髭の親父に耳かきしてもらう話(後編)
「耳?」
「はい、耳かきだけど?」
「耳かき!?」
親父の言葉の意味が理解出来ず、俺は目を白黒させる。
耳かき……ここは散髪屋だろ?
どうして耳かきが関係あるんだ?
様々な疑問が一瞬の内に渦巻いていく。
その様子に親父は何かを思い出したかのように言い放った。
「最近の散髪屋ではあんまりやらないけど、うちでは昔から耳かきもやってるんだよ」
「耳かき……するんですか?」
「お客さん大阪の人でしょ」
「あ……はい。よく分かりましたね。こっちにいるときはあんまり大阪弁出さないんですけど」
「イントネーションでね。昔も何人かいたんだけど大阪の散髪屋さんじゃ耳かきしないそうだね」
「はぁ……寡聞にして聞いたことないですね」
「それ何度か言われたからネットで調べたんだけど、条例でやっちゃ駄目ってことになってるらしいね。医療行為がどうとかか、そんな話らしいけどさ」
「そうなんですか? というか、他府県の散髪屋ではそんなサービスがあるんですね」
「まぁ、最近はやってないとこの方が多いけどね。で……どうするの? 耳かき?」
親父に言われて俺は考える。
たまの休みの日に髭面の親父に耳かきされる。冷静に考えればもの凄くシュールな光景だ。
いつもの俺なら即答で断っているだろう。
無論、それは30分前の俺だったらということだ。
だが今の俺はこの髭面の親父の指先が如何に繊細に動き、妙なる技を繰り出すのかを知ってしまっている。断ることなど不可能だ。
俺の注文に親父は「あいよ」と答えた。
そこからはめくるめく体験の連続だった。親父は髭剃りのときと同様にリクライニングの背もたれを後ろに倒すとアイマスク代わりにタオルを俺の顔にかける。
タオル越しにうっすらと蛍光灯の光を感じながら俺は目を閉じた。
これから耳かきが始まるわけだな。
少しドキドキする。
シャンプーしたり蒸しタオルを触ったりと、先ほどまでお湯の作業をしていた親父の手は暖かい。その体温が耳たぶを通じて俺に伝わってくる。普通に考えたら親父の手が温かいなんて気持ち悪い以外の何物でもないはずなのに、今の俺はそうとは感じない。
その理由が耳たぶを掴む親父の力の入れ具合だった。
どういう持ち方をしているのかタオルで視界を塞がれた俺には想像するしかないのだが、親父の指先は俺の耳朶をガッチリとフォールドしながらも絶妙な角度で耳を引っ張っているのだ。
これがもしもう少しだけ強く引っ張られていたら俺は痛みを感じていただろう。だが親父の指に込められた圧は強すぎず弱すぎず絶妙な圧力で調整されている。
耳を引っ張られることで、耳たぶから耳の穴まで心地よい感覚がピリピリと走る。これだけでもまるで耳のマッサージをされているような快感があるのだが、これはまだ親父の持つ手管のほんの一部に過ぎなかった。
耳を引っ張られる快感に俺の心が支配されたとき、その
唐突な喪失感。
だが俺がそれを口惜しく思うことはない。
何故なら次の瞬間には耳の入口近くにツンと突かれるような心地よい痛みが発生していたからだ。相変わらず親父は俺に対して施術の開始を伝えるつもりはないらしい。無言のまま耳かき用のピックが俺の耳孔の一口部分をカリカリと刺激するのだ。
耳かきというからには奥の方にある耳垢をごっそりととるのかと思っていたのだがそうでもないようだ。
親父の操る耳かきの先端は這うように耳の溝を
掻いては離し、離しては掻く。
その繰り返し。
それが一度一度行われる度に初体験の電撃が背筋を走り抜け、俺は身もだえそうになった。
そうして耳介の溝を走り貫ける度に俺の肩に耳かきがポンと触れる。
恐らく俺の肩の上にティッシュペーパーでも置いて、こびりついた耳垢を拭っているのだろう。
それもかなりの回数だ。
そういえば最後の耳掃除をしたのはいつのことだろう?
引っ越し先に耳かき用のピックを持ってきた記憶はない。
多分、前の家にいるときにも買った記憶はない。
ということは、もう5年はやっていないのか?
多分、それくらい前だ。
ホテルに泊まったときにアメニティグッズの綿棒があって、それでグリグリやった気がする。
出張など滅多に行くことがないからよく覚えている。
そのときが最後で間違いない。
考えている間にも親父の手が緩むことはない。耳介の掃除を終えた耳かきはいよいよ耳の穴の中へと侵入を始めていた。
耳たぶを持つ指に新たな圧が生まれ捻じるような動きが加わる。そうすることにより耳孔の角度が調整されより奥の部分が見やすくなっているのだろう。ゆっくりと僅かずつ捻りを加えた圧が止むと、ここと言う場所が決まったようだ。
親父はゆっくりとピックの先端を耳孔に突き立てた。
バリリッッ!!
俺は耳の中で何かが砕けた音を確かに聞いた。それが長年にわたり堆積した耳垢なのだと理解出来たのは親父がズルリと垢を掻きだした後だ。
それも一度だけではない。
二度、三度にわたり親父は耳垢を砕き、外に搬入し続ける。
バリッ――ピックの先端が耳垢の塊を割る
ザクリ――たっぷりと耳垢がこびりついたピックが動き出す
ズルリ――引っ掻くようにして耳垢が運び出される
それぞれの動作が行われる度にこそばゆい感覚が生まれ、足の指がうずうずと疼きだす。耳内の壁面の老廃物が少しずつこそぎ取られる度に生まれるゾクゾクとしたものが腹の底からせり上がってくる。
おい、俺、正気に戻れ!!
俺は今、髭面の親父に耳かきをされているんだぞ!?
必死になって正体を取り戻そうとするがめくるめく快感に身体はぐったりだ。
尻の穴の力まですっかり抜けてしまっている。
もう駄目だ。
色々と駄目になってしまいそうだ。
耳の穴からは以前としてピックが出たり入ったりして、その度にカリカリと俺の脳みそに気持ちのいい信号を送り続ける。
ガサッ――ゴソッ――
カリカリ、コリコリ――
音がする度に鳥肌が立つ。
身体の内側を器具で弄(まさぐ)られるという快感と恥辱。
これだけことをしているというのに、当の親父はただただ冷静に粛々と耳掃除を執行する。
それはもはや職人を通り越し祭事を行う神官のごとき冷厳さであった。
そうして最後の瞬間が訪れる。
――ゾボッ!
何か柔らかいものが耳の穴に入っていった。
ふんわりとした感触。
それは恐らくは耳かき用ピックの尻についている羽の玉――
水鳥の柔らかい羽が耳の内側をくすぐりながらグルリと一回転。
残った耳垢のカスは羽毛に絡めとられていく。
そこで、そぉ~っと耳から抜き出す。
同時に感じる得体の知れない快感。
その感覚にまるで脳味噌ごと抜き取られてしまった光景を幻視する。
もちろんそれは妄想で脳みそは無事だ。
俺は安堵と恍惚のため息を吐く。
◇
ドアを閉めると同時にカランコロンとベルの音が鳴る。
親父の「ありがとうございました」の声を背中で浴びる俺の心には得も知れない満足感に支配されていた。
とんでもない休日を過ごしてしまった。まさかあんな髭の親父に身も心も委ねてしまうとは。
してやられたと思う気がないわけではない。
しかし店を離れる俺の頭の中では一か月後の休みの算段が行われていた。
来月もまた行こう。
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