第12話
ぱっとしない曇り空の下、阪急の梅田駅は多くの人が行き交っていた。
新開地行きの急行に乗り、じっと前を見つめると、僕は時間の流れから置いてけぼりにされたような感覚を抱いた。そして、サキのいなくなった日曜の午後から随分と長い旅をしてきたようにも思えた。
全て知っている場所なのに分からない事が増えていくのは不安になる。それでも、サキが残していった一枚の手紙から、彼女のキャップにたどり着いた。これは僕が持つ唯一の手がかりだ。
ドアが閉まる。そしてゆっくりと電車が動き出した。
サキと、もうすぐ会える。きっと僕のすぐ近くにいる。
心の中で何度も何度も繰り返しながら、僕は僕自身にサキの存在を言い聞かせた。
○
岡本駅に着いて、電車を降りた。彼女の家がどこにあるのかは詳しく知らないが、岡本駅が最寄り駅だという事は定期券を見て知っていた。
僕はすかさずスマートフォンで帽子屋を調べてみたが数はそんなに多くなかった。なるべく時間をかけてでも、手当たり次第回ってみようと思った。
駅から一番近い南の通りにある店に入ってみると、いかにもそれらしいハンドメイドの帽子が並んでいる。僕は自信を持ってサキのキャップを握りしめ、カウンターでパソコンのモニターを見つめている若い男性店員に声をかけた。
『あの、すみません。この帽子はこちらで販売されていたものでしょうか?』
そっとサキのキャップを前に差し出す。
『……ちょっと見せてもらってもいいですか?』と、それを受け取る店員は笑顔で対応してくれた。
『うーん…………』じっくりと念入りにキャップを眺めてから彼は首を横に振った。
『これ、うちじゃないですね。でも、細かい所までとても丁寧に作り込まれていて、いいキャップですよ。シンプルでありながら丈夫にできてる。使い始めてからどれくらいですか?』
サキのものではなかったという落胆と、彼女のものが誉められているという嬉しさがないまぜになり、少し妙な気分のまま僕は答えた。
『おそらく十年近く経っているのかな、と思います』
店員が苦い表情で頷きながら、僕を見た。
『そうですか、状態はすごくいいですよ。ただ……』
そう言って彼は斜め上を見ながら考え込んだ。
『十年前だと、うちはまだ店をやってないんですよ。ここら辺で昔からやっている所あったかな。お兄さんは岡本育ちですか?』
『いえ、僕は違います。僕の……知り合いが』
『そうですか。その知り合いの帽子がどこの店で買われたものなのかを一生懸命探している……と。何かひと昔前の物語みたいですね、ロマンチックな感じというか、なんというか』
僕はサキのことを“知り合い”と表現したことに自ら驚き、そして恥ずかしくなり、何か取り返しのつかないことをした子供のようにそわそわとした焦りを感じていた。そしてこの店員の言葉も、胸に刺さってくるような鋭さがあり、痛みがあった。もちろん何も意識していない、なんてことのない発言なのだろうが、僕はなぜだか一方的に苦しみを感じてしまった。
『すみません、余計なことを言ってしまってますね』
何かを感じ取ったのか、僕の目を見てから店員はパソコンの方に視線を戻して、キーボードをカタカタと打ち始めた。
『ちょっと待っててください。十年以上前からやっている帽子屋を探してみます』
そう言って彼は、僕の方をチラリと見やり小さく笑った。
『僕は岡本で青春時代を過ごしてきたんで、ここ辺りの知識とかに関しては自信があるんですよ。なんとかネットと力を合わせて見つけますよ。ぜひ参考にしてもらえればと思います』
そこまで親切にしてもらえるとは思わなかったので、若干気まずいなと感じながら彼の好意に甘えることにした。
『でもそのキャップ……』
彼は僕が持つキャップのロゴをじっと見つめている。そしてそのまま指を口元に持っていき、何やらぶつぶつと小声で呟き始め、そして改めて僕に話しかけた。
『やっぱりどこかで見たことある気がするんですよね……』
○
十五分後、彼は僕に頭を下げながら『すみません、遅くなって』と近づいてきた。
『ハンドメイドを扱っていて、十年以上前から店をやっているところは残念ながらなさそうです』
店がないというのは、一体どういうことだろうか。
『あぁ、“今はない”というのが正しいですかね。僕が子供の頃、いくつか雑貨屋さんがあったんですが、それらも閉店してしまって』
『何か、手がかりはないですかね』
僕はすっかりこの店員に頼り切ってしまっているが、あともう少しでサキに追いつく事ができそうなのだ。我儘な要求かもしれないが、僕は何としてでもこの神戸でサキと再会したい。
『手がかり、でいうと……』
店員はスマートフォンで地図を見せてくれた。
『ここ、現在はカフェになってるんですが、昔は帽子や小物雑貨を扱うお店だったんですよ。僕はここにあったかつてのお店が、お兄さんの探しているキャップの雰囲気に一番近いんじゃないかと思います』
店員は地図を使って詳しい行き方を説明してくれた。終始笑顔で気持ちのいい対応だった。
『カフェのオーナーは雑貨屋だったころから変わらない、愛想のいいおじさんなんで、喋りやすいと思います。それを見せたら何か知ってるかもしれませんよ』
そう言ってキャップを指差した。
『本当に助かりました。ありがとうございます』
『いえいえ、しかしそれにしてもそのキャップ、どこかで見た記憶があるんですよね。確か…………』
そう言ってから彼は首をぐるりと捻り、うーんと唸りながら考え込んでいた。
そして、ぴたっと僕の目を見て止まった。彼の瞳は、まるで見てはいけないものを見てしまった時のように、鈍い色で輝いていた。
『あれは、確か五年くらい前のことですかね。それと同じものが、車道に落ちていたんですよ。何かの事故があった日でしたっけ。救急車とパトカーがたくさん停まっていて……』
彼の話は途中から、全く耳に入ってこなかった。
早くサキと会いたい。
なんだか妙な胸騒ぎがする……。
○
僕は帽子屋を出て、彼の案内してくれたカフェに向かった。心の底で渦巻く不安が時折僕の呼吸を乱す。少ししか歩いていないのに、息切れしてしまった。
五年前……?
僕は首をふり、頭の中を空っぽにしようと努めた。今は早く手がかりを繋いでいかなければならない。
『ふぅ』
一つ深呼吸をした。一歩ずつ、確実に歩いていく。僕はしっかりとサキのもとへ近づいている……。
途中、一匹の猫とすれ違った。全身が黒色で、目が満月のように黄色くおぼろげだった。僕が持つキャップを見ているのかいないのかよく分からないが、僕が食べ物を持っていないと判断すると、まるで僕がいないかのように去っていった。ふと、サキもこの街でこの猫を見たのだろうか?と思った。
○
短い距離ではあったものの、なんとかゆっくり長い時間をかけて、手がかりであるカフェまで辿り着いた。
木目調の椅子やテーブルが並び、暗い雰囲気の中でぼうっと灯る橙色の電球が物悲しい空気を作っている。入口から全ての座席が見渡せるほど店内は狭く、ちょうどモーニングタイムが終わる頃だったのか、客の姿はまばらだった。
僕はカウンターに座り、コーヒーを頼んだ。店内を優しく流れるジャズの音。何気なく聴いていると、この空間にずっと身を潜めていたいような気がしてくる。ただ、目の前にいる男に用があって僕はここに来たのだ、と思い出すと、ぐいっと何者かに心を引っ張られるような感覚があった。
カウンターを挟んでキッチンで手際よくコーヒーを準備する男は五十代くらいだろうか。この店内の雰囲気と上手く馴染んでいるので、彼が横に移動しても気が付かず、そして彼がコーヒーを僕の目の前に置いた時でさえ、彼が話しかけてくるまではちっとも気が付かなかった。
『そのキャップ……』
驚いて顔を上げると、彼の目線の先にあったのは、テーブル上に置かれたサキのキャップだった。
『ちょっと見させてもらえますか?』
僕は一瞬、呆気に取られてしまったが、すぐに気を取り直してキャップを手渡した。
彼は受け取ったキャップをゆっくりと時計回りにまわしながら、様々な角度で細部を確認していく。
『………………』
黙ったままの彼だったが、一度目をしっかりと閉じた後、突然孫の姿でも見たかのように口元が緩み、何度か小さく頷いてから僕に向き直った。
『これ、かつて私が作ったものじゃないですかね?』
僕はそれを聞いた時、目元が熱くなり視界が滲むような気がした。そして、そのぼやけた空間の中にサキの姿はあるだろうかと探した。もちろんサキはどこにもいなかったが、何年経っても消えることのない、風景が変わっても残り続ける彼女の面影を見た。
『そのキャップのこと覚えていらっしゃいますか?』
『はい、覚えています。これは間違いないと思いますよ』
彼はにっこりと微笑みながら手を伸ばして僕にキャップを返した。
『私、このカフェをやる前は、帽子や小物を長い間作っていたんですけど、その時に作ったものですね』
当時を思い返しているのか、遠い目をしている。入口の方でドアの開く音がして、彼は新しい客の対応をしにカウンターを離れたが、しばらくして戻ってきた。
『このキャップを買ったお客さん、どんな人だったか覚えていますか?』
『それはもちろん。なにせ、ご近所さんもご近所さんだったんですから。うちのすぐ目の前に住んでらっしゃる方で、娘さんの遠足だか修学旅行だかに持って行く新しい帽子を探してらしたんですよ』
頭の中でなにか音がした。
それは恐らく、湧き続ける不安に埋もれていた僕の声だった。
今まで溜め込んできた全てが、僕の中でもつれていた記憶の糸の全てが、柔らかくほどけ、そして綺麗に繋がっていく気がした。僕が抱えていたサキの記憶はきっと正しかったのだ。このカフェでの会話がそれを証明してくれている。
『でも、なぜあなたがそのキャップをお持ちで?それは一点物のはずなのですが……』
『僕は、その娘さんとお付き合いをしている者なんです』
自信を胸に、そう答えた。
最後まで、全てが上手く繋がっていると信じていた。
しかしそれを境に、男は言葉少なになり、意味深なセリフを残して仕事へと戻っていった。
『“付き合っている”という事で間違いないですか?』
『はい……』
『そうですか』
彼は少しの間黙ってから続けた。
『ぜひ西田さんの家へ訪ねてください。そこを出てすぐ目の前の家です。それから、あなたはきっと何かに導かれてここまで来たんですから……』
そこで彼との会話は終わった。
線香花火が途中で落ちてしまったような虚しさが僕の周りで漂っていた。
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