髭の親父に耳かきしてもらう話(兄貴編①)
「やっぱり電話つながりませんわ。今日は休みみたいですね」
「そうか……まいったな」
車の中で声を上げる。
頭を掻けば余分に伸びた髪の毛先が指に触れた。本当なら昨日のうちに切っておくはずがタイミングを逃してしまい、今日行ってみればいきつけの散髪屋が臨時休養だったのだ。
「兄貴、どうします?」
「しょうがない。どこでもいいから散髪屋を探せ。あのジジイども、しょうもない所でも突いてきやがるからな」
「分かりました」
眉間に皺が寄る。これから始まる定例会のことを考えれば身だしなみを整えておくのは必須だ。運転席に座る信二はスマートフォンで手早く検索する。
「この辺りにはないですね。ちょっと回り道したらありますけど……」
「間に合いそうか?」
「微妙ですね」
「そうか……」
なら仕方ない。クソむかつくジジイどもの顔を思い浮かべイライラしたときだった。
視界に入ったのは赤と青のラインがクルクルと回る看板だ。
「おい、アレ、散髪屋じゃねぇのか?」
「ホンマですね。アソコでもいいですか?」
「構わねぇから止めろ」
「はい」
黒塗りのドイツ車が緩やかなブレーキングとともに止まる。俺はシートベルトを外すと運転席の信二に待っているように指示を出し車を降りた。
年月とともにくすんだガラス戸、回る赤と青の看板。目の前にあるのは如何にも町の散髪屋といった理髪店だ。散髪屋に限らず、俺は初めて入る店というのはどうにも苦手だ。飲み屋も飯屋も服屋だって、いつも同じ所にしか行かない。だからこういうことは本当に珍しい。
初めて入る散髪屋はかなり長い事やっているのだろう。年季の入った重いドアを押すと頭の上でカロンコロンとベルの音が鳴った。店主は50歳くらいだろうか、無愛想な顔つきの髭の親父が「いらっしゃい」と口にする。
客は俺だけだ。羽織っていたスーツを脱ぐと入口近くに置いてあったハンガーにかけて、そのまま鏡の前に座る。
そうして髪を短く整えてもらうように注文した後のことだ。
「顔剃りはどうします?」
石仏のような厳めしい顔で親父が聞いてくる。
問われて顎を触ると僅かにざらつきを感じた。
「頼みます」
「あいよ」
時間がないが仕方ない。身だしなみはキッチリ整えないとな。これから喧しいジジイの相手をするならなおさらだ。眉間に寄った皺が深くなる。そんなとき親父は俺に妙なことを聞いてきた。
「耳かきはどうします?」
その意味が解らず、俺は
同時に眉間の皺も深くなる。
「耳かき??」
「ええ、うちに来るお客さんはほとんど全員していきますけど」
「耳かき……ねぇ」
無意識に耳を触っていた。普段俺が行っている店にそんなサービスはない。そう言えば、そういう散髪屋があるという話を聞いたことがあるが、ここがそうなのだろう。
耳かき……別に嫌いじゃないが、しばらく忙しくてやっていない。
身だしなみは大切だが、さすがに耳の穴までは見られることはない。それにあの
それに何より……
「いや、耳はいいです」
俺はやんわりと断ると親父は「あいよ」と答えた。
◇
散髪が始まると親父の腕は見事なものだった。うまく言えないんだが、何というかテンポが良い。
その間も髭面の親父は一言も喋らない。見るからに職人気質な雰囲気そのままに静かに手だけが動いていく。そのひとつひとつがツボを心得ていて、心地よさが頭皮を這いまわっていく。
注文した髭剃りも見事なものだ。熱い蒸しタオルが緊張をほぐし、モコモコとした泡が顔に塗りたくられたかと思うと、鋭利な剃刀が舐めるように肌の上を這って行く。それがまた心地よい。磨かれた刃が二度三度と往復するとチクチクとした起毛がこそぎ落とされていく。泡の下から現れたのは思わず触りたくなるツルリとした肌だ。毎朝安全カミソリとシェービングジェルを使っているものの、これは素人には出来ないまさにプロの技だ。散髪屋の技術など詳しいことは解らないが、この親父は大そうな名人のようだった。
髪を整えられ、髭と顔の産毛を剃られ、感心している間に散髪は終わる。
気持ちがすっかり軽くなっていた。
俺は普段、知らない店に入ったりはしない。行くのは大抵決まっている行きつけの店で、飲み屋も飯屋も服屋だって、いつも同じ所にしか行かない。だからこういうことは本当に珍しい。
次もまた、この散髪屋で髪を切ろうか。
「…………ふぅ」
このままもう帰りたい。
しかしこの後の仕事を放っておくことなど出来るわけがない。
再び眉間に皺が寄る。
そんなときだ。
「お客さん、疲れてるね」
散髪中ほとんど喋らなかった親父が口を開いた。そうして親父の手が俺の肩に乗る。先ほどまで妙なる技で俺の頭を整えてくれた親父の手だ。
一見すると無骨な手で、先ほどまであれほどの繊細な動きをしていたとは未だに信じがたい。そんな親父の親指がむにゃりと肩の筋肉にめり込んだ。
「――――—なっ???」
困惑する。
感じたことがない感覚が肩から背すじ。そして脳みそまで走り抜けたからだ。
最初、俺は肩に
そう、親父は無手。やっているのはいわゆる“肩もみ”だ。
何も器具など手にしてはいない。
だというのにまるで筋肉の深層まで指が突き刺さっているように強烈な衝撃が俺の脳をかき乱す。
それがとてつもなく心地よいのだ。
親父の親指が俺の肩のラインをゆっくりとなぞると、それだけで言い知れぬ感覚に支配される。だがそれはあくまで前置きに過ぎなかった。
むにゃり
親指が捻じるように肩を押すと、強張っていた筋肉の塊がほぐれだす。
ぐにゃり
柔らかくなった肩が指で摘ままれると、滞っていた血液が流れ出す。
みにょり
弾力を取り戻した筋肉が親父の指を押し返す。
「お……おぉ」
声が出る。
我慢など出来るはずがなかった。
絶え間なく行われる施術に肩だけでなく張り詰めていた精神が弛緩していく。触られているのは肩のはずなのに、首や脳天、歯ぐきにまで刺激が伝わってくる。時間にしてそれほど長いものではなかったのだが、パンパンに張っていた肩の筋肉は親父によってすっかり揉みほぐされていた。
心臓が鼓動するたびに冷え固まっていた肩や首の筋肉に血液が流れていくのがよく分かる。
俺がそれに感動している間にも親父の
トントントン……トトンッ
頭が揺れる。
握り方にコツがあるのだろう。普通に拳をグーにするだけではこんな子気味の良い音は鳴らない。振動が背骨にまで伝わり全身を揺らす。それがまた全身の筋肉の強張りを
至福。まさに至福だ。
「あいよ、お疲れさん」
最後にパンパンと両肩を叩くと親父は最後にこう言った。
そしてそれは至福の瞬間が終わりを告げた時でもあった。
耳の奥が微かに疼く。
俺は普段、知らない店に入ったりはしない。行くのは大抵決まっている行きつけの店で、飲み屋も飯屋も服屋だって、いつも同じ所にしか行かない。だからこういうことは本当に珍しい。
「すいません。やっぱり耳かきも頼んでいいですかね」
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