第4章 アナライザーの本質 -3-

 何故、故人はそれを「蝉時雨」と呼んだのだろう。

 残暑もそろそろ鳴りを潜めようかというこの季節に、それでも尚、己が生命力を確かめるかの如く鳴き続ける蝉たちの声を、私はどこか懐かしさを覚えつつ聴き惚れていた。あの真夏の鬱陶しさとは裏腹に、どこか寂しげに、儚く分散するかのようなこのソルフェージュを聴くたびに、私の脳裏には「蝉時雨」という言葉が思い浮かぶのだった。無数の蝉が鳴く様を、雨が降る様子に喩えて表現したそれは、どこか洒落ていて、心なしか人を惹きつけるような語感が心地いい。君との最後の思い出は、この蝉時雨に紐づけられた記憶だった。その日は高校時代に所属していた吹奏楽部の夏季休暇最後の練習日で、私達は練習を終えたその足で、なんとなく帰路の庭園をぶらついていた。

 「なんかさぁ、他の人と違うんだよね」

七生琳はそう言って、烏藤唯桜の記憶に一つの種を植えつけた。

「唯桜もそう思うでしょ。きっと唯桜の目には周りの人間がさ、なんか自分と違うような存在だなって、そんな景色が見えていると思うんだよなぁ。」

その日私は、中学校を卒業した頃から、なんとなく心の奥底に巣食っていた得体の知れない感情の本質を、ピタリと突き当てられた気がして酷く興奮した。

「なんていうか、言葉ではうまく言い表せないけれど、どこか普通の人間とは異質なんだよね。物の見方や考え方、価値基準のそれが、普通じゃないんだよ。何を以て普通とするか、何が基準となるか、そんなつまらない議論に端を発する問題ではなくて。何か根本的な性質が、同期の子達とは違うんだと、そう感じさせられるんだよね。」

「決まってそういう時に、私の琴線に唯桜の思考が触れてくる事がある。唯桜だけなんだ、こんなにビビッと来るのは。きっと、おんなじ感覚を唯桜も同時に味わっているんじゃないかな。」

私は、わかるかもなぁ、とそっと嘯いて、君の白い肌に静かに触れた。なんとなく、この異常な為人(ひととなり)と稀有な価値観に取り憑かれて仕舞いたかった。彼女の言った通り、確かに七生琳という生き物とは、ふとした瞬間の意見の一致や、思考の同調を感じることがあった。決まってそういう時は、何故か「他の人には知られてはならないような」歪な感じ方を自覚している時だった。自分がこういう考え方をしているという事が他人に悟られたら、自分にとって何か不都合が生じるのでは無いかと、本能的に防御壁が築かれるような、そんな感覚を覚えている時だ。きっとこの感覚はどんなに頑張っても文章に熾す事はできないだろう。人間が、人間同士意思疎通を図る為に発明したこの言葉で表現する事ができないというのは、正しく的を射ていて、つまりそれは人間の理から外れた思考回路だったり価値観だったりするのだろう。即ち、私達はその瞬間だけは人間という枠組みの外に在る生物で、そしてその枠組みから各々が外れている事を、私達は各々自覚できたのであった。

 だからこそ、君が急に「他人と違う」という事を言語化して口に出して喋った時、非常に興味が湧いた。何故今更言語化できない話題を言語化したのだろうと思った。しかも「たにんとちがう」なんて、たった7文字でその違和感を評してしまった。尚更好感が持てた。当時の私は、何故そう思ったかを言語化できる程自由自在な語彙力を持ち合わせてはいなかったけれど、今にして思えばそれはやはり、それが本質の最適解とも呼べる表現であったからだろう。

「それでさあ、最近思うんだよね。この他の人と違うっていう感覚に触れさせられる度にね、嗚呼、この良く理解らない感覚を知覚できる特異的な遺伝子を後世に残してやりたいなって。なんで私はこんな価値観を持っているのか、思考回路を有しているのか。先天的な物なのか後天的な物なのか、それすらもよく理解らないけど、でもきっと、この世の中に生を受けて、そしてこれまで生きて来られているという事はさ、この異質な価値観とか思考回路とかにも、何かしらその存在意義があると思うんだよね。でも今のところ、私は一生分の時間を使ってもその意味とか理由を突き止められる気がしない。だから漠然と、この意味のわからない遺伝子を後世に残してやりたいと、最近そう思うんだ。」

急に突飛な話題を吹っかけられて、私は困惑した。しかしその混沌とは裏腹に、反論は非常に整頓された、現実味のある内容だった。

「私は手放しでは賛成できないかもなぁ。そもそも、こういう異質な価値観を理解してくれる人間なんて、この世の中に数える程しか居ないだろうし、もし自分と同じような価値観を持ってこの世に生まれてきたら、生まれてきた子は私と同じようにこの違和感を常に感じながら世渡りして行かなければならないんだ。そういう宿命を背負わせなければならない。正味酷な事だと、私は思っちゃうよ。自身の子に重い鎖を背負わせるような、そんな事はできない、私はそうやって考えちゃうかも、しれないな。」

当時の私はこのような価値観と思考回路に囚われていた。だから、もし自身が子を授かったら、その子を育てる時には、この価値観と思考回路が源泉となるビジョンしか思い浮かばなかった。それは私にとってみたら、私と同じようにこの違和感に苛まされながら日々を生きる犠牲者をまた1人、この世に増やしてしまう行為である訳であって、到底受け入れ難いというのもまた、事実であった。

「良くない癖だよ、唯桜。またそうやって仮面被っちゃってさ。良いじゃない、私といる時ぐらい仮面外してくれたって。」

七生琳はそう言って、いつの間にか目の前に立ち塞がっていた、大きな、それでいて少し歪な形状が毒々しい、一本の樹を指差した。

「あれ、見てよ。根上がり松って、人は呼ぶ。昔、偉い人がね、盛り土したその上に松の苗を植えさせてさ、そんで樹が成長してからその盛り土を取り除いたんだよ、わざわざ人の手でね。だからあんな歪な形をしているんだ、下の方が。上の方は流石、整備されてるだけあってすっごい綺麗に整ってるけど。でもかえってアンバランスでさ、下の方の根が浮いてるのが本当にゾクゾクするよね。あんなの違和感の塊だよ。これが自然による産物ではなくて人為的に造られた物だって言うんだからさ、驚きだよ。ねぇ、理解るかな、唯桜?、あれをさ、あんな事をさ、平然とやってのけるような人が、大昔には確かに生きていたわけだ。きっと私達は、そういう頭の可笑しな人たちの子孫なんだよ。」

捲し立てるように、頬を上気させて、彼女は続けた。

「きっとあの歪な形の樹を見て、所謂一般人は、まあ、不思議な形をした樹がこの世にはあるもんだって、いいとこそんなところ、そんくらいの感想しか思い浮かばないだろうね。理解らないだろうね、私達のこの感動は。この痺れるようのこの感覚は。そういう、マジョリティたる感受性から、ズレにズレた故人が、こんなデカいメッセージを現世に残してくれているんだ。そしてそのメッセージを受け取れる人間が今、ここに生きている。唯桜ならきっと理解ってくれる、この素晴らしい世界の中に紡がれている、本当に儚い奇跡の繋がりがね。この奇跡を途絶えさせる事が、どんなにナンセンスな行為であるか、この価値観を覚醒させた遺伝子の相続に有する私達の責任がどれだけ大きいか。そう思われてならないんだよ。私には。」

そうやって、一生懸命に背伸びをする七生琳と、その背中を望遠する烏藤唯桜、この17の未熟な身体に本質的な価値観を覚醒させて間もない、まだまだ獲得形質の一片すら把握し切れていない幼い少女達を、その伝導者たる歪な形をした大きな樹は、威風堂々たる存在感を以て静かに見守っていた。

 詰まるところ、七生琳という生き物は熱心な唯心論者であった。世界に存在する全ての事象と物質とを感知し、理解し、消化し、伝導できる精神が在ってこそ、この世界は成立してしかるべきだと、そう考えていた。ここで、七生琳と烏藤唯桜という容れ物によってそれぞれ獲得された、根上がり松をその本質的な意味で知覚できる価値観は、後世にその灯火のバトンを渡してこそ意味ある存在であり、繋いで初めて、根上がり松がこの世の中に存在し続けられると、七生琳は思考していたのであった。しかしながらその日、私の目には当たり前のように根上がり松が見えていた。他人の目にも同じように、物質として、そして植物という生物としてのそれが知覚さえされていれば、そこから何らかの世界が構築されていくと、私は思っていた。謂わば、当時の烏藤唯桜は唯物論的な感性で物事を考えていたし、己を感じていたし、世界の底を視ていた。だから、17の烏藤唯桜にとって、隣でその価値観の遺伝を熱く推す七生琳の主張には、どうにもその重要性を見出す事ができなかった。何となく、当時の自分の直感のままに「この遺伝子を後世に残す事」に抵抗を覚えて、それを芯に抱えて疑わなかった。



 突然の電閃に、打ちつけられた感覚がそこにある。



 私、何で泣いているんだろう。

 この心に、なんて答えたら良いだろう。

 君に、会いたい。



 紛れもなくそれは、私にとって青天の霹靂であった。あの日、君に植え付けられた種は3年の月日を経て大きな樹へと成長して、そして今、その根っこを覆っていた盛り土が破壊されて、樹の本質が露わになっている。私は、私の中に生えていた根上がり松のその本当の姿を見て、涙を流していたのだった。根上がり松を見ることができる自分の目から、溢れる涙が止まらないのであった。あの日見た根上がり松は正に、私の存在意義そのものであった。

 思えば、私はこの3年間、その未熟な目で多くの世界の本質を見てきた。本質を知る努力をしてきた。しかしそれは、本当の意味で、世界の本質とは呼べなかったのではなかろうか。その物体を通して本質を見透かすのではない。本質を知覚して初めて、その世界があるのだ。己の精神をその中心に同化する事で初めて、本当の意味で世界が視える。私は、否、私達の目は、この歪な価値観の元に、その価値観の真価を発揮する為に存在している。だからこそ私達の精神は、遺伝子は、それを以て故人の意志を汲む事ができるのであって、またその先の未来を知ることができるのである。未来に残されて然るべき価値観の、その本来の意味を物語っている。

「だから私は、今、生きているんだ。」

今は亡き、七生琳の魂を引き継ぎ、現世においてその存在を知覚できる希少な人間の一員として、今、「烏藤唯桜」はこの世界で最も存在価値のある精神の容れ物であった。君を知覚するという事は、その目の存在を肯定する事であり、その価値観を支持する事であり、その遺伝子を伝導するという事だ。即ち、君を知覚するという事は、本質的な意味において、私の存在意義を知覚するという事であり、認識するという事であり、継承するという事なのである。



『唯桜』



 急に名前を呼ばれたような気がして、我に帰った。どうやら見覚えのある駅のホームで、私は長い間佇んでいたようだった。師走も佳境、古の故郷はもう、真っ新な雪が辺り一面を染め上げる季節だった。


 まだ、耳の奥には蝉時雨の記憶が微かに残っていた。何故なら私は、烏藤唯桜という人間は、蝉時雨を知覚できる、稀有な遺伝子の継承者であるから。

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