決着
振り下ろされる膨大な熱量を伴ったイフリートの拳。それを迎え撃つは、サイズでは圧倒的に劣る人間の健司。
単純に見るのであれば結果は火を見るよりも明らかだ。健司が炎の拳に押しつぶされその身を焼かれ――それで終わり。ただの人間が抗うにはあまりにも強大な力を前に、何の抵抗も出来ずに死する未来が待っているだろう。
しかし現実とは時に虚構すらも超越して、あり得ない結果を導き出すこともある。
現に今、目の前に広がる光景がそうであるように。
『ば、馬鹿な……っ!?』
「我ながらよく出来たもんだなあ……ていうか周りがメルヘン過ぎる……」
イフリートの拳は健司の両の手によって受け止められていた。それだけでも十分に驚くべき光景であるが、更に驚くべきものがある。
それは健司やイフリートの足元、もっと言えば部屋中に散らばった――お菓子だ。
キャンディ、クッキー、チョコレート、ドーナツ、ケーキ、シュークリーム、アイス、どら焼き、羊羹、洋菓子和菓子などのジャンルを問わず様々なお菓子があちこちに散乱していた。
健司がメルヘンだと言った理由も分かる。きっと風景だけに絞って見ればまるで童話の世界に迷い込んだかと錯覚してしまうだろう。
探せばお菓子の家やそこに住む魔女すらも出てきそうだ。
そんな光景、ある意味で惨状を見て健司は苦そうな顔をしていた。
「マジで勿体無いな……しかも自分が仕出かした事だと思うと猶のこと許し難い。なんか対策考えないとこれ以上使うのには抵抗が――」
確かに、人並に食べ物を大切にするという感性を持っていれば直視し難い光景かもしれない。
あちこちに散乱したお菓子は地面に叩きつけられてグチャリと潰れている。特にケーキなんかは悲惨なぐらい原型が無い。もはやただのクリームと生地の塊になり果てている。
仕方なかったとはいえ、いざそれを目の前にするとやっぱりやんなきゃよかったと思うのも当然なのかもしれない。
そんな健司の気持ちとは裏腹に、イフリートはたった今起こった現象に驚愕していた。
イフリートは、自身の拳が確実に健司を捉えたと確信していた。事実、受け止められはしたが健司は両手を使い防御している。
だからこそ、イフリートは受け止められた理由が理解出来なかった。
確かに目の前の人間は突然、妙な力を使うようになった。騎士や王、女王に何かをしてその身体を喰らった。その力の正体こそ分かってはいないが、一つ確信していることがあった。
それは、健司自身の身体能力は変化していないということだ。
様子が変わって変わってからもイフリートはずっと健司を観察し続けていた。一挙手一投足に至るまで、小さな変化も見逃すまいと具に様子を見続けた。
そうして分かったのが、先程の答えだった。正体不明の力を使うようになったものの、それ以外には何も変わっていないと結論付けた。
だというのに、健司は圧倒的な質量と大きさを誇るはずの自身の一撃を受け止めてみせた。
これは一体、どういうことなのか……?
更にイフリートはインパクトの瞬間に、ある違和感を感じていた。
拳から伝わってくる手応えが妙に軽かったのである。まるで岩を砕こうと思って、水面を叩いたかのような変な感覚だ。
ここから推測できることは――あの正体不明の力、もしくはそれに準じるか同等の力を使って相殺された、という可能性。
本当にそんな事が可能なのか? だが現にそれをされたから、今の状況になっているのだ。であれば、可能か不可能かなどという議論は無意味に過ぎない。
可能だと考えてこの人間を確実に殺す方法を考えるべきだ。
しかし、イフリートは気付いていなかった。
健司がしたのは、何もイフリートの一撃を防御するだけではなかったということに。
健司側からの攻撃は既に行われているということに。
それに気付いたとき、イフリートは健司に向かって振るった片腕を犠牲にせざるを得ない状況に陥っていた。
『――っ!?』
「ちっ、バレたか」
イフリートはそれに気付き、咄嗟に右腕を引っ込めた。その様子を見て健司は舌打ちを漏らす。
時間にしてみれば、ほんの数秒の間でしかなかった。たったそれだけの時間で、イフリートの腕は『何か別の物』に変えられてしまっていた。
まともに動かすことは出来ず、自身がもつ高い状態異常への耐性も機能しない。
最初からそうであったかのように。そうであることがさも自然であるかのように。イフリートの右腕は、肘の辺りまで物言わぬ彫刻と化してしまった。
途中で自らの作戦に気づかれ逃げられてしまった健司は、しかし内心では安堵の溜息を吐いていた。
健司とて、スイーツマジックがイフリートの身体に直接効くのかどうかという部分は賭け要素が強かった。
拳に振り下ろしに関しては、その勢いと衝撃をお菓子に変換することで乗り切ることが出来た。
その所為で大量のお菓子が犠牲になったのはいただけなかったが……
そして同時に触れている箇所から
しかし健司の懸念は障害とはならず、イフリートの右腕をお菓子へと変えてしまった。
『き、貴様ぁ……ああぁぁぁ!!?』
イフリートは自分の右腕は既に元には戻らないと察した。そして自らの意思で右腕を焼き切ったのだ。
炎に包まれたその奥には肉体が存在していた。血は吹き出しはしなかったが、肉の焦げる臭いが健司のもとまで漂ってくる。
腕を失った痛みと、人間如きに腕一本を奪われるといった自身の醜態に絶叫を上げたイフリートは血走った目で健司を睨みつける。
『死ねぇっ!!!』
「ぐぬぃぃ!!――」
健司に触れては危険だと判断したイフリートは、炎の
その進路上にあったお菓子は溶け、石の床は溶けて赤熱化する。身体に纏う炎よりも圧縮され、もはや閃光と呼べるほどにまでなっている。
しかし健司は再び<スイーツマジック>を発動させ、それを無傷で防ぎ切った。
「……さすがに死んだかと思ったぜ」
『あり得ん、あり得んぞーー!!? 何なのだその力はぁぁ!!?』
「何だって……ただの『おかしなスキル』だよ。まあ俺自身こんな風に使うなんて想像もしてなかったけどな。と言うか使ってる俺でも分からんし。でも――お前に通用する力だって事が分かっただけで十分だ!!」
そして健司はイフリートに向かって走る。
先程までは防御やカウンターに徹していた健司が自らの意思で自分に接近してくる。
そのことにイフリートは恐怖心を抱いてしまった。防戦に徹していた人間が攻勢に出る理由はたった一つ。必殺の一撃を自身に叩きこむために違いない。
もし健司の接近を許せば次こそ間違いなく殺される。あの右腕のようなナニカに変えられてしまう。
――また、人間に負けるのか?
近づいて来る健司の姿に重なるのは、かつて全盛期だった自分を封印した人間の姿。あの時の光景がイフリートの脳内にフラッシュバックする。
イフリートにとって人間は、戯れでその命を弄ぶような生き物であった。気が向けば遊んで殺すし、気が向かなければそのまま殺す。
その度に自分に向けられる恐怖の籠った目と、絶望の感情がイフリートは大好物だった。
そんなエサや玩具としか認識していなかった人間に二度も負ける……?
『そんなことがあってたまるかぁぁぁぁぁぁ!!!!!』
そしてイフリートの怒りは爆発した。物理的な影響力を持って放たれたその咆哮は、膂力の変化しない健司の身体を下がらせるには十分な圧力を持っていた。
「うわっ!?」
悪魔にとって一番のエネルギーは、人の感情だ。
だがしかし、人の感情が一番美味だというだけで他の生物の感情を捕食出来ない訳では無い。
そしてそれには自身の感情すらも含まれる。それは自分自身を喰らうのと同義であり、悪魔であろうと決してやろうとしない禁忌――だが同時に禁忌であるが故に、それが齎すエネルギーは膨大だった。
『があああああぁぁぁぁっ!!!!』
「な、何だよ……? ここまで来て敵がパワーアップするのか? マジで……?」
『パワーアップというより、かつての力を取り戻しているって表現の方が正しいわ』
「シュガーさんっ!!」
イフリートが変化を続けるのを信じられない思いで見ていた健司に、引っ込んでいたシュガーが語りかけてくる。
『多くの国を滅ぼして人間たちから炎魔王と恐れられたイフリートの本来の力よ。もし全盛期と同等の力を取り戻すんだとしたら、さっきまでの比じゃないわよ。少なくとも三倍……いえ、五倍ぐらいはあるでしょうね』
「マジですか……あの、ここまで何とか頑張りましたし、ここから先はシュガーさんが変わってくれたりとかって――」
『無理よ。何度も言うけど私が出たのはイレギュラーだし、それにもう出る事は出来ないの。今話しているのだって無理を押してるんだから、あんまり無茶を言わない!』
「ですよねえ……」
シュガーの言ったイフリートの力は健司にとって到底看過できるような状況ではなかった。
さっき放たれた
本来なら閃光そのものや衝撃すらもお菓子に変換してしまう予定だったのだが……受け止めた両の掌から確かな熱を感じ取っていた。火傷こそしなかったものの皮膚が赤くなる程には熱かった。
もしもパワーアップしたイフリートが同じ攻撃をしてきたとしたら……今度は火傷じゃすまないだろう。
であればどうにかイフリートのパワーアップを止めるべきなのだが、近付くことが出来ずそれすらも不可能な状況だ。
『まあ今回は既に例外中の例外だし、ちょっとだけ手伝ってあげるわ』
「本当ですか!?」
『でも、私が代わりに戦うとかでは無いから。あくまで戦うのはあんた。私は少し手伝うだけよ』
「それでもいいです! お願いします!!」
『があああぁぁぁぁぁぁ!!!!』
そして魔王が降臨した。
自身の感情を喰うということは、後に残るのは理性の無い本能のみ。
野生の獣と化したイフリートの姿がそこにはあった。だが、その真っ赤な眼だけは狙い違わず健司だけを射抜いていた。
理性を無くしても、健司を殺すというその目的だけは本能に刻みつけられていたのである。
イフリートはその姿を変えていた。
先程までは見上げる程の巨人だったにも関わらず、その大きさな長身な人間と同じぐらいまでに縮んでいる。そしてその身体も全身が炎を纏う形態から、褐色の肌に青い炎を着込むような形態に変化している。その上、失くしていたはずの右腕まで再生している。
しかし小さくなったからといってその力が縮小した訳では無い。むしろ増大し、圧縮され部屋の温度が何十度も上昇したように感じられる。
まるでサウナの中のようだった。決定的にサウナと違うのは、湿気は存在せずただそこにいるだけで全身から水分が抜け乾いていくような感覚を味わうという点である。
一声、大きく吼えたイフリートは音すら置き去りにする程のスピードで健司に迫って来た。
『防御なさい!!』
「はっ――うごぉっ!!?」
シュガーの言葉に反応しようとした健司だったが、間に合わない。
イフリートの強烈な拳が腹部に叩きつけられ、身体が浮く。しかしイフリートの攻撃はそれで終わらない。
凄まじいスピードでの連打を繰り返し、骨を砕き内臓を破裂させ、健司の身体を吹っ飛ばした。
『回復は私がするっ!! あんたは目の前に集中しなさい!!』
「は、い――!!」
破壊されると同時にシュガーが健司の身体を治療する。
痛みで飛びそうになる意識を何とか押し止め、イフリートに向かってスキルを発動する。
しかし先程までよりも明らかに通りが悪い。それに何よりスキルを使っても身に纏う炎の熱を防ぎきることが出来なかった。直接触れるのが一番効率がいいのに間違いないが。触れ続ければ自分の腕が炭になる。
「あっつ、ヤバい……っ!!」
『いいっ! 私がやって見せたのはスキルのほんの一面に過ぎないわ! <スイーツマジック>はもっと自由な力なの! 分かる!?』
もっと自由な力……?
『そうよ! 決まった形なんて無い、やろうと思えば何だって出来る! それが<スイーツマジック>っていうスキルよ! 炎だろうが魔王だろうが、甘く染め上げてやりなさい!!』
……
シュガーの言葉は、抽象的で具体的に何をしろという指示では無かった。
だが、健司にはたったそれだけの言葉で十分だった。
もっと早く、もっと強く、そしてもっと甘く――
イフリートをお菓子に変えてしまえ。
すると健司の中で、何かが弾けた。
雁字搦めになっていた鎖が解けるように。
〈スイーツマジック〉が手足のように扱えるようになっていく。
ようやく健司がスキルに適応するかのように。逆にスキルが健司に馴染んでいくかのように。
「終わりだ、イフリート」
健司は自身に打ち込まれたイフリートの腕を掴んだ。
スイーツマジックは先程までとは比べ物にならないスピードでイフリートの身体を侵食していく。
必死に逃れようとするイフリートだったが、健司は決してその腕を離さなかった。力で上回るはずのイフリートが振り解くことが出来ないほどの力で、抵抗を抑え込む。
『があ、ああ、ぁぁ……』
そして数秒後、イフリートは完全にお菓子の彫像と化した。
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