髭の親父に耳かきしてもらう話(兄貴編②)
耳かきを注文した後、親父はこれまでと同じように「あいよ」と返事をして耳かきの準備を始めた。
出てきたのは一本の棒。飴色をしたそれは
親父は除菌シートのようなものでその先端を念入りに拭うと2~3回振って、先端を乾かした。これまで数えきれないほどこなしてきた動作なのだろう。その動きが実に堂に入ったものだった。
リクライニングのシートがゆっくりと倒れていく。俺の右側に立った親父はゆるりとした所作で俺の右耳に触れた。その手に持つのは飴色の耳かきだ。
耳たぶが軽く引っ張られ、僅かな捻りが加えられる。耳の穴を掘るのにペストな位置を探っているのだろう。円を描くように耳たぶが引かれ、それが一周半したところでピタリと止まる。
同時に耳介の溝の部分に耳かきの先端が触れた。
ズ、ズズ……ズズゥゥッ
慎重な手つきで耳かきの先端の匙が耳の溝をなぞりだす。
最後に耳かきをしたのは2カ月ほど前だろうか。忙しくて時間を作ることが出来なかったのだ。
放ったらかしにした耳は随分と汚れていることだろう。
その予想を裏付けるように親父は何度も掻き出した垢をティッシュで拭っていた。
耳かきの匙は溜まった垢をスコップのように掘り起こしていく。柔らかい垢はみるみる内に掻き出されていくのだが、時おり匙の先端がカツリとした感触とともに止まる。それは垢が固まり岩のようになった部分だ。親父はそれをさしたる力を込める様子もなく、指先の捻りだけで匙を操り、ペリッ、ペリッと剥がしていく。それはまさしく練達した職人の技だった。
親父は終始無言で耳の溝に張りついた垢を剥離していく。先端の薄くなった耳かきを使っているので当たり方によっては痛みを感じる筈なのだが、そんなことはまるでない。ピリピリとした感触の裏側にある心地よさに俺は身を委ねた。
全身の力が抜けていく。
ともすれば眠ってしまいそうだが、そうはいかない。親父が触れているのはまだ耳の外側の部分。本丸である耳の穴の中は、未だ攻められていないのだ。
鏡越しに親父の顔を見れば、その
親父は耳かきを静かに構え、耳の穴の入口にそわせる。普段から耳が痒くなって何となく耳の穴に指を入れることはあるのだが、そこは自分でも触れることが出来る部分だ。
親父は耳かきの先端を巧みに操ると耳孔の淵を撫でるようにポリポリと掻いた。
ポリポリ……ポリ
心地の良い刺激ではあるが、普段から触る部分だけあってか、あまり垢が溜まっている様子はない。そんな時、親父の指先が僅かに耳かきの角度を変え、耳珠の裏側に突き刺さった。
バリッッ
薄い壁が砕ける音がする。
それは入口付近でありながら、角度の関係で自分の指では触れられない部分だ。俺は特にここに垢が溜まりやすい。そこを責められたのだ。
親父は砕けた耳垢の破片を丁寧に搔き集め、掃くようにして外へと運び出していく。
俺は親父の手管に
やはりこの髭の親父はたいそうな名人だ。
予想を遥かに超える耳かきさばきに恍惚とする。耳かき一本でこれだけ人を感動させれる者など、そうはいないだろう。もしもこの親父が日本一の耳かき使いだと言っても、異論はあるまい。
そんなことを考えてしまい「ハッ」とする。
気づけば親父も手を止めていた。
「お客さん、どうかしましたか?」
「あ、いや……何でもないです」
本当ならここで断っても良かったのだが、その一言が出てこない。親父は何も言うことなく耳かきを再開した。
耳かきは先ほどよりも穴の奥の方へと進んでいく。そして迷うことなく一撃目からの俺のスィートスポットに直撃した。
親父はクイクイと耳かきの先端についた匙をせ躍らせると全身に蟻が這うようなこそばゆさが襲ってくる。
これは
竹で出来た耳かきの軸が異様にしなる。確かに竹は粘りとしなりのある素材だが、それでもこんなにウネウネと動くものだろうか?
得体の知れない生き物に耳の穴を舐めとられているような妖し気な感覚だった。この髭の親父には今日初めて出会ったというのに、まるですべての弱点を知りつくされているような手つきだ。
ついぃ~っと奥の方を掻いたかと思うと、クルリと回り天井の部分を突いてくる。かと思えば入口にまで戻りゆるゆると擽ってくる。
足の指の力が抜けて身体が泥のように溶けていく。
溶けた身体がベッタリと椅子に張りついていく。
カリカリ……カリ
耳の奥で耳かきの音が
それが堪らなく心地良い。
何てことだ。
好奇心に負けてしまった。
必要に迫られてたまたま入った散髪屋でこんな経験をするとは。
カリカリと耳の奥で音がする。
背徳的な快楽が全身を満たしていく。
親父は相変わらずの仏頂面で黙々と耳かきを操り続ける。
ああ、駄目だこのままでは……
俺はぼんやりと脳裏に浮かんだ人影に謝ろうとして
「兄貴、お疲れ様です」
散髪屋から出ると車で待っていた信二はすぐに扉を開けて俺を後部座席に案内した。俺はいつものように「おう」と短く答え、そのままシートに身を沈める。皮張りのシートはいつものようにピタリと背中にフィットするのだが、どうにも乗り心地が悪い。
それもこれもさっきの耳かきの所為だろう。先ほどの泥のように全身が溶け、身体が椅子に一体化したかのような感覚。あれを体験してしまうとドイツの高級車のシートであろうと心もとなく感じてしまう。
「えらい今の店が気に入ったんですね」
「あ?」
「いえ、眉間の
そう言われ眉間に手をやれば、先ほどまで刻まれていた深い皺はすっかりなくなっている。業腹だが信二の言葉は
「後で電話番号調べときますね。確か店の名前は―――」
「やめろ」
「はい?」
「もう二度と行かねぇよ」
「はぁ?」
信二が間抜けな声を上げる。
だが今のは俺が悪い。
「いいから黙って運転しろ」
俺の言葉に信二は「はい」と答えるとゆっくりとアクセルを踏む。
緩やかな車の加速と微かなエンジン音を受け止めながら俺は窓の外を見る。無意識に指が耳へと向かっていた。
俺は普段、知らない店に入ったりはしない。行くのは大抵決まっている行きつけの店で、飲み屋も飯屋も服屋だって、いつも同じ所にしか行かない。だからこういうことは本当に珍しい。本当に珍しいことなんだ。
そう何かに言い訳するように心の中で思い、俺は耳の穴に指を突っ込んだ。
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