飛び込んだ。無我夢中で額縁をどかして、その詳細はもうあんまり覚えてないけど、でも中から姫が出てきて腰が抜けかけたのだけはよく覚えている。この野郎。めちゃくちゃ心配させてくれて、でも怪我ひとつなくピンピンしているのは本当に良かった。


「いやあ、本当にね。この石膏像がもうちょっとずれてたら死んでた」


 そんなことをヘラヘラ笑いながら言うから、自分でも聞いたことのない声が出た。わろとる場合か。もし私がいなかったらあなたここで生き埋めの蒸し焼きになってたんですけどと、その悲鳴に「ごめんね。ありがとう」と優しく髪を撫でられた瞬間、私の中で何かが——これまで、それでも、一応守ってきたつもりの何か遠慮か他人行儀みたいなものが、音を立てて陥落するのがわかった。


 ——伊達に一個上の先輩してないっていうか、こういうときだけそういうのはずるい。


 よかった。本当に、どうあれ、この人が無事で。そんな安堵の気持ちが私を当人の目の前、みっともなくポロポロ泣かせるに至って、だから本当に困ったのはその先だ。


 夏の終わり。でも本当に夏休みが終わるまでには、まだ何日か残っている。でもさっきも言ったとおり私に騒音公害をやめる気はなくて、だからまた明日からも続くこのご近所付き合い、私は一体どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう?

 いや私は命の恩人なんだから堂々としていればいいのだろうけれど、でもそれはそれとしてなんか困る。クールな敬語キャラの化けの皮が剥がれて、安心し切った涙を見せてしまった相手なのだと、これから顔を合わせるたびに意識する——とまではいかずとも、でも何か、またひとつ、心のバリアを剥がされてしまったのはきっと事実だ。


 平たく言うなら、恥ずかしい。

 なんでかは知らない。でも、どうあれ私がそう感じる以上、それはもうどうしようもない事実なのだ。


 ——なんて。

 冷静にそう思えるようになったのは、というか不意にフラッシュバックのように思い出したのは、その日、帰宅してお風呂に入っている最中のこと。


 はてさて、フギャーだか、それともハギャーだか。

 それこそ自分でも聞いたことのない、なんだかおかしな声が響き渡った気がした。




〈三題噺「声」「額縁」「部屋」 了〉

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