第4章 アナライザーの本質 -2-

 「もしかして、ゆら!?」

急に名前を呼ばれて、我に帰った。どうやら見覚えのある駅のホームで、私は長い間佇んでいたようだった。師走も佳境、古の故郷はもう、真っ新な雪が辺り一面を染め上げる季節だった。頬に打ちつける風が劈(つんざ)くように身体の芯を通過していく、その手厳しさが酷く懐かしくも、そして温かくも感じられた。聴こえる筈のないその声の主はふっと私の髪の毛を撫でて、静かに隣の椅子に座った。

「久しぶりだねえ、りん。」

唯一の旧友と稀覯(きこう)の邂逅を果たした事実に私は若干の戸惑いを覚えながらも、心の底から湧き出る欣快至極の素直な感情には勝てずに、当たり障りのない日本語を選んで挨拶を返してみるのだった。暇乞をする間も無く彼女と別れてから実に3年弱の月日が経っていたが、どうやら君は何一つ変わっていないらしい。不意に目の前を舞う粉雪の一つ一つに、乱反射する街灯のそれをぼんやり眺めていると、私の頭には少々の安堵と哀愁が、しんしんと降り積もって行くようだった。

 もっとこの侘しさに黄昏て居たいと思った。ハタハタと金属の線路が鳴動している。仄かに木の駅舎が香る。依然として、粉雪は思い思いに輝いて、宙を舞い続けていた。1時間はそこに居ただろうか。いいや、10分足らずであったようにも、数瞬にも感じられる。自衛の為に退廃していた感受性は、久方ぶりに浴びる故郷の景色によって、これでもかというくらいに増幅させられていた。

 「ほんとにさぁ、猛省した方がいいね、唯桜。こんなにいっぱい『仮面』を持っているってのにさ、中身がこんなにボロボロなんじゃあね。」

急に、背後から腕を回された。心臓が高鳴る。時計台の正午の鐘の音の如く、私の身体中の器官にそれは共鳴して、私という容れ物の外へと飛び出して行きそうになる。この鼓動の高鳴りが、身体中に響く共震の感覚が、お前らに理解るか。否、理解られて、たまるか。粉雪は、舞わない。干くは、自制。満ちるは、本音。線路の向こう側から蝉時雨が聴こえはじめる。真夏の、あの高い位置から見透かすように降り注ぐ太陽光が、そこにあるのでは無いかというくらいに、今、身体中が熱い。

「これは経験談だけどさあ、唯桜。よく見える目はね、完璧じゃなくて良いんだよ。時には曇らせたっていい。前を見なくたっていい。自分を見なくたっていい。」

君は、語る。

「そもそも唯桜の目は私の目と違って、人の心の底を見られる、優しい目だからねぇ。」

「無理矢理、世界を、大局を、本質を、見やんとする、その決意は嫌っていう程理解るし、」

「実際、唯桜は中途半端に頭が良いから、本当に根を詰めて、突き詰め続けたらさ、見えちゃうだろうね、今まで見えなかった景色ってやつが。」

「中途半端に、本質が見えちゃうだろうねぇ。」

鑑である君は、語る。

「そうして、その目でいつの日か、自分自身の本質を見透かした時に、」

蝉時雨が止む。何も聴こえない。

「」

君の人差し指が、私の目元を静かに拭う。

「だからねぇ、唯桜。私は思うんだけどさ。」

遠くの方で、潮が満ちる音が聴こえる。風が吹く。私達を通り抜けて、それはずっと奥まで、ずっとその先まで吹いて行く。汗ばんだ身体と、湧き上がる焦燥感は、やはり私達の夏を思い起こさせる。十七の命を削りあって、各々が同じスタートラインに立って、全身全霊で、同じゴールを目指した。決死の夏。でも少し違う。この熱さは、その過程に伴う、意味ある熱さじゃない。そう思わされる。中途半端な私にとって、今この身体が全身で感じている熱さは、中途半端な私と結果に対する、浅はかで愚かで惨めな…………。

「意味が無いなんてことは無いよ。」

「寧ろ、常人が意味を見出せないそれに、意味を見つけることこそが、意味を見つけられることこそが、」

前任者である君は、語る。



「私達の本質であって、私達の生きる意味だ。」



 もう、私には満ち溢れる涙(ほんね)を堪える事はできそうもなかった。そういえば、まだ私が高校生になって間もない頃、担当のカウンセラーの先生に聞かれたことがある。「どうしたら、他人を信用できると思う?」という問い掛け。その頃の私には信じるという事がよく理解らなかった。今も理解らないかもしれない。でも、理解らないなりに、なんとなく境界線のようなものは自分でもイメージする事ができていた為、「信用している人の前では躊躇う事無く泣けるかもしれない」とその時、先生には答えた気がする。自分の一番弱っている姿。自分が弱者たる所以の象徴でもあると思われた涙というものを、秘匿せずとも大丈夫だと感じさせられる人間。それは、自分にとって信用に足る人間だと、未熟な感受性なりにも理解っていたのだと思う。第二次性徴における為人の形成に一役買った経験や考え方というのは、その後の自身を模る重要なピースになり得るもので、「涙の秘匿」は成人した今でも私にとっては大きな境界線のひとつであった。どんなに悔しくても、哀しくても、淋しくても、嬉しくても、涙を流しそうになると、私の脳は自動的にその感情を抑制せんと働くようで、急に冷酷で感情の存在しない、およそ人間とも呼べないような生き物へと、私は成り代わってしまうのだった。それはまるで「カフカの変身」に暗喩された普遍的な人間性の突発的な消失に類似した現象であったが、どうやら「人間性の消失」そのものを他人に悟られるのも私の脳は嫌がるようで、決まってそういう時には普遍的な人間の仮面を強制的に被らされた。その演技をする事は最早私にとっては日常茶飯事のそれであり、自身を偽るハウツーが洗練されていった結果、私にはいつの間にか必要な時と場合に応じて、自身がイメージできる最適な仮面を素顔の上に貼り付けて、日々を生きるスキルが身についていた。このスキルは卒なく日常をやり過ごすのに非常に便利であったが、翻って感受性の衰退と自主性の低下は否めなかった。世界を自分自身の目で直視するを恐れ、常に第三者視点で客観する事が常となってしまった。無論、それが有効に働く場面もあったが、やはり主観が必要とされるその時に、自身の汎用している視点との差異に酷く苦しめられた。それすらも悟られまいと、「客観視から導かれる主観の虚像」を用意してその場をやり過ごす有様であった。

 だから私は今、大粒の涙を流しながら、あらんかぎりの声を振り絞って思いきり泣いた。何故「持たざる者はこんな思いをしなければならないんだろう」と思った。ゼロに何を掛けてもゼロとは良く言ったものだが、無能がどれだけ努力をしたところで、その結果は有能のそれに遠く及ばない事は、もはや私にとっては言うまでもなく世界の真理であったし、実際、それは単なる劣等感とか嫉妬とかでは説明が付かない、フラットな事実ベース依りの、「人生の掟」と呼んで差し支えない事象であると思う。こんな世界が正しくてたまるか。こんな世界が現実であってたまるか。こんな世界が綺麗であってたまるか。文字通りそう感じた。それでも今、涙越しに私の目に映るこの景色には、私の拙い感受性を以て綺しいと言わしめる実力があったし、私には、一歩踏み出せば蛇と遭遇するか鬼に急襲されるか分かったものではないこの世界を麗しいと評せる実力があった。才能という名のチケットの持ち主と、欠陥という名のレッテルの持ち主とをこれまでずっと比べ続けて、痛いほどそのブランクに苦しみ続けてきた私だけれど、それでも私は、この愚かな人間達が暮らすこの禄でもない世界と、その中で精いっぱい生きている自分の事が大好きだ。そして、君もまたこの燻んだ世界に彩色を施すことのできる数少ない人間であって、その深みのあるそこはかとなく掴みどころのない瞳が、大好きであった。

 「ダメだよ、唯桜。そんなんじゃ、周りの才能に取って喰われちゃうんだから。」

いつの間にか目の前には、真っ新な粉雪が空からゆらゆらと舞い降りていた。

「自分の事を『持たざる者』だと結論づける行為にとやかく言うつもりはないけれど。勿論褒められたものじゃない、言わずもがなだよ。それでも、『持たざる者』が劣性だと評価しているのは頂けないね。唯桜自身がそう思わないようにしよう、無能は無能なりに相応の努力をして結果を補おう、ってそうやって考えれば考える程、反動的に『無能である事が罪で、無能である自分の存在価値の消失』を自覚してしまっている。浅はかだよ。愚かしいよ。その思考の過程全部が大罪のそれだよ。本当にその目はまだまだ甘いと思うよね。そろそろ気づいてくれてもいいと思うんだけどなあ、唯桜。頭では分かってるのに心の底から信じきれてないんだろうね。じゃあ、私が信じさせてあげるよ。唯桜。あなたの前任者の私が、あなたから全面的な信任を獲得している七生琳が、まだまだ未熟で『自信』が無い烏藤唯桜の為に、太鼓判を押してあげる。」

 今、私が最も信用している友人が、私の為に、私が生きていく為に、生きる為のヒントを提示してくれようとしている。そんな重要な、物語のクライマックスのようなシーンの真只中で、私の心は今此処に在らずと言った具合に、あてもなくらゆらゆらと揺蕩っている。私と君が出会ったその日から、君と描いてきた数多のシーンが今、私の脳内で走馬灯のように再生されている。その中で一際、私の目を引いて、心を離さない記憶がある。私達の目の前には、一本の歪な形をした大きな樹が生えている。これは、私が君と会話した、正真正銘、最後の記憶だ。そしてそれは、私が、今の「烏藤唯桜という生き物」として生きていく事を決めて、その一歩を踏み出した最初の記憶だった。あの日こそ、私が私たる所以を初めて自覚して、その一歩を踏み出した、私にとってのはじまりの日だった。

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