三題噺「夕立」「涙」「塔」(約4,000文字)

 急にあやさんが三人に増えた。

 夏の解放感にあてられて、とあやさんら言う。いまどきはAIですぐ増やせるのだとヘラヘラ笑って、そしていつものように僕のおやつの徳用チョコを好き勝手むさぼる、そんな生き物が何度見ても三体いるのだからもうどうしようもなかった。

 ——あやさんは増やせる。今の時代、AIなどで簡単に。

 そんな話は聞いたことがなくて、その場で軽く調べても全然見つからなかったのだけれど、でも現に増えているという事実を認めないわけにもいかない。

「松田くん。なんとかしてほしい」

 ——どうしてそんなことを僕に言うのか。

 わからない。彼女はよく僕のことを天才だとか言って持ち上げるけど、仮にそうだとしても所詮は学部の四年生だ。できることなんかない。この研究室に配属されたのだって最近のこと、それこそ先輩であるあやさんらの方が適任でしょう、と、その僕の当然の抗弁に、

「おっ。それはつまり、私の知恵が文殊並みだと?」

 とかなんとか、それこそ僕の忍耐力が仏陀並みで命拾いしましたねって話だ。

 ——十五で工学部への進学を決めて、しかも将来の進路にアカデミアだけを見据えていた女。

 単に女性研究者ってだけなら珍しくもない、工学といってもうちは生物系だ。機械や電気電子みたいな偏りはなく、にしたってあやさんらみたいな人となるとさすがにそういない。現在修士二年、もちろん博士課程にも進む予定で、その先もずっと学校に残り続けるのだという。

 そこまでして何か叶えたい夢でもあるのかと、前にそう聞いたらまたなんとも言えない顔をされた。それは頼れる先輩としての虚像を守るべきか、それとも張り慣れない見栄を張るのはよすべきか、その煩悶が濃縮された表情だったのだと後になって知った。

「松田くん、きみは『社会』をどう思う? 私はね、いつも思うんだ。できることなら一生出たくない、って」

 そしてそれは「できること」だった。少なくともあやさんの頭脳にとって、それは決して不可能ではないと、それは彼女らのこれまでの成績と実績が証明している。そんな稀代の怪物が僕のような凡夫をして天才だとか、なんだろう嘘つくのやめてもらっていいですかって話だ。それってあなたの感想ですよねと、そんな言葉が何度口から出かけたことか。

 しかもこれで顔がすこぶる良いんだから世の中はひどい。似ている。文殊菩薩よりはよほどヘプバーン的なものに。「いいやそんなことはない」と三人の声が揃って、しかも

「メガネの度が合ってないのかい」

「ただの身内贔屓だね」

「見慣れたものには愛着が湧くものだよ」

 とまったく同時の多重放送、よくこれを聞き分けたと自分でも思う。太子かもしれない。厩戸の。将来は政治家に転身して寺などを建立し、ゆくゆくはお札の肖像画などになってゆきたい。工学者は無理だ。たぶんあんまり向いてない。実際、生物工学への情熱はもうほとんど底を尽きかけていて、でもそれを悟られまいと日々を過ごすあまり、随分と腹芸が上手くなったと自分でも思う。

 想像以上だ。

 すぐ身近に生えてる野生の天才、っていうのは、本当にこちらのやる気をモリモリ削いでくれる。

 一体でも手に負えなかった天才で美人の先輩が、いまはなんと通常の三倍。しかも厄介なことにこの研究室に来るまでの間、急な夕立に降られたらしくて、三人ともずぶ濡れの有様だ。都合の悪いことに今日は気温も低い。よほど寒いのか、かすかに震えているのが見てとれる。

 研究室に常備してあるのだとかいう運動着と、最近では滅多に着ることもなくなった白衣。それぞれ上から羽織ったふたりのあやさんらは、でも残されたひとりの方を見ようとしない。松田くん、なんとかしてほしい——とそのあぶれたあやさんが目で訴えてくるから、仕方なく僕は僕のジャージを貸した。貸してしまった。後付けの言い訳に聞こえるとは思うけれど、それでもあえて言い訳させてほしい。

 ——わかってた。貸しちゃいけない、それは一生引きずる傷になる、って。

 あやさんらはやっぱり天才で、さっきの彼女たちの言葉は三分の二くらい本当だった。身内贔屓、見慣れたものへの愛着。僕が普段着ているジャージの、その袖を余らせながら着込んだ僕のかわいいあやさんに比べて、その他のあやさんどものなんとつまらないことか。まあ仕方ない。どんなに美人であっても結局は手の届かない存在、どこかの見知らぬ誰かの恋人だ。

 ——ふたつ年上の男性で、なんか一流企業に勤めているだとかで、あと付き合ってそろそろ四年半くらいになるとか。

 そんな特に聞きたくもない情報も、でも同じ研究室にいれば多少は詳しくなる。本当に多少だ。だってあやさんらはあまりそういう話をしない。天才の彼女らは研究の場にプライベートを持ち込まないのだと、僕は何度もそう思おうと努力したのだけれど、でも無理だった。顔を見ればわかる。単純に照れくさいからで、四年半も経ってまだそんな初々しい恋をしていて、それはつまりよほど仲睦まじくやっているのだと、その現実が僕を責め苛み続けていたところに突然あやさんが増えた。

 ——三体。

 ——そんなにあるなら、一体くらいは。

 はっきりわかる。一瞬でもそんなことを考えてしまった僕に、もう彼女を好きでいる資格などないのだと。一体までなら合法。そんなよこしまな、自分本位の欲望に一瞬でも囚われた人間が、あやさんらのそばに居ていいはずがない。それでも結果的に彼女を幸せにできるとかならまだしも、その勝算すらないなら最早なにもないに等しい。

 悔しい。

 土俵にすら立てない自分が、出会っていたときにはすでに終わっていた恋が。

 いまならわかる。あやさんらの、社会に対する、「できることなら一生出たくない」という気持ちが。こんな辛い思いをするくらいなら、大人になんてならなくてよかった。大学に進んだだけでもこの有様、社会に出てしまったら一体どんな目に遭わされるやら、想像するだけでもゾッと背筋が冷える。

 ここに居たい。この大きな象牙の塔の端の端、小さなおんぼろ研究室の片隅で、こうして僕のジャージを着た先輩とふたり、ずっとコーヒーを啜るだけの人生がいい。

 それが叶わないというのであれば、せめて最後の意地くらいは貫きたい。張る見栄のひとつすら失くしたら男は終わりだ。泣かない。こんなことで男の子は絶対に。そんな情けない姿だけは晒すまいと、そう腹を括って放った覚悟のひとこと、

「でも、彼氏さん、きっと大変でしょうね。急に彼女が三人になって」

 という敗北宣言に、この柔らかく繊細なハートをズタズタに引き裂きながら絞り出した断末魔の一撃に、僕しか知らない恋を僕自身の手で葬るそのお別れの儀式に——いや本当、この人、この天才ら。

 かわいいのは顔だけにしとけよ本当、って思う。

「そこは大丈夫。私が増えた分だけ彼も増えるのが道理だよ。もとより、ここにしかいないものだからね。彼は」

 とんとん、と、人差し指で自分のこめかみを指し示すあやさんら。天才の誉高い灰色の脳細胞。その中にしかいないと、つまりは物理的な肉体を持たない架空の存在であると、その僕の確認にでも「まあそれもそろそろAIがなんとか」とか言い出すあやさんら。おいふざけんなお前このやろう、貴女がのろけるのを僕がこれまでどんな気持ちで、と、そんなこと言えるはずもないから僕はただ心の中で血の涙を流す。

「それで、松田くん。申し訳ないのだけれど、私の部屋に三人は狭い。とりあえず一個もらってくれないか」

 こんなこときみにしか頼めないから——と、うっすら桜色に染まるあやさんらの頬。可愛い。ずっと灰色だった土砂降りの世界が、突如バラ色の未来に輝き出して、えっ嘘こんな都合のいいことが起こっていいんですか、と、そう沸き立った瞬間に目が覚めた。夢だ。ドリーム。睡眠中に見る空想。嘘だろ。ちょうどこれからだったのに。

 まあ当然といえば当然の話、だってあやさんらはそう簡単には増やせない。少なくとも、いつの時代であろうと、AIなんかでは、絶対に。そんなことができるのは、きっと一握りの天才だけだ。

 目覚めたベッドの中。

 すぐ真横に顔を向ければ、そこに天使のようなあやさんの寝顔。

 かつての憧れの先輩、そして今では大事な妻の、安心しきったその寝姿。

 幸せな我が家。思わず笑みがこぼれ、そして寝返りを打つ。反対側、こちら目の前にもやはり、天使のようなあやさんの寝顔。

「おや、起きていたのか。まだ夕方くらいだ、もっと寝ていても構わないのだけれど」

 部屋の入り口、そこにも当然、天使のようなあやさんの姿。僕を含めて四人、幸せな夫婦——いや、夫婦婦婦だろうか? 部屋の入り口、ひとりだけ起きていたあやさんに僕は答える。

 懐かしい夢を見たよと。大学生の頃、あやさんが三人に増えた日のことで、ただ夢だけあって細部が微妙におかしく、なぜかAIの仕業ってことになってたけど、と。

 なにそれ、とくすくす笑う僕の美しい妻。こうして希代の天才生物学者になった彼女が、しかし実は忍者の末裔だったなんて、そんなのあの頃の僕は思いもしなかった。

「その節は本当に迷惑をかけたね。いやぁ、まさか夏の解放感にあてられて試した分身の術が、完全に不可逆なものだったなんて」

 そんなの天才のあやさんらだけだよ、と、そう言いかけたところであくびをひとつ。まだ眠い。昨日の徹夜が尾を引いていて、休日の平和な午睡はでも、もう続けられそうにない。

 この空模様。僕は繊細で、雨音が気になっただけで目が覚めてしまう。

「ふわぁあ」

 僕に釣られたのか、あやさんまで大きなあくびをする。本当に大きい。その目元に、じわりと滲むのは、きっと世界で一番美しい輝き。


 忍者タワーの最上階、窓を打つ夕立に蘇った青春の思い出が、涙となって彼女の頬を流れた。




〈三題噺「夕立」「涙」「塔」 了〉


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