髭の親父に耳かきしてもらう話(ポルナレフ編②)


「耳かき?」


何のことだ?

耳垢を取るのか?

ポルナレフの散髪屋にはそんなサービスはなかった。聞けば、ここでは散髪や顔剃りの他にも耳かきの施術も行っているらしい。


「どうします?」

「あ……そうですね……」


どうする? 耳かき。完全に想定外だ。

すでに私は満足しきっている。これ以上は蛇足。むしろ万が一、その耳かきとやらが私の好みに合わないものならば、この満足感が台無しになってしまう。

そう考えると危険だ。すで髭剃りの満足感でハードルは限界まで上がってしまっている。これを超えるとなると、もはや想像の埒外らちがい。挑戦するのは無謀だ。

だが、しかし、もしも……もしもだ。この親父の耳かきとやらが想像以上のものだったならば――


「お……お願いします」


言葉を搾り出す。店主はそれに「あいよ」と答えた。


「…………」


言ってしまった。これは明らかに蛇足だ。ハードルはすでに上がり切っている。期待値を超えることは難しいだろう。

だが、しかし、この男はポルナレフの散髪屋だ。いやうえにも期待が膨らんでしまう。


親父は髭剃りの道具を手早く片付けると一本の耳かきを取り出した。耳かきというと大抵の人が想像するような細い茶色の竹で出来た耳かき。お尻にあの綿のフワフワはついていない。

他人に耳かきをしてもらうなど小学校のころ以来だ。そもそも耳かき自体が久しぶりな気がする。実は結婚したとき妻に頼んだことがあったのだが「そんな怖いこと出来ない」とあっさり断られてしまったのだ。それ以来、耳掃除はもっぱら自分で行っている。


耳かきを持った親父は静かな足取りで俺の傍らに立つと、私の首を左に動かした。それは先ほど髭を剃るためのとった姿位と同じものだった。

右耳の穴は天井を向いている。これから耳掃除が始まるのだ。そう思うと、私の体は強敵と対峙するポルナレフのように自然と強張ってしまう。


親父はそんな私を一瞥すると、身構える私の耳たぶを摘まむ。

無骨な印象そのままに、彼はいちいち「これから始めますね」なんて気の利いたことは言わない。無言で行う。むに……っと、耳たぶを摘まむと軽く引く。耳たぶの最も柔らかい下垂から上辺にかけて、むに、むに、と何かを確かめるように親父の指は移動する。


(これは……?)


気持ちいい。

親父の野太い指が、むにり、むにり、と耳たぶを揉むと、ピリッとした痛みの後、カァ~ッと血液が巡っていくのを感じる。


(耳が……凝っていたのか??)


耳が凝るなど聞いたこともないし考えたこともない。


(しかしこれは!?)


耳にピリッとした痛みが走り熱くなっていくのと同時に首や肩の力が抜けていくのを感じる。脱力したせいか耳の穴が広がっている感覚すらする。私が知らないだけで耳や周辺の筋肉は凝り固まっていたのだ。



「……………………フゥ」


脱力した身体からため息が漏れる。

力の抜けた四肢、開いた耳の穴。ならば親父が次に起こす行動はひとつだ。私の耳の状態を把握したのか、親父の持った細い耳かきはスルリと私の耳の穴に侵入する。


サワ……サワ……ッ


耳毛の先端に耳かきが触れたのか、サワサワと茂みが揺れるような音がする。皮膚には触れない。毛先を揺らすだけ。


ザワ……ザワワ……ッ


さらに音が重くなる。毛先ではなく根本を狙っているのだ。

耳毛の根本。皮膚にギリギリ触れないくらいの部分。先ほどよりも繊細な指使いで、そこを刺激される。そのくすぐったさに首筋がゾクゾクした。


(これは???)


耳毛を揺らされるという初めての感覚に困惑する。何しろとんでもなくくすぐったい。だというのに、ちっとも身をすくめるような嫌な感覚がないのだ。

サワサワ、ザワザワ、と音を立てながら親父の操る耳かきは耳の入り口の部分を一周する。


サワワ……ザワワ……サワワワ…………スッ


耳孔の周囲を一回りした耳かきが、そっと穴の中から抜かれていく。

同時に私の口から洩れるのは安堵の吐息だ。最後に僅かばかり残っていた緊張の糸はブツリと切れ、全身がぐったりとする。強敵と対峙するかのように強張っていた身体からは完全に力が抜けていた。

その気配を感じ取ったのか、親父は再び私の耳介に指を添えると耳かきを刃のように構えた。

私は呆けている。そんな無防備な耳に親父は粛然しゅくぜんたる一撃を加えた。


ザクッ……と音が聞こえた。幾重にも堆積していた薄い層が突き崩された音だ。恐らくは耳かきが固まっていた耳垢の塊に突き刺さったのだろう。


(……っぉ!?)


突如、身体の内側から加えられた感触に呆けていた意識が戻る。鮮烈な、それでいて痛みを感じさせないような異様な一撃だった。


……ズズズズゥゥ


鮮烈な一撃の後に聞こえて来たのは引きずるような擦過音。突き崩された耳垢が耳かきによって引きずり出されているのだ。その快感にここが散髪屋だということも忘れて身悶みもだえる。まるで足の裏をくすぐられているかのような……いや、それ以上だ。何しろ触られているのは足の裏よりもさらに敏感な部分。本来なら他人が触ることなど出来ない場所なのだ。

親父は良く研いだ爪の先で軽く引っ掻くようにして耳かきを操り、私の耳に堆積たいせきした垢の塊を引きずり出していく。


一度、二度、三度。


比較的、耳の穴の中でも浅い部分だったというのに、そのストロークは長いものに感じられた。

その快感に眩暈めまいがした。耳かきの先端にあるさじの部分がバリバリと音をたてて耳垢を突き崩していく。


ザク……バリ……ズズッ…ズズズゥ……


耳垢を捉えては幾度も出し入れされる親父の耳かき棒。それが耳珠じじゅの裏側をめるようにして刺激する。

親父が使っている耳かき棒は一本だけだ。にも関わらず、一度に様々な個所を責め立てるような感覚を覚えた。まるで二刀流の剣士が繰り出す妙技のようだ。

耳かきの先端が耳壁に触れ、ほんの僅かに食い込み、表面にこびりついた垢を引きずりだす。そんな単純な作業が毎回違う、速度、力加減、リズムで放たれる。しかもその一回一回が最も心地の良いパターンで行われるのだ。


(み、耳の……耳の中がぁ……!??)


すでに耳かき棒は二刀流どころか、三刀にも、四刀にも分裂し、際限なく数を増しさらに奥へ、さらに秘められた部分へと侵入する。


(こんな奥にまで入って大丈夫なのか???)


自分では決して触れられないであろう場所にまで耳かきは進む。すでに耳どころか脳みそが触られていると錯覚するほど場所。

正直怖い。

しかしそんな恐怖などあっさり塗りつぶしてしまうほどに親父の魔技は卓越したものだった。何しろとんでもなく気持ちが良いのだ。

如何に柔軟性がある素材とはいえ、竹で出来ているはずの耳かきがにゅるりとした感触を生じさせながら耳垢を丹念に舐めとっていく。その手管は一種狂気じみていた。

右の耳の穴。その耳壁の上方にある僅かに窪んだ部分。自分では意識することさえも不可能なその場所はまさに急所だ。そこを繊細な指使いと力加減で耳かきの匙が、ちょん……と突く。


「…………っ!!!」


声を我慢するのに必死だった。

耳を起点に弱い電流が全身を走り身体の自由を奪い去っていく。それがまるで不快ではない。まるで妖しい蟲が這いまわるようにして耳の穴の中が心地よく蹂躙じゅうりんされていく。

親父はそこで初めて「ふむ」と鼻を鳴らし、耳かきを置く。代わりにその手に持つのは綿棒だった。両端に綿玉がついいる。綿玉はたぶん通常のものよりも一回り大きいのだろう。フワフワとした印象のある綿棒だった。

それがゆっくりと耳の穴へと近づいていく。


……ゾボッ、と小さく音を立てながら綿棒は私の耳へと侵入を開始した。


綿玉の周径は大きい。それが耳孔の淵に触れながら、じわりじわりと奥にまで入っていく。フワフワとした質感の綿玉は優しく私の耳壁を撫で上げた。


(こ、これは……さっきまでとはまるで違う!??)


竹の耳かき棒とはまるで違う質感に驚きながら、私は綿棒の優しい感触を楽しんだ。

先ほど耳かきの匙で突き崩した耳垢の塊。その破片がまだ残っているのだろう。綿玉はガサガサと音をたてながらじっくりと耳の中に残った微細な塵をきとっていく。

さっきまでの悪魔じみた魔技とは打って変わり、綿棒は柔らかく耳洞を愛撫する。


ゾゾゾッ……ゾゾォ……


痒い部分が掻かれていくように綿棒が耳洞を通る。ときおり動きに捻りが加えられるのだが、それがまた絶妙なアクセントになって耳孔を刺激する。

そうして身も心もリラックスした、その時だ。

心の間隙を突いて、親父の操る綿棒がグイっと奥へとねじ込まれた。

そこは最奥。

先ほど電流が走り全身の自由を奪い去った急所。

親父は当然のごとく、その場所をのだ。


(□□□■ッ□□~~~!!!)


心の中で絶叫が上がる。

それは妙技を繰り出し続けた親父の絶招ぜっしょうだった。

全身の感覚神経を妖しく刺激されるその技に意識が白く染まり上がり――――











「――――――――!」


気づけば我が家の前にいた。

そう気づけば自宅の前に立っていた。

家の前に立っていたのだ。


家に入る前に言っておこう。私は今、理解しがたい現象を体験した。

い、いや……体験したというよりは、まったく理解を超えていたのだが……

あ、ありままに今起こったことを話そう。

私は休日に散髪屋に立ち寄り、髭の親父に耳かきをしてもらって、その耳かきで気持ち良くなっているうちに気づけば家の前にいたんだ。

な、何を言っているのか分からないかと思うが、私も何をされたのか分からなかった。ただ頭がどうにかなりそうなほどの満足感が今も全身を包んでいる。

常軌を逸している。まさしく髭の親父の絶技。

私がまだ知らない世界。その恐ろしいものの片鱗を味わったのだ。


「耳かき……か」


白昼夢から覚めたように呟くと無意識に耳に触れると、ほんのわずかだが耳かきされたときの感覚が蘇る。

あれは、あの散髪屋は夢ではなかったのだ。そのことに安堵する。

私はついにポルナレフの、否……それ以上の散髪屋を見つけたのだ。


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髭の親父に耳かきしてもらう話 バスチアン @Bastian

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