第13話
カフェを出てみると、すぐに家は見つかった。グレーの屋根にベージュの壁、そして手入れがあまりされていないのか、黒い門扉の内側は様々な種類の植物がだらりと首をもたげてあちらこちらに散らばっている。
ここがサキの家……。
西田、と厳粛に記された表札は僕の来訪を歓迎していないように見えた。僕はその横にあるインターホンを中心に、家の前を行ったり来たりと繰り返し、そしてしばらく立ち止まった後、またうろうろと歩き始めた。なかなか最後の一歩を踏み出す勇気がない。
サキは何をしているのだろう?
そっとインターホンの前で立ち止まり、考えた。
西田咲希。それがサキの名前だった。もちろん知っていたはずなのに、いつの間にか意識しなくなっていた彼女のフルネームは、僕に新鮮な気持ちを抱かせた。
僕は大きく息を吸い込んでから、空を見た。相変わらず重い雲が分厚く広がり、天井の低い部屋を思わせたが、南の方には小さな雲の切れ間から一筋の光が降りている。その光は懸命に硬い雲の塊を切り開こうとしているように見えた。
そして…………。
“大丈夫だよ”
僕は確かに聞いた。それは間違いなく、サキの声だった。聞き慣れた、あの優しい音。
周りには誰もいない。僕にしか聞こえなかったのだろう。きっと、僕にだけ……。
『……ありがとう』
そっと前を向き、僕はインターホンを押した。
○
『はい』
低い男の声が、スピーカーから聞こえた。サキのお父さんだろうか。
『はじめまして、橋本と申します』
『……橋本さん?』
戸惑った声。どうやら僕の存在は知らないようだ。
『サキさんとお付き合いしている者なんですが』
『………………』
『サキさん、今こちらにいらっしゃいますか?』
『………………』
沼の底を思わせるような、重い沈黙があった。彼は今どのような表情で、何を考えているのか、インターホン越しでは一向に分からない。
『あの……』と僕が言いかけたところでインターホンが切れた。綱渡りのロープから落ちてしまったような呆気なさだった。
『サキ……』
もう一度インターホンを押そうか、どうしようかと逡巡していると、奥にある玄関のドアが小さく音を立てて開いた。
『……橋本さん』
メガネをかけた物静かな印象の男がゆっくりと門扉へ近づいてきた。彼は短くて白髪混じりの頭を触りながら、疑わしいといった様子で僕に質問した。
『サキと付き合っている、と言いました?』
『はい。東京に二人で暮らしています』
そして僕は、なるべく失礼のないように言葉を続けた。
『大事なことなのに、突然こんな形でお伝えすることになってすみません』
『そうですか……』
彼は難しい表情をしている。
『私は、サキの父です。サキは今どこにいますか?』
どこにいますか……?
まず、ここにサキはいないのだ、と思った。頭の中で一つ希望が消えた音がした。そしてその後に、目の前のお父さんに対して、サキの事を説明しなければならないという義務感が残った。
『サキさん、一昨日の日曜に手紙を置いていなくなってしまって。残してくれた手がかりをもとにここまで来たんです』
『………………』
再びの沈黙。今度は顔が見えているのに、彼の心情はまったく読み取れなかった。
『すみません』
僕は隙間を埋めるように、頭に浮かんだ言葉を呟いた。寂しい言葉しか出てこない。
それでもお父さんは僕に手を差し伸べてくれた。
『うちに入ってください。少しお話をしましょう』
○
家の中は整然としていて無駄がなく、居心地の良さそうなリビングには大きな掛け時計の微かな音しか鳴っていなかった。
『そこに掛けてください』
サキのお父さんは一人用のグレーのソファに座り、僕を向かいの二人用ソファへ案内した。
『そこにね、よくサキが座っていたんですよ』
『ここに、サキさんが……』
温もりのないソファに触れても、サキがいたという余韻は感じられない。それでもサキの昔の話を聞くのは心地よかった。少しでもサキを感じていたかった。
『サキとはいつからお付き合いされてるのですか?』
この言葉を皮切りに、サキについての思い出を僕は語りはじめた。一体僕はどれくらいの時間、お父さんと話し合っていたのだろう?
数え切れない思い出と、溢れんばかりの感情を吐き出していた。京都で出会った事。色んな観光地へ日帰りで出かけた事。たくさんの悪戯をされた事は彼女のために話を出来るだけ柔らかく和ませて喋った。そして、東京での約二年間の同棲生活、そこで見た様々な光景。
僕の話はあっちへいったりこっちへいったりと思いつくままに、そして心の檻から溜まっていたものが解き放たれるように続いた。
じっと僕の目を見ているお父さんは、頷き、そして時折質問して、僕の気持ちが途切れることのないように促してくれた。
僕はそれが嬉しかった。
ただ、そこにサキはいなかった。
○
『サキさん、一体どこにいるんでしょうか?』
僕は溜息混じりに呟いた。
サキのお父さんはその言葉を聞いた後、少し黙ったまま隣の部屋を見つめていた。リビングと引き戸で隔てられている部屋に、意識が集中しているように見えた。そしてゆっくりこちらへと視線を戻して立ち上がった。
『私はあなたを信じます。あなたは、サキと確かに出会ってるんですね』
『はい……』
言葉の意味がよく分からなかったが、彼の目に決意のような力強いものを感じた。僕は何かが終わる予感がした。
『この部屋をぜひ見てください。そして決して驚かないで、怖がらないでいただきたい』
僕は頷いた。
『ありがとう』
そう言って、彼はドアを開けた。
○
まず目に入ったのは壁の至る所に掛けられた油絵だった。どれも全てが人物画で、ある女の子が幼い頃から大人になるまで、一枚一枚無秩序に並べられている。幼い頃は弾けるような笑みを浮かべていたり、恥ずかしそうに微笑んでいたり。そして少し成長すると、綺麗になっていく見た目に反比例するかのように不機嫌そうな表情を浮かべたものもあった。
一つずつ数えてみると……それらは全部で二十枚あった。
『私は中学校で美術の教員をやっていましてね、昔から絵を描くのが好きでした。それで娘ができたら、もう本当に目に入れても痛くないっていうくらいに可愛くて。それで私から見た彼女を絵で記録しようと思ったんです。これらは全て、サキの誕生日に描いたものなんですよ』
その絵の中にいるサキは、今にも動き出しそうなほどの躍動感を湛えている。彼の画家としての技術はもちろん、サキの人間性がモデルとしての輝きになっているのだと思った。
『でも……』
彼は俯きながら呟く。
『二十枚目で、終わってしまったんですよ……』
そして、僕は部屋の奥に目がいった。
仏壇。そして、サキともう一人女性の写真が置いてあった。
○
『サキはあの日、妻と車で買い物に出かけていきました。取りたての免許で、嬉しそうに妻を乗せて……』
彼の語りかたは僕の気持ちを少し落ち着かせてくれた。僕がこの事実を一人で知ったなら、おそらく正気を保てていなかっただろう。
『車は何かを避けようとしたらしいんです。それで、トンネル内の壁にぶつかってしまって。妻と、サキは……』
そこから僕達は何も喋らずに仏壇の前に座り、じっと時が経つのを待った。
時間は誰に対しても平等に流れる。それはある意味で無情に思えた。
サキは二十歳で死んでいた。
それは僕と北野天満宮で出会う二ヶ月前のことである。
○
僕は帰り際、サキのキャップを彼に手渡した。
『これ……どうしてあなたが?』
『僕も分かりません。でも北野天満宮で拾ったんです』
彼は何かを噛み締めるようにキャップを握りしめて、目を閉じた。このキャップはあるべきところに帰ったのだ。
『こんなこと、言うべきじゃないのかもしれませんが……』
迷っている彼に、僕は『どうぞ話してください』と言った。今は何もかも聞いてしまいたい気分だった。
『あなたを最初見た時、サキの高校時代の恋人かと思ったんです』
高校の頃のサキの恋愛は初耳だった。
『たしか短い間しか付き合っていなかったと思いますけど、サキが妻に話していた彼の特徴にあなたが似ていたものですから……。気を悪くしてしまったならすみません』
『いいえ、大丈夫です。きっとサキは……』
その後の言葉は、はっきりと浮かぶ前に消えた。でも、後ろ向きな言葉ではなかったはずだ。
僕は分かる。
サキを愛していた。そして、愛されていたのだと。
○
駅に向かい、大阪へ向かう電車に乗って、ぼんやりと外の景色を眺めた。驚くほど心は静寂に包まれ、そして起こったこと分かったこと全てに納得していた。
自分でも不思議な体験をしていたと思う。それでも、僕は心の中に刻まれたサキの記憶を疑わないし、その思い出と共にこれからも一歩ずつ歩んでいく気がしたのだ。
ふと気がついたようにスマートフォンを取り出し、サキのメッセージ画面を開こうと思った。だが、彼女とのメッセージ履歴や彼女にまつわるもの全てが消えていた。
彼女なりの精算なのだろうか?
僕は流れる景色の中に彼女との思い出を浮かべて、『なぜ、僕の前に現れたのだろう?』と考えた。まだ、僕に思い出せていない何かがあるのかもしれない。
それでも、僕は日曜の午後から始まった短い旅の終わりを迎えたのである。
○
東京に戻って、サキのいない新たな生活が始まった。
たくさんの物事が変わる。
一人分の食事。一人分の洗濯。そして一人きりの部屋……。
それを見るたびに思う。僕はサキとここで確かに暮らしていたのだと。それが少し変わってしまっただけなのだと。
流動的である事は悲しい事だと思う。それでもきっと、いつか遠い未来で素晴らしい日々を振り返ることが出来る気がした。
僕は鏡を見て思った。
自分の顔も悪くないかもしれない、と。
物語は日曜の午後から始まる メンタル弱男 @mizumarukun
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