髭の親父に耳かきしてもらう話(ポルナレフ編①)


銀色の刃が迫る。燐光が散るほどにその表面は磨かれていた。

それがゆっくりと私の喉元へと近づいてくる。刃渡りは短いのだが、その切れ味は疑いようがない。

すっ……と線を引けば命を奪うことすら難しくないだろう。

その刃がそっと俺の皮膚に触れて――










「ありがとうございました〜」


まだ若い店主の声を背中で聞きながら、私は理髪店を出た。

刈ったばかり襟足に当たる風が心地よい。散髪をした後というのは大抵は身も心も軽くなっているものだ。

だというのに、私の心の中には僅かではあるがわだかまりがある。


「ここも駄目だったか……」


これまで何百回と口にしたであろう言葉を今回も吐き出す。髪を切った後はいつもこうだった。

いちおう先程の若い店主の名誉のために言っておくと、この店の散髪が下手だった訳ではない。

店内は清潔で、店主の身だしなみも整えられており、こちらの要望も丁寧に聞いてくれていた。若さ故に言葉遣いが気にはなったが目くじらを立てる程のものではない。十分に及第点をクリアしていると言えるだろう。だが足りない。私が理想とする散髪屋には何かが足りなかった。

私は昔からある散髪屋を探している。


【ポルナレフの散髪屋】


……と、私はそれを勝手にそう呼んでいる。

このポルナレフとはジャン=ピエール・ポルナレフのことだ。彼は実在する人物ではない。私が小学校の頃に読んでいた漫画の中に登場する架空の人物だ。後に100巻以上続く大人気漫画となる作品だが、当時は独特な劇画風のタッチもあってかどちらかと言うとマニア向きの作品だった。その今となっては序盤で登場するメインキャラクターの一人がポルナレフだ。

フランスの超能力者である彼は日本の高校生の主人公とともに世界を巡る。香港、インド、中東と進み、最後の目的地がエジプト。そのエジプトでポルナレフが立ち寄るのがくだんの散髪屋だ。直前の戦いで乱れた身だしなみを整えるために彼は散髪屋を訪れる。見事な銀髪の持ち主である彼はその前衛的な髪型を恰幅のよいエジプト人の親父に整えられるのだが、小学生の私が魅入られたのはその中の髭を剃ってもらうシーンだった。

温かそうなタオルで温められた肌に、シャボンの泡が盛られたかと思うと、鋭い刃がスルリと肌の上を撫で上げる。その下から現れるのは髭の剃られたツルリとした肌だ。作者の圧倒的な画力もあってか、そのシーンはまだ髭の生えていない小学生だった私にとって実に官能的な表現だった。

それから年を経て中学生になって初めて散髪屋で髭を剃られた日、初めての顔そりはとても気持ちのいいものだった。温かいタオルも、シャボンも、剃刀も、漫画で見たものと同じだ。だが、しかし、何故だろう。心の中で「何か違う」という思いが消えなかった。


あれから三十余年。私は今もポルナレフの散髪屋を探し続けている。どこそこの散髪屋の腕が良いと聞けば実際に行って試してみる。都内の高級なサロンにも足を運んだこともあるのだが、どれも想像していたものとは違うものだった。いっそもうエジプトに行ってみようと考えたこともある……考えて、さりげなく新婚旅行はエジプトにしようと妻に提案すると物凄く不満そうな顔をされたので今後の人生のためにも大人しくハワイ旅行に変更することにしてしまったのだが……


「しょせんはフィクションだしな」


そう。ジャン=ピエール・ポルナレフは実在の人物ではない。もちろんあの散髪屋もエジプトに行ったところで存在などしない。

もう何百回と感じた諦念ていねんを今回も背負いながら、私は散髪屋をあとにした。





他所の部署の新入社員の咲山が髪を切ったという話を聞いたのはたまたまだった。彼が言うにはこうだ。


・最近使っている散髪屋の親父がすごい

・髪を切るのも髭を剃るのもすごい

・最後に軽くマッサージしてくれるんだけど、それもすごい

・とにかくすごい


若者にありがちな言葉遣いのせいか語彙ごいの少ない気もしたが、大雑把に説明するとこういうことだ。元々、雑談する間柄でもないのでそれ以上話を聞くことはなかったが、その際に出て来た大まかな住所がたまたま知っている場所だった。ただこの手の話はそれまで散々聞いていたこともあり行ってみようとも思わなかった。


だからそれを思い出したのは半年ほどしてからだった。

その日は連休の初日だった。明日は法事で実家に帰らなければならないので気ぜわしい。午前中の間に人と会う用事を済ませ、慣れないバスで帰ろうとした時の事だった。知らない町でもないのだが、あまりよく知ってもいない場所。アプリでバス停を調べながら抜け道を通ろうと小さな道を抜けたところだ。

視界に入ったのはクルクルと回る赤と青の看板サインポール。長年のサガか散髪屋を見るとついつい視線が止まってしまう。

思い出すのは半年前の咲山の言葉だ。そういえばここは、あの場所に近い。


「ふむ……」


後頭部を触る。後ろ髪を指で梳くと少しばかり伸びた感覚がある。


「丁度いい」


躊躇うことなくドアを押した。

向かえてくれたのはカランコロンと鳴るドアベルの音だ。年季の入ったガラス戸を通して見えていたのだが、店内には洒落た調度品などない昔ながらの散髪屋だった。

店主は髭面の親父。とはいえ散髪屋だけあって、その髭は綺麗に整えられている。親父は私の顔を見るなり低い声で「いらっしゃい」と声をかけた。


「?」


何だ??

そのいかめしい髭面の親父の表情を見て自分の中に妙な予感が芽生えたのを感じる。


「どうかしましたか?」

「あ、いや……すぐにいけますか?」


親父は私の問いに「大丈夫だよ」と短く応えると散髪用の椅子へと案内した。正面にある大きな鏡は曇りひとつない。言葉少な気な親父は最低限の注文を聞くと静かな所作で準備を始める。私が注文したのは散髪と顔剃りだ。

鏡越しに見える親父がはさみを構える。


「…………ほぅ」


散髪が始まってすぐ、私は感嘆の息を吐いた。

親父の手管は鮮やかだった。鋏を操る手は軽やかに踊り、櫛はまるで微風のように手ごたえを感じさせることなくスルスルと髪をいていく。頭を洗うときの指使いなど、本当にあの野太い指から繰り出されるているのかと困惑するほどに繊細な手つきで余分な皮脂を洗い流していくものだった。


すごい、すごいぞ、何なんだ、この親父は!?


咲山が貧しい語彙ごいで「すごい、すごい」と連呼していた理由が解った気がする。これはもう「すごい」としか表現しようがない。ここは、こここそが、もしやポルナレフの散髪屋なのだろうか??

いやうえにも期待が膨らんでいく。


髪が整えられた後、ゆっくりと椅子の背もたれが倒れてった。

これから髭が剃られるのだ。

私は胸を高鳴らせながら親父が剃刀かみそりを用意するのを鏡越しに眺める。そのとき――


「あの……すいません」


思わず声をかけてしまっていた。


「そ、その……革砥かわとは使わないんでしょうか?」

「え?」


しまった。私は何を言っているのだ。

革砥というのは革製の砥石といしのことだ。50cmほどの帯のような革で、その上に剃刀の刃を滑らすことで切れ味の上がり過ぎた刃を肌に馴染みやすく、もしくは切れ味の落ちた刃を鋭く調整するための道具だ。ポルナレフの散髪屋には、その革砥が置いてあった。

実はポルナレフの散髪屋の店主は最初に彼の髭を剃ろうとしたとき、その切れ味の悪さに「ちゃんと研げ」とたしなめられる。そこで登場するのが革砥なのだ。

だが、この親父がそんな私の意など汲めようはずもない。珍妙な質問に石仏のようだった親父の貌も困惑の色が浮かんでいる。しかし親父もプロ。すぐに表情を元に戻すと、すぐに返答する。


「いや、使ってないよ。昔はどこも使ってたらしいけど、今の剃刀は使い捨てだからね。それにしてもお客さん。よく革砥かわとなんて言葉知ってたね」

「ええ、まぁ……」


別に親父が悪いわけではないのだが、返す声に僅かに落胆の色が混じる。それに気づいたのか親父は「まぁ……」と前置きしてから戸棚から撒いたベルトのような物を取り出して言った。


「いちおう置いてはいるよ――」


取り出したのは革砥だ。


「使い捨ての剃刀だと必要ないんだけどね――」


スルリと解いて先端のフックを引き出しの持ち手にかける。


「まぁ、完全に無意味ってこともないのかな――」


親父は「今日だけだよ」と告げると、剃刀の刃を革の表面に添える。それが革砥の上を走った。


「!?」


その音は小さなはずなのに部屋中に響いたように感じた。

“シャッ”と“ジャッ”の中間。思ったよりも軽い音。だが強烈に脳に浸み込んだ。それが10回。剃刀は革の帯の上を5往復する。

親父は「こんなものか」と呟くと革砥を引き出しに戻す。そのとき私の全身に戦慄せんりつが走り抜ける。親父の手に握られていた剃刀。その刃が放つ輝きが明らかに増しているのだ。


本当に意味のない行為だったのか!?


冷たい水で濡れているような刃の緊張感は、まるで日本刀のそれだ。

場を清めたかのような研ぎの後、親父は何事もなかったかのように髭剃りの準備を再開した。

それを見て、私の心にこれまで閉じ込めていた想いが溢れ出す。


まさか、この親父は、この散髪屋こそが――――






温められたタオルが顔全体を覆っていた。温度は熱さをギリギリ感じるくらい。ホカホカとした蒸気がじわりじわりと毛穴に入り込んで来る。

耳元でシャカシャカと聞こえるのはブラシでシャボンを泡立てている音だ。白い陶器の器に入れたシャボンが髭剃り用のブラシで攪拌かくはんされている。

最初は直線的だったブラシの動きは円を描くように器の中で回り、やがてその動きを止める。十分に掻き混ぜられた白い器の中にはこんもりとした泡がたたえられていた。


シャボンを掻き混ぜる音が止むと、親父はゆっくりと私の顔からタオルを持ち上げる。温められた顔からはほわりとした湯気が塊になって登っていく。


毛穴が開くほどに温められた肌。その上にペタペタと塗られていくのが先ほど泡立てたシャボンだ。左の頬に盛るように塗ったあと、持ち上げったブラシの毛先から泡が垂れることはない。それくらいに泡はこんもりと硬い。ブラシは左頬、顎の先、右の頬と順番に泡を塗っていく。その泡がまた温かい。


シュワシュワと泡が弾けるのを耳と肌で感じているとカチャッと音が聞こえる。親父がブラシを置いたのだろう。

そうして準備を完了させた親父は私の首をクイッと左に向ける。


ついに髭剃りが始まるのだ。


親父の手には剃刀が握られていた。先ほど革砥の上で研がれた日本刀の如き輝きを放つ剃刀だ。その刃先が右頬に触れた。


「――――!」


ぞわりとした感覚が背筋を走り抜ける。

この親父は、この髭剃りは明らかにいつもと違う。


すぅ……っと、静かに滑るようにして剃刀が右頬を撫でる。泡が取り除かれた跡に現れるのは蒸しタオルにより温められ、シャボンにより皮脂を取り除かれた柔らかな肌だ。


「ほぁ………」


全身の力が抜ける。

気づけば小さく息が漏れていた。

髭というのは硬く、真鍮しんちゅうと同じくらいの硬度があると言われている。だが蒸しタオルによって温められ、シャボンによって滑りの良くなった髭は驚くほど容易く刈り取られていく。


ソリソリ……


顎の曲線に合わせて角度を調整し、舐めるようにして剃刀は頬の上を這う。


ソリソリ……


右頬からゆっくりと顎の先に。

剃刀が肌を這う感覚が心地よい。

素晴らしい。トレビアン、まさにトレビアンだ。

本来は皮膚や肉を切り裂くためにある危険な刃物。それがまるで優しい慈母の手のように頬を撫で上げていく。


「…………ぁ」


また息が漏れる。

ソリソリと音を立てながら進む剃刀にうっとりしてしまう。

一刀滑らす度に剃り落とされた髭が泡と共に取り除かれていく。


ソリソリ……


親父の施術に迷いはない。どれくらいの角度で、どれくらいの速度で、どれくらいの力で剃刀を滑らせれば最も心地良いのか。それを熟知しているのだ。

何という手つき。

何という剃刀さばき。

これぞまさに理想の髭剃り。ポルナレフの散髪屋だ。


親父の操る剃刀はぬめる様にい、気づけば右の口元や頬の髭が綺麗さっぱり取り除かれていた。

しまった。

あまりの爽快感に大切な一言を忘れる所だった。


「…………どうかしましたか?」

「あ、いえ……何でも……いえ」

「?」


何でもないことはない。

ここはポルナレフの散髪屋。ならばこれだけは言わねば。

私は今、ポルナレフなのだ。


「顎の下もお願いします」


言った。言ってやったぞ。

三十余年越しの台詞を放てたことで心の中は得体の知れない満足感で満たされていた。

親父はそのリクエストに短く「あいよ」とだけ応えて髭剃りを再開する。


ソリソリ……


繊細な手捌きで剃刀が顎の下を通り、肌を舐める。

ああ、これもまたトレビアン。

顎の下から左頬の髭までもが剃られた私は忘我の極地だ。熱い息を吐きぼんやりとする。

そんな私に親父は尋ねた。


「そう言えばお客さん。この店は初めてですけど……」

「はい?」

「耳かきはどうしますか?」


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