髭の親父に耳かきしてもらう話

バスチアン

髭の親父に耳かきしてもらう話(前編)

この街に引っ越ししてきたのは先月のこと。馴染みに店も徐々に増えて、慣れない関東の空気が最近ようやく馴染み始めてきた頃のことだった。

今日は休日だ。この一か月の間に休みは何度もあったが引っ越しの片づけや職場の引継ぎなどまともに休めていなかったので今日はゆっくり休みたい……はずだったのだが。

朝一番に鏡を見て俺は唸る。

そこにいるのは30歳を目前にしたくたびれた男がいた。

まぁ、それはいい。

問題はすっかり伸び切った前髪だ。最後に髪を切ったのは2か月前。忙しかったせいで散髪がすっかり後回しになってしまっていたのだ。

ここしばらくはワックスで無理やり固めて誤魔化していたが、これはもうそろそろ苦しいな。

眉を覆い瞼の上まで侵食してきたこの髪を見て俺は決心する。

今日は散髪に行こう。





転勤してから毎日が忙しかったものの駅までの道にある店くらいは覚えている。目的は赤青のストライプがクルクル回る看板サインポールだ。

生まれてこのかた美容院にはいったことがない。学生時代からオシャレにはコンプレックスがあって、ああいうところは何となく苦手なのだ。なので俺は普段から散髪屋に行く。

店にもこだわりはない。本当なら駅に入っているような10分1000円で切ってくれるようなチェーン店がいいのだが、残念ながら自宅周辺にその手の店が見当たらなかった。職場の近くに何件か見たが、せっかくの休みに職場まで行くのは億劫だ。そういった極めて消極的な理由により、俺はその店に向かっていた。

自宅のマンションを出て5分ほどすると、クルクルと回る赤青の看板とともにその店が姿を現す。押戸になっているドアは重く、少し力を入れて開けると上の部分に着けられたベルがカランコロンと鳴った。


「いらっしゃい」


店主は50歳を少し超えたくらいの髭の親父だった。

俺は店内に他の客がいないことを確認すると、親父が立つ席までそのままずんずんと進んでいく。


「どうぞ」

「どうも」

「どうします?」

「2~3センチくらい切ってください」

「もみあげは自然な感じで?」

「はい」

「あいよ」


そうしてそのまま最低限のコミュニケーションだけとるとどっかりと腰を下ろす。

親父は髪がかからないためのヘアーエプロンを無言でかけるとキツくなく緩くもない絶妙な力加減で首元を締めてくれる。

無駄な会話はいらない。こういう無味乾燥な会話が心地いい。

見かけ通り無口な髭の親父は霧吹きで俺の髪を濡らすと、そのままジョキジョキと切り出した。鏡越しに見えるはさみは如何にも手入れが行き届いていて銀色の光沢を放っている。


チョキチョキ、ジョキジョキ――


親父は慣れた手つきで俺の毛先を刻んでいく。親父には申し訳ないが生来髪型にはそれほど興味がないので、完成にもそこまで関心はない。いくら綺麗にまとめても1週間もすれば髪型は崩れるのだ。


ジョキジョキ、ジョキリ――


そんな俺の気持ちに気づいているのかいないのか、鮮やかな手際で俺の髪型を整えた。


「どうすか?」


親父が構えた鏡が俺の後頭部を映す。


「こんなもんでいいです」

「あいよ」


親父は短く答えると「どうぞ」と言った。その視線の先にはシャンプーをするための洗面台がある。

散髪屋でシャンプーをするのは久しぶりだ。ここ数年は1000円の散髪屋にばかり行っていたのだがそういう店ではシャンプーをしない。備え付けの掃除機バキューマーで切った髪の毛を吸い取っていくだけだ。

なので人さまに頭を洗ってもらうというのはずいぶんと久しぶりのことになる。

言われるがままに前屈みになり洗面台の前に頭を差し出すと温かい湯が頭頂部から注がれていった。

豊富な湯で髪を濡らされると毛穴が少しずつ緩んでいき溜まった老廃物が溶けていく。そこへ甘い薫りのシャンプーがたっぷりと髪に刷り込まれ、ワシャワシャという音とともに大量の泡が頭を覆っていく。

親父の指使いはその野太さに反して繊細だ。

毛むくじゃらの親父の指が俺の頭の筋肉をしっかりと掴むとゆっくりと強張りを揉みほぐしていく。

思わず声が出そうになった。

指先は繊細に頭皮を刺激し、指の腹は力強く筋肉をマッサージし、俺の頭をとろかしていく。

実に気持ちがいい。

親父は「痒いところはありませんか?」などと無粋なことは口にしない。

問わずとも頭の上で起こった全てを把握しつくしているのだ。


む、く、ほぐす――


気持ちいい。

実に気持ちいい。

皮膚や筋肉だけでなく脳が解されていくようだ。

もちろん脳は硬い頭蓋により保護されているのでそんなものは幻想だ。しかし親父の繰りだす妖しい技はそんな現実など打ち砕くかのように俺の脳に染み込んでいく。こうして泡を流されたときには、俺は親父の美技にすっかり魅了されていた。

髪の毛の水分をタオルでふき取られドライヤーが残りの水分を乾かしていく。

ほっこりしたそのタイミングで座っていた椅子のリクライニングが後ろに倒れた。

横目で見えたのは剃刀かみそりだ。

そうか。

これも久しぶりですっかり忘れていたが、カットだけのいつもの店と違い散髪屋では髭を剃るものなんだ。

もちろんいらないと言ってもいいのだろうが、身体が完全にリラックスしてしまっていて断るのも何だか面倒くさい。

そういえば料金はいくらくらいなんだろう?

昔行っていたこういう散髪屋はだいたい3000円~5000円で結構幅があった。

まぁ、いいや。

やってもらおう。

すっかり思考を放棄した俺に向かい親父は粛々と髭剃りの準備を続ける。

まず最初に取り出されたのは蒸しタオルだ。

温かいタオルが湯気を上げながら俺の顔に乗せられる。

これがまた良い。

タオルの蒸気がストレスで強張った顔の筋肉を緩め毛穴をこじ開けていく。

思わす口から「ふひぃ~」と息が漏れた。

その間に離れた場所でカシャカシャと音が聞こえる。

きっと髭剃り用のしゃぼんの泡を立てているのだろう。そうしてしばし蒸された顔からタオルが取り上げられるとひんやりした空気の感触が俺を迎える。

開いた視界にはこんもりと泡の乗った髭剃りブラシ。

それが何の遠慮もなく俺の頬を塗りたくる。

その泡がまた温かい。

蒸らされて柔らかくなった髭に泡が絡みつき、そこに剃刀が当てられる。鋏と違い衛生対策のために使い捨ての剃刀のはずなのだが、親父が持つと使い捨ての剃刀の刃がまるで日本刀のような輝きを放ち出す。

親父の両の眼がギラリと光った――ように見えた。

同時にピタリと立てた刃がそのまま縦にスライドしていく。

柔らかくなった髭からは、手ごたえは伝わってこない。

自宅で髭を剃っているときのジョリジョリもゾリゾリも聞こえてこず、スルリスルリと剃刀は俺の顔を滑り抜けていく。

わずかにかかった圧が髭を刈り取り余分な脂が取り除かれた俺の頬にはしっとりとした潤いが生まれていた。

見事。

実に見事だ。

さぁ、あとは髪を整えてフィナーレだ。

そう思った矢先のことだった。


「じゃあ、耳もやるね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る