三題噺「黄色」「死神」「きれいな大学」(約1,500文字)

 展望台から眺める学びはとても小さくて、日々の悩みがなんだかちっぽけに思えたという以前に、

「……ん? あの、先輩。もしかしてあれ、燃えてません?」

 私のその言葉に、でも先輩は無言のままそれをうっとり眺めていたから、その瞬間「あっ、こいつだ」ってわかった。


 ——ねえあさかわさん、僕たちのこの大学は、もっときれいであるべきだと思わないかい。


 それが先輩の口癖で、そして彼にはもうひとつ持論があった。人の作った建物は、それがどんな魔境魔窟の類であろうと、しかし燃え落ちる姿だけは尊く美しい、と。

 普通に思った。やべえなこいつ、と。一体なんて研究室に来てしまったのか、いくら悔いても悔やみきれない


 ——やっぱり教授のあだ名が〝死神〟の時点で察するべきだった。

 忙しすぎる。研究に学会にと、滅茶苦茶なスケジュールで人間を使い潰して、そんな中唯一生き残っている先輩は、もう完全に心が壊れていた。どうやら結果的にはそうだったらしいと、いま遠く眼下で燃え盛る研究室を見てようやく気づいたのだけれど、でもそれまでは普通に救いの神だと思った。過労で完全におかしくなっていた私に、少し研究を離れてみないかと、そう優しく声をかけてくれたのが彼、まさ先輩だったのだから。


「浅川さん。そう思い詰めるより、一旦遠くから俯瞰してみるのもいいと思うよ。きっとクリアに見えると思う。いま君の抱えたすべてのタスクの、こう、焼け落ちるところが」


 なるほど、と私は頷いて——いやこうして振り返るとこの時点で完全に予告してたのだけれど、でも私はそんなことに気づく余裕すらなかった。限界だった。最近なにを食べても味がしなくて、顔色もずっと死体のようで、そんな私を優しく気にかけてくれる、そんな余裕のある先輩だったらいいなと、そんな叶うはずのない夢に縋ってしまった。


 止められなかった。私は、この恐るべき怪物を。


 ——かくなる上は。


「……ふふ、なんてね。びっくりしたかい? 実はあの建物はね、この展望台から見下ろすと、気温差と空気の層の関係か、まるでゆらゆらと燃えて見ウオオオオオ」


 絶叫。同時に放たれた大ぶりの右フックが、私の側頭部に炸裂する。よかった。「こいつだけは刺し違えてでも殺さなきゃ」という、そして「そのあと私もここで腹切って死のう」という、その私の覚悟は彼の抵抗というか反撃により未遂に終わった。遠のく意識。カクンと腰から下の力が抜けて、そのまま地面に倒れ込む私の、その様子はもちろん私自身には知覚のしようがない。だから、知らない。たとえばうつ伏せに突っ伏して、びくんびくんと痙攣しながらこれまでずっと我慢していた何か、黄色い生き恥をしょろしょろ垂れ流したのだとしても、そんなの知らないっていうか強制心中未遂に比べたらなんてことはない。


 ——と、いうか。

 公衆の面前でド派手に失禁なんかしちゃえば、もう大抵のことはどうでもよくなる。


 わる。逆に、何か肝のようなものが。多少学会をサボろうが研究が台無しになろうが、教授に「うるせえ死ね」と返せるようになった。毟った。彼の頭頂部、その寂しい頭髪を、もう何度か。

 結果オーライ、おかげでもう思い詰めることもなくなった私の、目下最大の関心事はひとつ。解放すること。未だ死神の手の中に囚われたままの彼、正木先輩を、私と同じく。

 恩返し。そのための方法を、でも私は彼から習ったそれより他に知らない。


 大量の飲料水と、結束バンド。あと、バケツにモップに、雑巾も。

 研究室の机の下、密かに用意したそれらを隠したまま。

 あの熱いロシアンフックの感触を思い出しながら、私は今日も先輩を見つめ続けるのだった。




〈三題噺「黄色」「死神」「きれいな大学」 了〉

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