第2章 プロモーターの本質 -2-
「失礼しますっ。」
団員が各々の楽器を温めはじめて、熱気が篭り始めた練習室へ、声を張って入室する。
「「「こんにちはっ。」」」
後輩達が立ち上がって、自分の入室に対して挨拶を返す。応援部の一員としての、この半ば儀式的な慣習も準幹部ともなれば見慣れた光景となる。練習開始時刻まであと10分。少し到着が遅れてしまったか。そう思いながら急いで楽器を組み立て、少しずつ呼気を入れていく。良い音を奏でる為には相応の下準備がいる。特に、外気温が低い冬場は管全体を温めて安定した状態をキープしないと、ピッチ(音程)が定まらない為、普段よりもベストコンディションを整えるまでの時間を多く要する。おおよそ、10分程度では充分に管を温めることができない為、練習室への10分前の到着は、練習への実質的な遅刻と同義だった。
「遅かったですね、講義長びいちゃいましたか?」
遅めの到着を憂いた直属の後輩から、最大限の配慮を伴った指摘を頂いてしまった。
「うん、まあ、そんなとこっ。」
目を細くしながら、謝意を込めた当たり障りのない返答をしておく。最近、どうも後輩達とは壁を作ってしまいがちだ。彼らが新一回生として入団してきた頃は、それはもう手厚いサポートと丁寧なコミュニケーションを以て直属の先輩後輩としての大事な関係を築いたものだが、最近はその礎に甘えて、充分に様子を見てあげられない自分が居る。どうしても手が回らない。中途半端に首を突っ込むのは良くない。今の自分にはもっと集中するべき事がある。色々な理由をつけて、後輩との関係を大事に紡ぐ責務を全うできない自分が、ここに居る。そうして、それを自覚しつつもその現状を改善できない自分が、心底嫌いになりつつあった。
「集合っ。」
練習開始の時間になった。56期吹奏楽団の団長が始令の合図を出す。
「「「押忍っ。」」」
自分を含めた団員全員がそれに呼応して、部屋の中央に集まる。楽器を静かに置いて、駆け足。応援を目的に発足した吹奏楽団は、他の音楽団体にはない特質的な雰囲気を纏って、その合奏練習をスタートする。この一糸乱れぬ一体感が、一つの音楽の形を創り上げる礎となっている。我々はこの塊の元に、一つの信念の元に、確かに音楽団体として成立している。
迷える余地などないくらいにわかりやすいこの団体の中で、自分は何故今、得体の知れない悩みに取り憑かれて、その歩みを迷わせているのだろう。不意に全身を刺したような痛みが襲った。それが精神的なショックによるものだと自覚するまでに数瞬を要した。自分には何かが足りていない。今、自分が応援部専属吹奏楽団の一員として、その役割を果たす為の燃料が、あと少し足りていない。そこで歯車の一部たり得る意味が、今の自分には何故か足りていない。漠然と、そう思った。ブレス練をしながら己のキャパシティ不足を憂い、チューニングをしながら己の精神力の低さを憂い、ロングトーンをしながら己の人間性の欠如を憂いた。そうしてスケールを奏でる頃には、いつの間にか自分がその音階の垣根を越えて、離散していく感覚を味わいながら、機械的な呼気の往復で必死に楽器を鳴らして、形式的な音楽を外界に放出していた。
最近はいつもこうだ。「神の視点」に立って、この団体の今と、そして今から伸びている未来への道を見通す事に熱中するがあまり、「人の視点」を忘れてしまいがちだ。でも、私は、神に御身を捧げるのではなくて、人にそれを寄せるべきだ。わかっている筈だ。理解している筈だ。そうして自分は、リーダーであろうとすればするほど、私が私でいられなくなるという事実に、やっと気づかされ始めていた。神になる為の鍵の形を思い描いていたら、いつのまにか人になる為の鍵の形をすっかり忘れてしまった。
「烏藤、最後のB♭のリリースの仕方が甘い。低音楽器のリリースはバンド全体の音楽を支える大事な役割だ、もっと集中して、針に糸を通すような気持ちで息をコントロールしろ。」
音に命が宿っていないのがバレたのか、学指揮の先輩から名指しで注意を受けてしまった。
「はいっすみません。」
猛省の意を口にして、楽器に温めていた息を吹き込んだ。もう既に、今日の基礎練習は終わりを迎えようとしていた。ふと、一列前で一際命が見える音を奏でているソプラノサックスが目に入った。とても人間味のある音は、何重にも重なった音の集合体の中で煌めいていた。それを吹いている久遠という同期には、やはり自分に足りない何かがあるのだと、その時、確かに再認識させられた。
なんとなく、それが失くした鍵の形をしている気がして、頬を水滴が伝った。
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