悪魔は嗤い、人は――
それが視界に入った瞬間に感じた。
ああ、アレは間違いなくヤバい――
それは人間に残った僅かながらの野生の直感だったのか。それとも生物としての本能が火を恐れたからだったのか。
理由は定かじゃない。でもアレを見たときから寒気が止まらなかった。
爛々と目の前では炎が燃え盛っているはずなのに、雪山にでもいるかのような寒気を感じる。
頬を伝う汗が顎で集まって大きな雫となって地面に染みをつくる。
心臓は早鐘のように脈打ち、次の瞬間には口から飛び出してしまいそうだ。
俺は、目の前の存在がヤバいものであると。人間として……いや生物としての直感がそう告げていた。
漫画とかではよく見かけるような表現を、俺は間近に感じていた。
『どうした? 何故一言も語らぬのだ?――ああ、そうか。身が竦んで動くことが出来ぬのだな。少し気が盛り上がってしまったか』
青い炎がそう言うと、先程まで感じていた圧力やら何やらが急激に引いていくのが分かった。
その瞬間、俺は走り出していた。
もちろんアレに向かって行くことなんてしない。
入って来た扉の方だ。
死ぬと分かっている相手に挑むなんて馬鹿な真似はしない。
むしろ一刻も早くこの場から逃げ出さないと頭がどうにかなりそうだった。
少しでも、一秒でも早くあの化け物と距離を取りたい。
あの存在をひとさじすら感じられないぐらい遠くに。
しかし、青い炎は俺の逃走を許さなかった――
『まあ、折角ここまで来たのだから。もう少しゆっくりしていくといい』
扉は鼻先のところで閉じられた。俺は完全に行き場をなくした。
そんな俺を嘲笑うように化け物は猶も俺の頭の中に言葉を送り続ける。
『さっきも言っただろう? お前は我が復活する為のエサなんだよ、人間。目の前に降って湧いたご馳走を我がみすみす逃すわけがないだろう』
「あ、ああ……」
『なに、そんなに怖がることは無い。我は今酷く機嫌がいい。普段ならすぐに喰らうところだが、少しだけ遊んでやろうではないか』
何かが後ろで動いたような気配があった。
本当は見たくなんて無い。振り向きたくなんて無い。そんな気持ちを抑え込んでゆっくりと身体ごと反転させる。
『貴様にはまだ絶望が足らん。ご馳走はやはりとびきり美味い状態じゃないと意味がない。しっかりと味付けをさせてもらおう』
青い炎の前には、さっきまではいなかったはずの小さい炎がいた。
小さいといっても比較対象があの巨大な炎の塊だ。恐らくは人間と同じぐらいの大きさはあると思う。
その小さい炎が三つ。ゆらゆらと揺らめきながら形を不定形に蠢かせていた。
次第にその揺らめきは形を作っていき、変化が終わる頃には人間そっくりの形になっていた。
それぞれが手に剣の形をした炎を握って、まるでフルプレートメイルのような形をした炎の鎧を身に纏っている。
『さあ、存分に絶望してくれ』
その言葉を合図にして、人型の炎の騎士達は一斉に俺に襲い掛かって来た。
その内の一体から振り下ろされる炎の剣を、辛うじて自分の刀で受け止めるが――
「あつっ……!!」
剣から刀へ炎の熱が伝わり持っていられない程の熱を帯びる。
でも、ここで武器を手放したら間違いなく俺は殺される。だからこの刀は何があっても手放さない。
その一心でむしろより強く握り込み、全力で力を込めて騎士を後ろに下がらせる。
それと同時に俺自身も距離を取るために後ろに下がるが、他の騎士達がそれを許さない。
左右から回り込んだ騎士二体は、さっきの奴と同じで一切の容赦なく炎の剣を振り下ろしてくる。
なるべく鍔迫り合いの時間を作らないように受けたり流したりして何とかその場を切り抜ける。
幸いなことの炎の騎士達の動きはそこまで早くない。
それに身体が炎だからなのか攻撃自体もそこまで重くなかった。
……これなら何とかなるかもしれない。でもその後は?
あの巨大は青い炎は意図も容易くあの騎士達を作ってみせた。例え今戦っている三体を倒したところで、追加されないと言い切れるか? それは希望的観測が過ぎるだろう。
今俺はしなくちゃいけないことはたった一つ――戦いながら逃げ道を探すこと。
このまま戦ったとして、どっちに転ぼうと最終的に負けるのは俺だ。そしてダンジョンでの敗北とはそのまま死を意味する。
死ぬわけにはいかない。だから負ける訳にはいかない。
馬鹿な頭をフル回転させて、この場を切り抜ける方法を全力で考えるんだっ!!
必ず、必ずこの場所から出る方法はあるはず!!
『ほぅ、思ったよりも動けるのだな。ではもう二体程追加しようか』
それは、俺にとって死刑宣告にも等しい言葉だった。
三体の騎士に対応するだけで必死こいてたのに、更に二体追加するって……?
そこからの事は文字通りに必死過ぎて上手く思い出せない。
追加されて五体となった炎の騎士相手に死に物狂いで戦った。四方から振り下ろされる剣を掻い潜りどうにか隙を見つけては一撃を加える。
そんな攻撃が通用するのかは謎だったが、どうやら通じたらしい。何度か斬りつければ騎士は四散して消えて行った。
そして五体全てを倒し終える頃には、俺の身体は既に満身創痍だった。
身体のあちこちは焼け焦げて、買ったばかりだった防具はもはや防具の意味を為しているのかさえ微妙な有様だ。
唯一救いと言える点は、相手の剣が炎で出来ていたことだろう。
お陰で斬られると同時に炎によって止血もされていた。そうでなかったら今頃出血多量で死んでいたかもしれないな。
「はぁ……はぁ……はぁ――」
呼吸をして空気が出入りするだけで喉が痛くなる。
口の中は血の味がするし、全身から鈍い痛みと火傷の熱が伝わってくる。
本当に、もう、コンディションは最悪だ……
その上、まだ脱出方法を見つけることすら出来ていない。
『おお、よく騎士達を倒したな! 良き余興であった!』
「ふ、ざ……けんな……」
『まだ目から希望が消えていないか……いいぞ! そういう人間が絶望した時が一番美味しくなるんだ!』
ああ、この化け物はどこまでも俺のことをエサとしか認識していないんだな……
話から察するにこれまでにも何度もこうして人間を喰ってきたんだろう。
果たしてその中にこの化け物から逃げおおせた奴は一人でもいたんだろうか?
いや、きっといなかったんだろうな。
そうでなきゃあんなに余裕ぶってないで、さっさと喰うだろうからな。
炎からは表情は分からない。
けれど、言葉の端々から口角を釣り上げて嘲笑う姿を鮮明に思い浮かべることが出来る。
どうする? どうすればここから抜け出す事が出来る?
何か、何か無いのか!?
『どれ、しかしそろそろ我も我慢が出来なくなってきたな。ここらで最後の仕上げとしようか』
そう言った青い炎はまた騎士を作り出す。
しかし今度は一体だけだった。形はさっきまで相手していた奴等と一緒なのに――何故だろう。
こんなにも嫌な予感がするのは……
次の瞬間だった。
俺は壁に叩きつけられていた。
その拍子に肺の空気が全て吐き出されて呼吸が出来なくなる。それと同時に襲ってくるのはこれまでに体験したことの無い程の激痛だった。
全身の骨が折れてしまったのではないかと錯覚するほどの痛みが絶え間なく続いている。
あの一瞬で何が起こったのは、間近で見ていた俺にもよく分からなかった。
ただ確実に言えるのは、突然目の前に騎士が現れたかと思うとそいつの拳が眼前に迫っていた。そして気が付いた時には壁に叩きつけられていたということだけ。
だから想像は出来る。
俺は、あの炎の騎士にやられたんだ、と。
立ち上がらなければ殺されるのは分かっている。
でも身体が動かない。指先ぐらいは辛うじて動かすことが出来るが、起き上がろうとしても言うことを聞かないんだ。
うつ伏せになり、ほとんどが地面となっていた俺の視界に炎で作られた足が入り込む。
俺を見下ろしていた炎の騎士は、徐に俺の服を掴んで強制的に立ち上がらせる。
少し動くだけで激痛が走る状態だった俺の身体は、たったそれだけのことで悲鳴を上げていた。
「ぃ……ぁぁ……」
俺も思わず声が漏れる。
視界に捉える炎の騎士が次に何をするのかと思っていると、俺の腹部に手を置いた。
するとそこから凄まじい熱が伝わってくる。
「あぁっ!?!?」
『体の端から燃やしていこうかとも考えたが、言った通りそろそろ我慢の限界なんでな』
身体の内側から焼かれていくようだった。
その間、俺は何もすることが出来なかった。
ただ痛みに悶え、悲鳴を上げるだけの機械と化していた。
なんで、こんなことになったんだろう……?
ダンジョンで扉を開いた段階で引き返しておけば良かったのかな? それとも最初から隠し部屋の調査を自分でやるなんて言わずにギルドに預けておけばよかったか? そもそも冒険者を始めたのが間違いだったのか……?
いや、違う。
そんなことは無い。
間違いかどうかなんて分からないけど、少なくともどの選択も後悔はしていない。
この隠し部屋に来たことも、扉を通ってこの空間に入って来たことも。ましてや冒険者になったことなんて言うまでも無い。
だって俺にとってはそのどれもが冒険だったから。冒険をしたくて冒険者になったのに、それを後悔するなんて自分自身の人生を否定するようなものだ。
ただ俺には抵抗するだけの力が無かった。
こういう危険な罠に嵌った時に、そこから抜け出せるだけの知恵も力も足りなかったんだ。
だから今、こんな目にあっている。
つまりは自業自得ってことだな。
――ああ、きっともうすぐ俺は死ぬんだな
桃木さんにも、愛華にも、父さんにも母さんにも無事に帰るって約束したのに。
冒険者になってたった数日でその約束を破ることになるなんて思ってもいなかった。
目の前で揺らめくのは、騎士から立ち昇る青い炎だけ。
最期に見るのがこんな光景だなんてな……
なんだかこうして見ていると……まるで水の中にでもいるみたいだ。
青くてゆらゆらして、この熱ささえ感じなければ本当に水の中にいると錯覚していたかもしれない。
いやでも水にしては青すぎるか? ブルーハワイ色? こう熱いとかき氷が食べたくなってくるぜ。
ははっ、死ぬ直前にまで食べることかよ。
しかもブルーハワイにかき氷って。最近スキルのことでスイーツとかお菓子とか色々考えてたせいか?
まったく、毒されてきてるな俺も……
ああ、最期に甘いものが食いたいなあ――
――
――
――……
――……ドクン
――……ドクン、ドクン
健司を追い詰めた巨大な青い炎は、それがこんがり焼けるのを楽しみに待っていた。
久しぶりにやって来たご馳走をもうすぐ食べることが出来るかと思うと涎が止まらない思いだった。
鼻は無いが、徐々に美味そうな匂いが漂ってくる。
そう肉の焼ける香ばしい匂い、そして甘いお菓子の匂い……
――甘い、匂い?
ソレは疑問に思った。
何故、こんなに甘い匂いが漂ってくるのか?
もしかあの人間が甘味でも持っていてそれが焼ける匂いなのかとも思ったが、それは肉が焼ける匂いを遥かに凌駕している。
次第に部屋中が甘い匂いが充満していき、少しすれば肉の匂いはどこへやら。
甘ったるい匂いが空間を覆い尽くしていた。
『なんだ、これは?』
ともかく、そろそろあの人間がちょうど良く焼ける頃だろうと思い騎士に命じて自分の元へ持ってこさせようとする。
しかし、ここでおかしなことが起こった。
炎の騎士が命令を聞かずその場から動こうとしないのである。
『どうした? 何故動かない!?』
ソレは何か、自分の想定外の事が起こっていると感じた。
だからこそ更に数体の騎士を作り出して、健司とそれを焼いていた騎士を確認しに行かせた。
しかし一定の距離まで近づいた瞬間だった。
その騎士達も命令を受け付けなくなり、その場から微動だにしなくなった。
『なんだ!? どうしたというのだ!?』
その疑問に返事をしたわけではない。
しかし、変わりに声が聞こえてきた。
「ああ……炎って美味いんだな……」
――食っていた。
その人間は騎士を、炎を食っていた。
そして至極幸せそうな表情をしている。
『どういうことだ……』
それは自分が作った騎士の一体が、健司に食べ尽くされるのをただ見ているしかできなかった。
あまりの衝撃と、その信じられない光景が故に。
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