髭の親父に耳かきしてもらう話(OL編①)


「チクショー、おつぼねのババアのヤツめぇ~」


私は暗くなり始めた道を歩きながら悪態を吐く。

原因はお昼に会社の先輩である“お局のババア”にある。

本人的にはちょっとしたお使いのつもりだったんだろうけど、よこされた仕事は説明内容とは打って変わった難敵で、終わったころにはすっかりとあたりは暗くなってしまっていた。

もちろん学生のころと違い、社会の荒波にに2年も揉まれた私は今の私は社会の歯車にして立派な企業戦士だ。

なのでこれくらい残業は珍しくないのだけど、今日はちょっぴり都合が悪かった。

何しろ明日は休日で、そして友人の結婚式に呼ばれており、ついでに言うなら美容院の予約を入れてしまっていたのだ。

もちろん予約はキャンセルだ。


「ああ、もう……最悪」


空を見上げると白く細い三日月が私を笑うみたいに輝いている。

それを見て鬱になる。

残業で疲れた今の私は美容院にも行けないくたびれたOLで、母なる大自然にすら嘲笑される存在なのだ。


「…………なんてね」


言ってみて舌を出す。

少しばかりくたびれて女子力が僅かばかり下がっていることは理解しているけど、そこまで悲観もしていない。

だけど明日はせっかく友人の晴れ舞台だというのにしっかり準備してあげれないというのは悪い気がするし、女子としての沽券にかかわる。

結婚式の主役はもちろん花嫁なんだけど、わき役もそれなりに着飾ってないと良識を疑われるのよね。

まぁ、たまにその辺を無視して花嫁より目立とうとする子もいるけど。


「はぁ……まぁ、しょうがないわね。時間も時間だし」


今から知らない店を探すとなるとなかなかに大変だ。

そもそも予約が取れるかどうかもわからない。


「まっ、最高のメイクは笑顔ってことで許してくれるわよね」


言い訳するように家路につく決心をする。

家には相方が待っている。

とは言っても、残念ながら素敵な男性ではない。

猫だ。

名前はしゃもじ。

元野良猫のナイスガイだ。

今晩はそんな彼の硬い毛並みでも撫でながら無聊ぶりょうを慰めるとしよう。


そんな時だった。

少し離れたところでカランコロンとドアベルが鳴る。

遅れて中年男性の声が「ありがとうございました」と聞こえた。

誘われるように見ると、そこにはクルクルと回る赤と青の看板サインポール

つまりあの店は散髪屋さんだということだ。

だけどそんなことは問題じゃない。

私が目を引いたのは散髪屋から出てきたお客さん。

何しろそこから現れたのは裏びれた場末の散髪屋から出てくるとは思えないようなお上品なご婦人だったのだ。


「え? 何? どういうこと??」


そのチグハグな場面に目を奪われる。

黒いワンピースを涼し気に着こなす年嵩の女性は元タカラジェンヌだと言われても違和感はない。

靴やバッグも目立たないが高級感のあるものだ。

間違ってもこんな店に通うような人ではない。

なのに当のご婦人は何事もないようにしゃなりしゃなりと歩きながら、あらかじめ呼んでいたであろうタクシーに乗って、私の目の前から去っていった。

夜ではあるが、その光景はまるで白昼夢だ。


「えっと……?」


困惑する。

別にあのご婦人が何者であろうと私の人生には関係がないはずなんだけど、あまりに奇妙な答えに脳味噌がすっかり答えを求めてしまっていた。


「女の人が散髪屋に行く理由……あっ、そうか」


ふと思い出す。

そう言えば、以前喋る機会のあった年配の女性が顔剃りのために散髪屋に行っているという話を聞いたことがある。

あのご婦人も、きっとそれなのだろう。

そうに違いない。

じゃないと、あそこまでおかしな光景の説明がつかない。


「なるほどね」


正解かどうかは分からないが、それでも一応の説明がついて私は納得する。

よし、帰ろう。

家には愛する猫が待っている。


「…………ん!?」


顔剃り。

ちょっと待てよ。

今日、予約していた美容院はフェイシャルエステもしているところで顔剃りもしてくれる予定だった。

あれをしてもらうと、次の日の化粧のりが全然違うのだ。

いきなり見ず知らずの散髪屋で髪を整えてもらうのはリスキーだけど、顔剃りだけでもやってもらうのはいかがなものか?


「……うん、いいかもしれない」


散髪屋に行くなんて小学校の頃に父親についていったとき以来だ。

女の人が散髪屋に行くなんてかなり珍しいはずだけど、あんなお上品なご婦人が通うくらいなんだから女性が行っても大丈夫……だと思う。

まぁ、穴ぼこだらけの推理なんだけど、それでも明日の式への義理立てと、何よりもすっかり端の端に追いやられた感があるとはいえ、乙女の端くれとしての意地もある。

着飾るときは少しでも綺麗な格好をするというのが女の子としてのプライドなのだ。

帰るのが少し遅くなるので愛猫しゃもじの食事の時間が遅れてしまうが、彼は紳士だから問題ないだろう……多分。


「よし!」


気合を入れて「たのもう~!」と心の中だけで言いながら、控えめに押戸を押して中に入る。

ゆっくりと入った店内は思い出にある散髪屋とよく似ていた。

その中央の椅子にもたれかかるようにして店主が立つ。

店主は50歳を少し超えたくらいの髭のオジサマだった。

あっ、うん……違うな、言い直そう。

親父だ。

オジサマというのはシニアの中でもスマートかつダンディな者のみに贈られる特別な称号なのだ。

この店主にその称号を背負わせるのは、いくらなんでも荷が重すぎるだろう。


「あ、あの……」

「ん?」


私の登場に親父が片眉を上げる。

やっぱり女性のお客さんは珍しいんだろうか?

ちょっとビビっている私がいるがこちらはお客様だ。

勇気を持って聞いてみる。


「えっと、顔剃りだけお願いしたいんですけど……いけますか?」

「ああ、いいよ。どうぞ」


そっけなく言いながら奥の椅子を掌で促す。

その不愛想さはいかにも散髪屋の親父といった風体で、普段行く美容院では決して見られないものだ。

私はその接客をイライラ半分ワクワク半分で受け取りながら大人しく席に座る。

目の前には大きな鏡。

こうして座れば散髪屋も美容院もそう大きな違いはない。


「じゃあ、顔剃りね」


そっけなく言うと親父は後ろの方で準備を始める。

本来の予定ならフェイシャルエステを受けるはずだったので、パックしてもらったり、オイルで小顔マッサージしてもらったり、色々と至れり尽くせりしてもらうつもりだった。

だけどこの髭の親父にそんなことを求めるのは色々と間違っているだろうし、されたらされたで何か嫌だ。

鏡で後方を確認すればプシューっと音がして親父が顔剃りの泡を準備しているのが見える。

その寡黙な姿はまさしく職人の背中なのだが、普段髪を切ってもらうときに会話を楽しんでいる私としては、この沈黙はちょっとばっかし耐え難いものがある。


「あ、あの……」

「はい?」

「私、散髪屋さんって初めてなんですけど、女性の方って来るものなんですか?」

「ああ、普通は少ないね。女の人は美容院で切るもんだし。でもウチはけっこう来るよ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、まぁ、髪切りに来る人はほとんどいないけどね」

「え?」

「じゃあ、始めるよ」

「あっ……はい」


何だかものすごく気になることを言ったのだが、親父は私の疑問に答えるつもりはないのか粛々と顔剃りの準備を整える。

そんな私の顔に白くて温かいものが被せられた。

ほっかほっかの蒸しタオル。

そいつが柔らかく私の顔面を強襲する。


「はふぁ~~ぁ……ハッ!」


しまった。

迂闊にも声が出てしまった。

超恥ずかしい。

ただあまりにも蒸しタオルが気持ちよかったんだよ。

顔という人間の体の部位でもっとも敏感な部分を蒸しタオルの蒸気が優しく包んでくれる。

地味に鼻の穴から入ってくる湯気が気持ちいい。

いや、こんなの親父には死んでも言えないけどね。

同じようなことはいつもの美容院でもされるのに何でだろう?

そんなことを考えている内に、顔全体を覆っていた蒸しタオルは取り外され顔の皮膚が冷たい外気に晒される。

私は目をしばたかせた。

何かすごいスッキリした。

時間にして30秒もないはずなのに、私の身体がいかに緊張していたかを理解させられたのだ。

まさかタオル一枚でここまで癒されてしまうとは。

そんな私に追撃をかけたのはやっぱり蒸しタオルだった。

次のタオルは二つ折りにされていて、私の顔の上半分だけを温める。


「はひぃ~~ぃ……ハッ!」


しまった。

また声が出てしまった。

超恥ずかしい。

恥ずかしい……が二回目だから少し慣れた。

次は目の周りだけをじんわりと温められる。

するとタオルから癒し成分が染み出してきて、頭の芯の部分がじ~んと染み込んでいく。

癒される。

まるで愛猫しゃもじの柔らかい肉球でほっぺたをフニフニされているときと同じくらい気持ちいい。

そんな愚にもつかないことを考えたとき、耳元でカシャカシャと音が鳴り、私の頬っぺたに熱い泡の塊が塗りつけられた。

そこには普段行っている美容院のような小粋なトークなど存在しない。

無遠慮に不躾に親父は熱い泡の塊を私の頬っぺたに塗りたくっていく。

だというのに、その泡の熱さが、頬を撫でる筆先が、とんでもなく心地よい。

塗りつけられた泡から熱がゆっくりと失われていき、私が再び「ふへぇ~」だか「はへぇ~」だか自分でもよく分からないような声を漏らしたとき親父の顔剃りが始まった。


よく磨き抜かれた剃刀、見えないがきっと磨かれている筈だ。

それが私の頬っぺたにそっと当てられて音もなく進んでいく。

音もなくなんだけどスルスルとかソワソワとかそんな感じだ。

それが私の頬っぺたの右半分を支配する。

終わった後は触らずとも肌がピカピカに磨かれていることが理解出来た。


なんか凄い。

よく分からないけど、この親父の顔剃りは凄い。

何が違うのか説明出来ないが、親父の剃刀さばきは明らかに普段やってくれているエスティシャンを上回っていた。

この親父には、泥パックやら、アロマオイルやら、そんな小癪なものは必要ない。

タオルと剃刀があれば顧客を満足させることが可能なのだ。


次は左半分だ。

親父の剃刀が走り、私の頬っぺたの左側がスベスベにされていく。

ぬるり、しゅるり、スルリ。

剃刀は走る。

そうして親父の剃刀が私の頬っぺたをあらかた剃り終えたとき、私の鼻から「ふひゅ~」と鼻息が漏れた。

もう恥ずかしさなんて微塵も感じない。

私はすっかりこの髭の親父に身を委ねてしまっていた。


最後の仕上げは目の上にかけられていたタオルをとって、おでこや眉の間を剃ってもらう。

顎の下から瞼の上まで剃りあげられて、出来上がった私のお顔はツルツルだ。

そうして最後に残った泡をタオルでぬぐい取られて顔剃りは終了した。


「ふはぁ~~」


顔を拭われた私は放心したように椅子の上でグダグダになっていた。

もう凄い。

ほんの短い時間だったけど、私はこの髭の親父の妙技にすっかり魅了されてしまった。

そんな油断しきっていた私に親父は言った。


「お客さん、じゃあ、最後に耳もやるね」

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