髭の親父に耳かきしてもらう話(老後編②)
「じゃあ、耳のほうもやるね」
親父のその一言で私のふやけた思考が元に戻った。
危ない所だった。
これまで経験したことのない、あまりに異質な感覚に精神が彼岸を渡ってしまうところだった。
そもそも私がこの散髪屋を訪れたのは耳毛の処理をしてもらうためだ。
「ああ、頼みます」
何とか答えた私に、親父は「あいよ」と短く答えた。
相変わらず不愛想な口調だ。
だが腕は確かなようだし、ここで文句を言っても仕方ない。
出てきたのは一本の剃刀だ。
なるほどあれを使う訳か。耳毛の手入れというと小さなシェーバーを入れられて刈られるというのが私の中でのイメージなのだが、それでは話に聞いたジョリジョリにはならない。
つまりはあの細い剃刀で私の耳の毛をジョリジョリしてもらうわけだ。
緩やかな仕草で私の耳朶を摘まみ、そこにそっと刃を添える。親父の指先は髭面の見た目によらず柔らかい。思わず昔に触られた妻の指先を思い出してしまい、私は慌ててそれを振り払った。もしも妻の指よりもこの髭の親父を選んでしまえば、今日はもう家には帰れないだろう。
恐らくは触り方もあるのか、神がかった力加減で触れられている。
親父は私にこれから起こることの説明などしない。
ただ妙なる指先が私の耳介を這い、剃刀の薄い刃がゆるりと走る。
それに全身が総毛だった。
ゆっくりと圧を加えられた耳たぶの産毛。それを剃刀がそぉっと音もなく刈り取っていく。
ゾクゾクとした快感。
どういうことだ?
今行っているホームセンターの散髪屋ではないが、髭を剃られるついでに耳の産毛を剃られたことはこれまでに何度もある。だというのに、これが初めての体験であるかのように親父の剃刀は新鮮な感動を私の脳みそに叩き込んできた。
二度、三度、四度。
耳たぶの上を剃刀が走った後、次は耳の裏の部分に刃先が当てられる。鋭利な刃が当てられているというのに忌避感はまるでない。
むしろ私の耳たぶはさきほどの快感をすでに求め始めていた。それが再び私の脳髄を直撃する。
これは……たまらん。
足の指の力が抜ける。
剃刀という凶器を当てられ感じる快感。その異様な感覚に私はすっかり酔ってしまっていた。
だが本当の衝撃はこれからだということを知るのは、このすぐ後のことだった。
耳の周囲の毛を剃り終わった後、次に出てきたのは先ほどよりも身幅の狭い剃刀だった。槍の穂先のようにも見えるが、その切っ先は丸みを帯びている。
親父は無言でそれを構えると、何の釈明をすることもなく私の耳の穴に突き入れた。
痛みはない。
鋼の冷たい感触が刃の存在を私に伝えてくれる。
そしてその薄い鋼の板に親父の指の動きが伝わった瞬間、耳の洞窟いっぱいにジョリッという音が確かに響いた。
「うぉっ!?」
思わず声が出る。
しかし髭の親父は気にした風もなくもう一度指に捻りを加えて刃先を操る。すると同様にジョリッという音が耳洞全体に聞こえ、異様な感覚が私の中を満たした。
なるほど、これがジョリジョリの正体か。
コイツはくるな。
驚いた。
剃刀は耳の穴の中を踊るように滑る。その度にジョリジョリという音が子気味良く耳の穴で反響し、私に奇妙な陶酔感を与える。剃刀の刃は良く研ぎ澄まされているはずなのだが私の耳を傷つけるようなことはない。
親父の手首が翻ると刃がくるりと回りジョリジョリと鳴る。それが幾度か繰り返された後、ジョリジョリの音が小さくなり、最後には聞こえなくなった。
そこでようやく親父の指が私の耳朶から離れていく。
同時に私の全身の筋肉がふにゃりと緩んだ。
「ふへぇ~」
しまった。
だらしのない息が漏れた。
情けない姿だが、俺の耳から離れた親父は後ろの棚でゴソゴソ何かをやっているので聞こえていない……ということにしておこう。
私が取り繕うことに必死になっていたとき、親父が用意していたのは一本の綿棒だった。紙製の軸に綿が硬く巻き付けられている。それが小さな容器にチャポリと漬けられた。
「それは?」
「ああ、ベビーローションだよ」
意外にも親父は答えてくれた。
いや、それも当然か。見た目こそ仏頂面の扱い難そうな親父だが、客商売である以上、客の質問くらい答えるだろう。ただこの髭の親父の場合、まったくそういう風に感じないのだ。
「切った毛を取るから、ちょっと冷っとするかもね」
質問の続きなのかそれだけ説明すると、ローションで濡れた綿棒の先を私の耳に忍び込ませた。
親父の言った通りヒヤリとした感覚がしたものの、それもすぐに皮膚に馴染んで感じなくなる。
耳の粘膜に触れた綿棒の先がぬるりと動いた。
同時に得も言われぬ感覚が俺を襲った。
「…………くっ!!!」
漏れそうになった声を必死にかみ殺す。
本当に親父が使ったのはベビーローションだったのだろうか?
まるで蜂蜜酒でも飲まされたかのように脳がぐらりと揺れた。
襲ってきたのは甘美な感覚だ。親父が耳の穴に入れた綿棒がグリグリと動くと濡れた感触が耳道に伝わる。それは、ぬるぬる、ぬめぬめと動き、まるで妖しい生き物に舌で舐めとられているような快感だった。
白目を剥きそうになる感覚に私は耐える。
苦痛に耐えるというのは人生の中に幾度もあったが、快感に耐えるというのは稀だ。
十分にローションを吸った綿の塊はゆるゆるとした動きで耳の孔を拭き取っていく。
ぬるり、ぬるり――綿棒は円を描くように這いまわる
先ほど切られた耳毛の毛先が次々と綿玉に絡みついていく。
それがまた強烈に気持ちいい。
むぅ、いかんな。
如何にこの親父が手練れとはいえ、こんな若造の前で醜態をさらすというのはさすがに気恥しい。
しかし髭の親父はそんな私のちっぽけな意地など興味がないとばかりに綿棒を使い私の耳の孔を蹂躙する。
思えばしばらく耳掃除をした記憶がない。
耳垢を掘り起こされる刺激をすっかり忘れてしまっていた皮膚や粘膜はこういった感触に弱くなってしまっているのだろう。そんな私の弱点を親父はことごとくついていく。
そんなとき親父はボソリと言った。
「お客さん……溜まってるね」
「え?」
私がその意味を理解して返事をするよりも早く、親父は胸ポケットに入っていた茶色いピックを取り出す。それは煤竹で出来た細い耳かき用の棒だ。それが何の説明も躊躇もなく私の耳の中に入れられる。
ズグリ……とした音と感覚。微かな痛痒。そしてそのあとの圧倒的愉悦。
それが一瞬の間に私の頭の中をかき混ぜる。
「ふぁぁっ」
今度はもう我慢できない。恥も外聞もなく、私は快感の吐息を漏らした。
しまった。
如何にプロの職人の技とはいえ、こんな若造の前であられもない姿を見せるとは。
そう思い、鏡越しに親父の顔を見る。
次の瞬間、私は絶句した。
親父の顔は相変わらずの仏頂面。それは変わらない。ただそれだけではない。無心で耳かきの棒を構え、耳掃除をする姿はただただ無機質に仕事をこなすマシーンのようだった。
それを見て、私の中の何かが音を立ててポキリと折れた。
ああ、駄目だ。
この男は鬼だ。
耳掃除の鬼。
この髭の親父の魔手に逆らうことなど出来るはずがない。私は無駄な抵抗を諦め、親父の妙技に身を委ねることを決めた。
その後はめくるめく体験の連続だ。
私の耳は余程汚れていたのだろう。たっぷりとローションのついた綿棒で耳道を拭われたあと、湿り気を帯びた耳垢をごっぽりと掃除される。自分でも触れたことのない、その場所を責められ、私は何度も意識を失いそうになりながらも耐えた。もしも気を失ってしまえば、せっかくのこの素敵な体験が意識のないまま終わってしまう。それはあまりにも惜しかった。
自分の身体でありながら、決して自分では触れない。その場所に痛痒を与えられる快感に悶えながら、私の初めての経験は続く。
そうして最後の仕上げに髭を剃られた。
感想などももはや言うまでもあるまい。
低いドアベルの音を背中で聞きながら、私はこれまでにない満足感を感じていた。一敗の代価としては十分すぎるものだと断言出来る。
老年に近づいてなお、こんな体験が出来るとは思ってもいなかった。そう考えれば年をとって耳毛が伸びるのも悪くないかもしれない。そうして家路につこうとしたとき、ふと妻の顔を思い出した。
「うん、今日は少し遠回りしてから帰ろうか……」
何かに言い訳するように呟く。
だというのに、私の指は「次に耳毛が伸びるのはいつになるのか?」と待ち遠しく耳の孔に触れてしまっていた。
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