髭の親父に耳かきしてもらう話(老後編①)


耳の毛が伸びていると妻から言われたときは正直ショックだった。誰もが知る大手家電メーカーに30年勤め、幾ばくかの退職金を上積みしてもらい少し早めにリタイアしてから数年経つ。さすがに若いと言い張る気はないが、それでもまだ老人ではない自覚があった。それだけにその耳毛の事実は衝撃的だった。

鏡で確認した俺の耳からは若い頃にはなかった余分な毛がはみ出していたのだ。


「まぁな、年をとったんだから耳毛くらいは伸びるぜ」


言われたのは、退職してから始めた将棋仲間からだ。


「そんなもんかい?」


私は手の中に握った歩の冷たい感触を確かめながら問い返す。この時間帯の将棋サロンは空いているので、自分と釣りあう相手は一人しかいない。平手で、待ったは2回まであり。つまり相手も私もヘボだということだ。


「そんなもんさ」


盤面は終盤。

お茶ももうすっかり冷めている。

相手はなかなか次の手を打たない。下手なりに長考しているのだ。


「俺なんて耳毛どころか鼻毛まで伸びてるが、もう気にすんのもやめちまった」

「そういや伸びてるな」

「気にしなきゃいいだけさ。もう営業先に頭下げる必要もないんだしさ」

「そんなもんかい?」

「そんなもんさ」

「ふぅん」


パチリと盤から音がする。

それを見てニヤリと笑う。そこは死路だ……うん、たぶん死路でいいんだよな。ああして、こうして、多分そうして詰み。自信がないが多分、私の勝ちだ。

しかし私の気配を感じ取ったのか、それとも読みが間違っていなかったのか、盤を挟んだ向かいの相手が声を荒げた。


「待っただ! 待った!!」

「これで3回目だよ」

「いや……でも、もうちょっとで勝てそうだったんだよ」

「こっちはもう勝つよ……たぶん」


勝つと言い切れないところが、何とも格好のつかないところだ。

相手は3度目の待ったを強請ってくるのだが、先日の勝負と合わせるとすでに3連敗。そろそろ勝ちを拾いたい。そんなとき少しばかり興味を引くことを言ってきた。


「分かったよ。ただとは言わない」

「へぇ、何かくれるのかい?」

「ああ、いいこと教えてやるよ。だからあと一回待っただ」

「いいこと?」

「お前さんが気にしてる耳の話さ」

「耳の?」


そう言われて耳の穴に指を入れる。指先には毛先の当たった感覚。最近、気にし過ぎているせいか耳も痒い。


「しょうがないな。あと一回だけだぞ」

「おお、そうかい」

「ああ、だからそのいい話というのを教えてくれ」

「ああ、いいとも実は――」





歩いてきたのは同じ町内にある散髪屋だ。同じ町の中とはいえ、線路を挟んだ向かい側というのは用がないので滅多に行かない。それがさらに馴染みではない散髪屋ともなると、もうあったかどうかも思い出せなかった。


「あったな……」


しかしその散髪屋は確かにあった。

昔ながらの赤と青のくるくる回る看板サインポール。経年劣化で透明度の落ちたガラスのドアにはしっかりと聞いた通りの店名が記されている。

古びた押戸を押すと、建付けの悪い不快な音が鳴るかと思いきやすんなりと開く。遅れて低いドアベルの音がカランコロンと鳴った。

店内では以外にもクラシックが流れている。曲名は知らないが有名な曲だ。

こういうのは懐かしい気がする。以前は職場の近くに馴染みの散髪屋があったのだが、退職してからは近所のホームセンターの中にある散髪屋で間に合わすことが多くなっていた。いくつもの席と鏡がズラリと並び、常に複数人の理髪師さんが常駐している散髪屋はシステマチックで、空き時間の目安は店頭のランプで知らせてくれるし、混んでいるときも順々に席を回転させることで、待ち時間のストレスなく散髪をしてくれる。それはそれで気軽に出来ていいのだが、こういう個人がやっている散髪屋というのはやはり味のあるものだ。

そんなノスタルジーに浸る中、聞こえてきたのは中年男性の声だった。

髭の親父。年は私より若いはずなのだが、その雰囲気のせいだろう。不愛想な仏頂面は無骨な木彫りの仏像を思わせる。ただならぬ職人の気配を漂わせる親父だ。これまでこういったタイプには仕事で何度も出会った事があり、そして経験上この手の手合いは信用できる者が多かった。


「いらっしゃい」


それだけ言って、開いた席に向かい掌で促す。それ以外は何も言わない。ただ「何をして欲しいんだ」と視線だけで訊いてくる。

それに妙な安心感を覚えながら私は答えた。


「散髪とあと……耳を」

「ああ、耳ね」


それだけでもう通じている。その事実に私は安堵した。

この店を紹介されたのは耳毛の処理が巧いからだという理由だ。耳毛の処理が巧いっていうのは具体的にはよく分からないが、どうにもジョリジョリやってくれるらしい……意味はよくわからないが。

席に座れば「もみあげはどうするのか?」と親父は尋ねる。

そこで私は逡巡した。

これまで馴染みの散髪屋というのは何軒かあったのだが、その誰もが「もみあげをどうするのか?」を聞いてきた。しかしその意味がいつも分からない。私の髪型はどちらかというと短めで、散髪する直前だとしても遊ばせるほどの長さはない。

もしもここで私が何か注文すれば親父は何かしてくれるのだろうか?

そんなつまらない夢想をするものの、結局は「自然な感じに」といつものように答えた。

親父は「あいよ」とそれに短く答える。

そうして首に刈布カットケープをぐるりと巻く。霧吹きで髪を濡らし、櫛で緩く梳く。

最初に違和感に気づいたのは鋏の入る直前、親父が私の髪を触ったときのことだった。

ん?

何だ?

今のは?

その違和感に気づいたときには髪をジョキリと切られた後だった。

違和感といっても別に痛かったり不快だったわけではない。そうではなく髪を触られた瞬間、これまで散髪屋では感じたことのない感覚が頭の皮膚を駆け抜けたのだ。

親父はそんな私の内心など考慮するつもりなどないのか、同じように髪を触り、切る。

髪を触り、切る。

触り、切る


やはり何かおかしい。


普通に髪を切られているだけなのだが、何というかこう……気持ちいいのだ。

もちろん髪の毛に神経なんぞ通っているはずがない。そんなことがあれば切られる度に痛くて仕方がないはずだ。だから髪を切られて気持ちいいはずなどあるはずがないのだが?

不思議に思うも髭の親父はチョキチョキと鋏を動かし続ける。その度に私の頭にむず痒いような不思議な感覚が訪れる。まるで上質の羽毛で頭を撫でられているようだ。

私は鏡に映る自分。その背後に立つ親父に注意を向ける。

そうして私は気がついた。

なるほどそういうことか。

この心地よい違和感を感じるのは親父が鋏を振るう直前。髪を触ったときに感じるものだ。恐らくこの仏頂面をした髭の親父は、その外見によらず絶妙なタッチで私の髪を持ち上げて髪を切っているのだ。

この心地よい違和感は、そのとき毛穴に微妙な刺激を作り出すためのものか。


やるな、親父!


賞賛の声をあげたくなった。

この60年の間に恐らくは何百回も散髪屋に行っているはずだが、こんなことは初めてだ。

親父の無骨な指がさわさわと髪を梳く。髭の親父に髪の毛を梳かれ心地よさを感じるなど、他人に知られれば気持ち悪がられるかもしれない。少なくとも妻には死んでも言えまい。しかしそんなちっぽけな意地など粉々に粉砕してしまうほどに親父の指先は私の髪の毛穴に言いようのない刺激を加え続けていく。


凄い。


髪を切られているだけだというのに、もう頭皮は完全にほぐれ切っている。毛穴がぐにゃぐにゃに緩んで髪が全部抜けてしまわないか心配になってくるほどだ。

驚いた。

耳毛の処理をしてもらえると聞いて散髪はついでのつもりだったのに、これほどの衝撃が待ち受けているとは。思考がふやけそうになる中、髭の親父は私に言った。


「じゃあ、耳のほうもやるね」


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