第2章 プロモーターの本質 -1-

 このご時世に、紙媒体のスコアを学生食堂で開いているのは自分くらいなものだろう。来週末に合奏を控えたブラチア楽曲(ブラスバンドとチアリーダーズの合同パフォーマンスに使用される曲)の譜読みは全くと言っていいほど進捗を見せず、最早スケジュールの合間を縫って予習をしないと練習に間に合わない惨状がそこにはあった。幸いなことに、最近流行している楽曲のほとんどが同様のコード進行を採用している為、メロディーラインが極端に変則的なものでなければ、曲全体の流れを理解するのに時間はかからなそうだった。どうやらこの楽曲も例外ではないようだ。作曲界における劇薬と評される、現代楽曲の象徴こと「丸サ進行」は手っ取り早くお洒落感を演出する事ができると共に、絶妙な哀愁を漂わせる事が可能で、尚且つ自然とループするように出来ている。誰が使ってもその万能性は約束されており、正に劇薬の名を欲しいままにしているといったところだ。

 約束の時間まで、あと5分を切った。今日は自分が待ち人役を演じさせられているようである。待ち人はその揺蕩う時間を欲しいままに、好き勝手戯言を呟く事ができる。目の前に広がる音符の数々に目を落とす。音は、その一つ一つへ曲に対する役割が割り振られている。学指揮はその一つ一つを的確に理解して、演奏者に伝える必要がある。理想を示し、到達目標をイメージさせ、現状との差異を自覚させる。その過程を無事踏む事ができたら、遅かれ早かれ演奏者はそれを再現してくれる。その結晶がやがてひとつの音となり、ひいてはそれがいい演奏を、良い曲を作り出すことに繋がる。重要なのは、現在地と目的地を演奏者に伝える事。例えばこのE♭ひとつ取っても……

 「時間ぴったり。優秀な同期を持って烏藤は幸せだな。」

脳内で音符と戯れていたら、いつの間にか呼び出した同期がそこにいた。彼の言う通り、到着はほぼ定刻通りだ。

「確かに優秀だねえ、相変わらず時間とお友達やなあ…。」

「同期を待たせるなんて無礼千万ですから。」

戯けたような言い方をして、時間に愛された同期こと、久遠は空けておいた奥のソファーに座った。

「このちっこい学食も難儀だよな、いっつも面倒な話し合いをする度に戦場に選ばれてさ。」

「だって立地も待遇も神なんだもん。クラブ棟から近すぎず遠すぎず、普段使いしない上にテーブルごとに仕切りまでついてるしさ。ドリンクバーもついてるし、もう長居してどうぞって言ってるようなもんだよね。」

「ま、一番は団員と偶然鉢合わせる可能性が少ないっていうのがね、間違いなくありがたい。」

彼の言う通り、キャンパスの中心から少し外れたこの小さな学生食堂を待ち合わせ場所に選ぶ時、それは決まって大事な話し合いを内々に執り行う必要がある時であった。しかし珍しい事に、今日はその限りではない。何故なら彼と待ち合わせた丁度30分後に、吹奏楽団全体での合同練習が予定されているからだ。今日は「30分でできる話」を、彼としようと思っていた。

「お水、持ってきてくれへん?」

空になった安っぽいプラスチックのコップを差し出して、水分の補充を要求する。どうせ彼も、自分の分を持ってくるに違いないし、そんなに手間はかけさせないだろう。可愛げのない合理的思考そのものだが、今更同期に気を遣う必要もない。幸いそれは我々同期にとっての共通認識となっているようで、彼は何も言わずにコップを預かり、2人分の水分を調達してきてくれた。

 「そろそろ、団長候補、目処つけなきゃだねえ」

雑談を始める温度感でこの30分のゴールをそれとなく伝えた。ゴールといっても、30分で目指せるゴールなどたかが知れているが、まあそれでも、何事においても、到達目標を相手に伝える事は大切だ。

「俺は烏藤がやるのが丸いと思ってるけどね。」 

件の安っぽいコップを人差し指でコンコンと叩きながら、彼は言った。

「そう、烏藤がやるのが『丸い』んだよ。僕はそう思ってる。団長はあらゆるシチュエーションにおける各々の役割を的確に理解した上で、それを的確に団員へ伝えられなければならないからなあ。それができるのは『この吹奏楽団を特に良く理解している人間』だと思うよ。」

意外にも、彼は至極ストレートにその答えを共有した。いや、意外にも、という表現は適切ではなかったかもしれない。彼は、久遠という男は、自分が見える範疇のさらにその先の、人間の奥底を覗ける奴だ。自分の、烏藤という人間のバックグラウンドを理解した上で的確な意見を最短ルートで此方に提示してくれたのだろう。

「そっかあ。まあロジックはね、言ってる事はわかるんだけどねえ。いうて、何もわかってないんだよな自分。未だに、この吹奏楽団って団体がわからない。わからないから考えている。考え続けている。答えを探し続けている。それがきっと、懸けている時間が長いことがきっと『吹奏楽団を理解している』っていう評価に直結してるんじゃないかなって思うよ。確かに自分が一番、同期の中ではこの団体に時間を割いてるなって思うしね。」

歯切れが悪い事を自覚しつつも、自分の「揺らぎ」を彼に伝える。

「自分が団長をやりたいなって気持ちもなくはないんだけれど、寧ろ務まるなら喜んで務めるけど、本当にそれが最適解なのかって、それが最後まで分からないんだよね。」

最適解を探すのはとても難しい。それが最適解だと思っても、それよりもシチュエーションに適した解答が用意されている事などいくらでもある。その度に、もっと熟慮を重ねるべきだった、もっと状況を精査すべきだったと、後悔の念は心と頭を容赦なく蝕んでいく。時間をかけて考えに考え抜いて捻出した解答であるからこそ、自分にはその現実がひどく堪える。

「だからぶっちゃけ、わからないんだ。まだ。誰が団長をやるのが、自分達にとって、そして団にとって『最適解』なのかがね。それを伝えるために呼んだのかと言われればそれもまた違うのだけれど…。」

柄にもなく溜息が口から漏れる。珍しく思考がまとまっていない。いや、寧ろまとまっていないからこそ、彼を呼んだのかもしれない。性質上、「最適解が自分の目に視えない命題」はその存在が辛い。心が辛い。

「まぁ、丸いとか、ちょっと穿ったような言い方をしたけれど、僕は烏藤に団長やって欲しいと思ってるよ。君の元でなら僕も自分の役割を存分に果たせるんじゃないかと、そう思っているからね。」

彼はそう言って、コップの中に僅かに残った水を飲み干した。他人の答えが、自分の答えへの近道になるかは、どうやら今の自分には判断しかねるようだった。

 その後は、何故か他愛もない世間話と、少しの業務連絡で持ち時間を使い切り、我々は幾多の戦禍に巻き込まれた学生食堂を後にした。


 もうすぐ日が落ちる。

 西日が風にあたって、綺麗。

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