第3章 コントローラーの本質 -1-

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 少し前に薄々と眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、その耳の穴の中にはっきりと引き残していた。それをじっと聞いているうちに……なんとなく今は真夜中だな、という気がした。そうして、誰か煩い奴が携帯を鳴らしているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がひっそりと静まり返ってしまった。

 フッと眼を開いた。木目が一様に並んだ、黄櫨色(はじいろ)の天井が見える。真っ白な蛍光灯が煌々と、その部屋を照らし続けている。ベッドにその身を移した覚えはないが、久々の休日だという事で少し気が緩んでいたらしい。長い間、惰眠を貪ってしまったその身体には若干の気怠さと背徳感が沈降しているようだった。片目で携帯電話の通知を確認すると、同期の貴志から、LINEに6件連絡が入っている。時刻は午前2時41分。こんな真夜中に何の用事があってこんなに文章を打ったと言うのだろう。まあ、電話がかかって来ていないということは少なくとも急を要するものではない筈だ。短絡的に考えてメッセージの内容を確認しないまま、上半身を起こした。視界の隅に青碧色のハチマキが映る。自室にいつも飾ってある、いつも通りの風景の中に溶け込んだいつも通りのそれは、妙に今の自分の眼に映えて見えた。   

 それは高校時代、当時所属していた応援部で使用していたハチマキだった。中央には随処為主(ずいしょいしゅ)という四字熟語が真っ新な白色の糸で縫い込まれている。置かれた環境に翻弄される事なく、自身の意志と信念に基づいて行動する生き様を示した言葉だ。協調性にステータスを全振りしたような学生時代を過ごした自分にとって、その主体性に重点を置いたスローガンは本質的な意味において理解することが難しかった。揺るぎない、確固たるミッションが設けられた団体の中で、果たして個々の意志とは、各々の信念とは、果たして何なのだろう。何である事が正しいのだろう。一つの大きなミッションに根ざして、その共通意志と信念の元に全力を尽くすのが美徳というものではないだろうか。そういう意味において随処為主というのはあくまで綺麗事であって、ある種「建前的な」スローガンなのだろうと思う。少なくとも、当時はそうと信じて疑わなかった。或いはそうでない世界線が存在するならば、その世界線に生きる自分は、その意志と信念について考察するというタスクを抱えているのかもしれない。それでも、自分がどの世界線にいるのか、わかっていないふりをしながらも、たった今その目に色濃く映るのは、青碧色のそれなのであった。

 今日は早朝から吹奏楽団の練習がある。もう一度、夢に堕ち直すのは得策ではないらしい。久しぶりに頭を空にして、楽器を吹きに行こうか。思い立ったら吉日、外界へ飛び出す準備を整えて、寒空の下にその身を晒す。雲一つない、微かに色づき始めた空に、キラキラと輝く一等星がみえる。こんな時間にあんなに光っているのだから、所謂明けの明星という奴なのだろうか。あんなに高い場所からこの世界を見下ろす事ができたら嘸かし気持ち良いだろう。きっと、この広大な大地に奔走する人間達の十人十色な意志とか信念とかが、それはもうカラフルに彼方此方で交差して、その日その時にしか見られないそれを目一杯鑑賞できる筈だ。そうして、明るんでいく空を見上げて妄想に身を委ねながらふと気になってしまう。今、自分は何色にあるのだろう。意志も信念も、何もわからないこの愚かで浅はかな一人のちっぽけな人間は、果たして何色に彩られているのだろうか。今この世界で、この応援部の吹奏楽団という、真っ新な下地の上で、自分は何色である事が良いのだろうか。正しいことなのだろうか。それがわからないというのであれば、若しくはそれは自分がその世界に必要ない色であるという答えが存在するのかもわからなかった。

 そうやって、わざわざこんな冷たい風の最中に自身の肌をあてながらあられもない妄想に思考を捗らせるこの愚行こそ、どうやら自分の、碌でもない意志と信念の元に成立しているらしかった。それだけは、なんとなくわかった気がした。

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