月面逃避行

 例えば、色のない世界を想像してみよう。そこに絵画は存在するだろうか。仮に、音のない世界に音楽は存在するのだろうか。私はいつもそんなことを妄想して、暇をつぶしている。月に着くまでの間は暇で仕方がない。約四万キロの距離はさすがに今の地球文明の力をもってしてもいまだ遠い。移動だけでも半日はかかる。半日も真空の中を飛んでいるなんて、正直実感がわかない。というのも、私が産まれたころには人類が宇宙空間にいるなんてことは当たり前だったし、それからも日進月歩で技術は発展していたのだから、いまさら驚くことでもないし、実感がわかないのも当然のことだ。前時代の偉人たちが目指した月は、もはや未踏の地ではなくなった。観光施設も作られ、研究施設もあり、今は貴重な資源の供給元として使われている。

 月面ステーションはふたつある。ざっくり言ってしまえば月の表と裏だが、表のほうは観光施設も兼ねた商業区で、裏のほうは実験施設が立ち並ぶ研究特区とでも形容するべきだろうか。今回私が向かっている先は商業区のほうだ。本来研究員である私は研究特区に向かうべきなのだが、諸事情から商業区の視察を任命された。視察というといかにも仕事と言った感じの響きだが、その実態はそこまで複雑な任務じゃない。言うなればまだ研究特区で登録がされていない月生まれの住人、未登録ルナリアンの登録をして来いという雑用にすぎない。我らがラボのボスは私たちによく雑用を回してくる。それもそのはず、ボスはもう事実上引退間近の身なので、なかなか新しい実験や調査に参加させてもらえないのだ。もちろん実績はある方なのだが、研究員の育成という観点から考えれば当然の帰結と言える。私たち数人のラボメンバーは次の異動までこんな雑用を繰り返さなければならない。私が今回地球からシャトルで月へ上がってきたのは、政府から地球での会合に参加してほしいとの意向があったからで、そんな理由でもなければとんでもなく暇な月地球間旅行など誰が好んでするものかと、つい本音が飛び出してしまうところだった。

 地球での会合、といっても学会発表の手伝いという名の雑用だが、アフターパーティーではなかなか出会うことがないビッグネームと話す機会もあったので、それはありがたかった。月の鉱物の専門家、ルナリアン研究の第一人者、宇宙線研究の第一線で活躍している教授などが一堂に会している中で行われたアフターパーティーで、私はできる限り情報と知識を集めた。もっぱら「君のところのボスは大変だろう」という笑い話が主だったが、最新の知識に触れる機会は、うちのラボでは滅多にない。この機会を逃すまいと躍起になっていた私は、地球での時間を有意義に過ごした。

 それでもこんな形でトンボ返りするとは思ってもみなかった。正直ボーナスが出ないことに関しては意義申し立てくらいはさせてもらってもいいだろう。

 商業区五番ゲートに向かう。

 『パスカードを提示してください』

 スキャンゲートからAIの音声が聞こえる。私は研究者パスカードを提示して、すんなり通してもらう。研究者パスカードは商業区の施設内であれば基本的にほぼすべての区画にアクセスできる。そういった経緯もあって今回のルナリアンの調査に回されたというのが本当のところだろう。

 「おい、エイミー!」

 ゲートをくぐってすぐ名前を呼ばれてびっくりする。

 「マイク……あなたも商業区に飛ばされたの?」

 マイクは同じラボの同僚だ。ちょっと声が大きいのが難点だが、非常に優秀な研究者で、我がラボの次期代表と称されている。

 「あぁ、ちょっと俺は別命なんだがな」

 「別命?」

 なんだか穏やかじゃないな。いいか、とマイクが小声になる。

 「これはまだ未確認の情報なんだが、どうやらこの商業区のどこかでルナリアンの不正取引が行われているらしい」

 「ちょっと……それって……」

 「あぁ、条約違反だ。きみのほうでも気をつけて調査してくれ。どうもきな臭い動きがあるようだ」

 世界政府月資源機構の条約ではルナリアンの自治権は認められている。月移民が増えた三十年前から締結された条約だ。まだ絶対数が少ないとはいえ、他者の権利を侵害して良い理由などあってはならない。月は植民地ではないのだ。そんなことがまかり通ってしまったら、人類史上初めての宇宙戦争にだってなりかねない。

 「といってもまだ調査段階だ。うかつに動くなよ? エイミー」

 「わかった。でもマイク、そうすると私の任務はあまり必然性がないように感じるんだけど……」

 「悪かった。今回の件、きみに関してはスケープゴートだ。目くらましにしてしまって申し訳ない」

 「そういうこと……まぁいいわ。どちらにせよ大事なことだもの」

 「そう言ってもらえると助かる」

 それじゃ、と言ってマイクは地下区画のほうへ向かっていった。最初からアタリは付けていたのだろう。政府も遊んでいたわけではなさそうだ。


 商業区にはスラムとまでは言わずとも、貧困層が住む区画が存在する。私の調査範囲はこのあたりなのだが、問題は登録外のルナリアンがいるかどうかであり、登録されているルナリアンに関しては条約上、その権利と身柄の安全は保障される。だが、登録外となるとその限りではない。そこが問題なのだ。登録外であった場合、マイクの言っていたルナリアンの人的取引が事実として行われていたら、守るすべがない。政府の意向として、ルナリアンにも平等に地球人と同じ権利を与えるというのが方針だ。もちろんそれには潜在的な差別意識が含まれているが、それもそのはずで、ルナリアンは地球に行くことができない。厳密に言えば行くことはできるのだが、重力の関係上、その身体は地球の重力に耐えられない。そのため、地球に対して憧れを抱くルナリアンもいれば、地球に対して憎悪を抱くルナリアンもいる。この線引きは非常に難しい社会問題となっていて、現在もなおルナリアンの独立運動は後を絶たない。要は地球政府側に管理されることに対する抵抗であり、それに付随する差別意識へのアンチテーゼでもあるわけだ。

 「あなた、誰?このあたりの人じゃないわね」

 突然浴びせられた猜疑心に満ちた眼差しと言葉に、私は一瞬ひるんだ。

 「人にものを訪ねるときは先に名乗るのが筋じゃないかしら?」

 私は落ち着きを取り戻し、目の前の女性に相対する。

 「そうね、それはあなたが正しいわ。私はソニア。この区画でまとめ役のようなことをやっているわ。で、あなたは?」

 「私はエイミー。月の施設研究員よ。この区画には登録外ルナリアンの調査で訪れた」

 マイクの仕事については伏せておいた。ここで下手に彼女を刺激するのは良くないと判断したからだ。

 「登録外ルナリアンね……ここで生きていくのに誰の許可がいるのかしら?」

 まぁそう来るだろうとは思っていた。彼女はルナリアンだ。

 「月での出生届は義務付けられているわ。登録外だと権利が保障されないの。わかっているでしょう?」

 「そんなのは地球側の都合でしょう?私たちには関係ない」

 「たしかに月住人の管理については地球側の都合でしかないわ。でも、それとルナリアンの健康や生命の権利については別の問題よ」

 私とソニアが睨みあったまま数秒。ソニアが口を開いた。

 「月での生活は過酷だわ。あなたも研究員ならわかるでしょう? 居住区域から一歩でも外に出れば死んでしまう。その上私たちの労働は合法的に搾取されている。そんな地球政府の都合で管理されるなんてまっぴらだわ」

 「搾取……」

 「そう、私たちからすれば搾取だわ。月で得たものは月で使われるべきじゃない?」

 私は論争をしにきた政治家じゃない。ソニアの言っていることは一理あるが、私の一存でどうにかできる問題じゃないし、今回の任務とも異なる。

 「それを考えるのは今の私の仕事じゃないわ。思うところは、なくはないけどね」

 「研究員さんも大変ね。そういえばもうひと方は地下区画へ向かったようだけど、あなたのお仲間さん?」

 「同僚よ。どこから見ていたの?」

 「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。よそ者はこの辺の区画では目につくのよ」

 「……ともかく、話を戻すわ。登録外ルナリアンはこの区画にはいないのね?」

 「ええ、私が知ってる範囲では」

 「そう。なら、私はもうここから出ていくわ。よそ者には厳しいようだし」

 ソニアの目線を背中に感じながら、私はその場を後にした。


 マイクから通信がきたのは、商業区画でランチを摂っているときだった。

 『ルナリアンの人身売買の現場がわかった。どうやら月マフィアが絡んでいるらしいが、政府の息がかかってる連中もいる。これは国際問題だ。こっちはとりあえず上に報告するが、これでは対応がされないんじゃないかと危惧している』

 「目的はなに? こっちでは登録外ルナリアンは見つからなかったわ」

 『いるところにはいるってことだろうな。いずれにしてもこれでは実態調査に踏み込む大義名分がない。お手上げだ』

 「ということはやっぱり……」

 『どうした? そっちでなにか掴んだのか?』

 「貧困層の区画でそれらしい人物を見かけたわ。根拠はないけど、調べてみる価値はありそう」

 『わかった、そっちは任せる。こっちは引き続き上の指示を待ちつつ行動に備える』

 「了解。通信終わり」

 ため息をひとつ吐いて、やはりソニアがなにか隠しているということを確信する。問題は彼女が口を割る可能性が低いということだ。だけど、このままでは犯罪をみすみす見逃すことになる。研究者としてもそれは気持ちの良いことではない。本来は私たちの管轄外だが、上層部に不穏な動きがあるとなると、黙っているのも癪だ。そのくらいの情熱は私も持ち合わせている。

 「ソニア」

 「あら、また来たの? 研究者さん」

 「あなたに言うことではないかもしれないけれど、伝えておかなければいけないことがあるわ。政府上層部に不穏な動きがある」

 「……具体的には?」

 「ルナリアンの、不法取引よ」

 「なるほど。それであなたは偽善にかられてわたしのところへ戻って来たってわけね」

 「私にも不正を排斥したいという情熱はあるわ。あなたなら協力してくれると思ったから、こうして私たちの任務内容を話しているの」

 「……たしかにそんな犯罪が月で行われているのは許されないわ」

 「なら……」

 私を制してソニアが話す。

 「ただし、これっきりよ。地球人とはなるべく関わりたくないの」

 「わかったわ……取引現場、アタリが付いているんでしょう?」

 「……ええ」


 地下区画の入り口。どう見ても不穏な空気がするが、ソニアは慣れたもので、迷路のように入り組んだ道をマップもなしに進んで行く。ソニアの纏う空気は先ほどにもましてかなり刺々しい。怒りというよりは、反抗心にも似た感情に見える。やはり地球政府のことが気に入らないのだろう。

 「ソニア、あなたはもしかして……」

 「静かに。誰かいるわ」

 私たちは物陰に隠れる。開けた場所が見えて、そこにいたのはマイクだ。先走って現場証拠を押さえようとしているのだろうか。そこに、政府上層部の人間が入ってくる。何かを手渡している。渡しているのは、現金……?

 「あなたの同僚? ずいぶん上層部と仲が良さそうね。あの顔は月支部のシュバルツでしょう?」

 「まさか……そんな……」

 「認めたくはないだろうけど、これは現実よ。ルナリアンの遺伝子にはまだ解明されていない未知の分野があるのは知っているわよね? 特に脳は高値で売れると聞いているわ。あなたの仲間が仲介していてもなんら不思議はない」

 かと言ってマイクをいきなり犯罪者と定義するには根拠が足りない。それでも目の前で起こったことは事実だ。頭が混乱してくる。

 そのとき、私の端末が鳴った。マイクからの通信だ。

 『登録外ルナリアンを見つけたぞ。ソニアというルナリアンだ。きみの担当区域にいる。探し出してくれ』

 「……なにか、この件と関わっているの?」

 『彼女は純正ルナリアン、つまりルナリアンとルナリアンの子どもだ。研究対象として非常に優秀ということだ』

 ソニアが、純正ルナリアン? 話には聞いたことがあるが、まさか実在するとは。私は彼女を被検体として差し出さなければならないのか? いや、彼女たちには権利がなくてはならない。生きる権利が。研究対象になってしまえば、その後の自由は保障されない。施設の中で一生を過ごすことになるかもしれない。培養液の中で、試験管に囲まれて。この区画を平穏に保っている彼女に対してそんなことが許されていいのか? だが私は研究員だ。任務には忠実でなくてはいけない。だけど。

 「ソニア、逃げるわよ」

 「どういうこと?」

 「あなたが純正ルナリアンだということがバレてる。このままでは危険だわ」

 「あなたに心配される義理はないわ」

 私はソニアの頬に平手打ちをかます。

 「生きる権利は誰にでもある。あなたが良くても、あなたに救われていたルナリアンはどうなるのよ? やっていけるの? あなたにはもう自分の義務があるのよ。今は私と逃げなさい」

 「……ここからは出られないわ。外は真空なのよ?」

 「研究員舐めるんじゃないわよ。どこになにがあるかくらいは知ってるわ」


 商業区画にも緊急用のシャトルが常備されている。そこにたどり着けさえすればなんとか月からは出ることができる。商業区画地下、軽重力地域を抜ける必要があるが、ソニアならば問題ないだろう。

 マッピングは端末でなんとかなる。問題はソニアの体力が保つかどうかだ。

 「ソニア、大丈夫?」

 「平気よ、まだね」

 「シャトルの乗り場は……あと二百メートル。頑張って」

 そこに立ちはだかる人影があった。マイクだ。

 「マイク……そこをどいて」

 「エイミー、これは背任行為だ。厳罰は免れないぞ」

 「なんの罪もない人間を取引の対象にするくらいなら背任行為で厳罰を食らったほうがマシだわ」

 「我がラボの現状はわかっているだろう? そいつを渡せ」

 「冗談じゃないわ。倫理を守れない研究者になんてなりたくないの」

 「ならば仕方ないな。実力行使とさせてもらう。きみの研究者としての全権限を凍結する」

 「お好きにどうぞ。転職先を探すわ」

 「エイミー!こっち!」

 「ソニア!」

 ソニアに手を引かれて軽重力地帯に侵入する。シャトルはすぐそこだ。警備員にパスカードを提示して、無理矢理通してもらう。

 「まだ火は入ってませんよ!」警備員が言う。

 「マニュアルでやるわ。ありがとう」

 「待て!エイミー!」

 「業績を焦るなんてらしくないわ、マイク。ボスにもよろしく伝えておいて。さよなら、マイク」

 「エイミー!」

 シャトルの噴射口に火が入る。小型シャトルなので三人乗りだ。もちろんマイクを連れていくつもりはない。

 「ソニア、シートベルトを!急ぐわよ!」

 「着けたわ。準備完了」

 「行くわよ」

 私たちふたりを乗せたシャトルが月面から発射した。


 「どうして助けてくれたの? あなたの職場、大変なんでしょう?」

 「言った通りよ。倫理観のない職場は嫌いなの」

 「そう……」

 「まずは地球にある私の自宅に向かいましょう。しばらくあなたを匿わなくちゃ」

 「どうしてそこまで……」

 「ルナリアンも地球生まれも同じ人間だわ。なら、同じ待遇で扱われなければフェアじゃない」

 「エイミー……」

 「ソニア、私は地球側の関与しないルナリアンの自治権については賛成なんだけど、それには時間がかかるわ。でも、あなたやあなたの仲間たちがいつか変えていけば良い。そうでしょう?」

 「そうね……助けてくれてありがとう、エイミー」

 「ん? なに?」

 「なんでもないわ。ところであなた、料理はできるの?私は食べ物にはうるさいわよ」

 「う、いや、料理は苦手……」

 「仕方ないわね、私がやるわ。研究者ってこれだから……」

 軽口を言いながら、地球へ進路を取る。月を背にして、ふたりだけのランデブー。仕事はまぁ、どうにかなるだろう。

 「まずはあなたのルナリアン登録を済ませなくちゃね」

 「そうね、よろしくエイミー」

 さて、私たちはこれからどこへ向かうのやら。まぁ、こういうのも、悪くないな。家に着いたら、ソニアにミートローフを作ってもらおう。我が家では記念日や祝いの席ではミートローフと決まっている。

 地球までの半日間の長旅。今回は退屈しないで済みそうだ。

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