第11話




 電車の席に座ると、吐き気と眩暈がした。疲れが溜まっているのかもしれない。それとも僕の中にある複雑な心情が、正常な感覚を鈍らせるほど揺れているのだろうか。


 向かいに座る女性が見向くほどの大きな溜息をついてから、頭の中を少しでも軽くしようと何度か深呼吸をした。だが、余計に胸を締め付けるだけで、まったく何も解決しなかった。


 車内を見渡すと人の姿はまばらだった。一体今は何時なのだろう?スマートフォンの充電は切れていて、確認する事ができなかった。もしかすると、かなり遅い時間なのかもしれない。何も分からないまま桜ノ宮で長い間、過ごしていたような気がする。


 そして、僕は揺れる頭の中で川沿いの景色を思い出していた。夏の前の潤いを抱えた和やかな匂いと、そこに漂う不穏な影。僕が見ていたあの男はどこへ行ったのか?そしてサキだと確信したあの人影はなぜ消えてしまったのか?考えても仕方のない事が、次々と頭をよぎり、去っていく。


 それと同じようにして、目の前を通り過ぎるビルの明かり。その一つ一つに妙な安心感を覚えながら、ぼんやりとしていると、僕はいつの間にか眠っていた。


          ○

 

『次は桜ノ宮、桜ノ宮……』


 気がつくと、電車は京橋駅を出て桜ノ宮駅に向かっていた。環状線を一周してまた戻っていたらしい。大和路快速ではなくて助かった、と目を擦って立ち上がり、少しマシになった眩暈を気にしながら、窓に映る自分の顔を見た。


『あれ…………?』


 どうしたんだろう?

 僕はこんな顔をしていたっけ?


 何か違和感があるような気がする。ただ、どこに違和感があるかと聞かれても、それははっきりと分からない。自分の顔がうまく思い出せない。見れば見るほど、顔の特徴が消えていくように思えた。


『…………』


 湧き上がる焦燥感は眩暈の苦しさに埋もれて、僕は次第に全てを疲れのせいだと決め込んだ。


 もう今日はこれまでにしておこう。

 神戸に行くのは翌日にして、僕は梅田のホテルに泊まることにした。もう場所はどこでも良かった。いち早くベッドの上で横になりたかった。


 大阪駅の大きな屋根の下へ電車が吸い込まれていく。停車した数秒後にドアが開き、僕は息を深く吸い込んでから電車を降りた。


 時計を見上げると、時刻は午後十時半を過ぎていた。


          ○


“[透明な世界の中で]


 色、というものは不思議だと思います。物体が反射した光を人間が色として認識しているのであれば、物体そのものはどのような色をしているのだろう?と僕は考えました。理科の立花先生に質問したところ、『それは、捉え所のない、なんとも言えない難しい質問だな』と言いながら、少しの間考えてくださいました。そして僕に分かりやすいように工夫して、こう伝えてくれました。


『無色……といったところかな。そもそも色という概念は人間や動物の目が光を感知して初めて成り立つものなんだから、何もないということになるのかもしれないね』


 無色、と聞いて何か腑に落ちない気持ち悪さを感じましたが、先生の言っている事はよく分かりました。そして、先生は続けてこう言いました。


『まあ、光の事を色なのだと人間がいうのなら、物体の本来の色は闇なのかもしれないな。別の見方をするとさ』


 闇は僕にとって黒色です。それはやはり色と呼ぶべきものなのではないですか?という心の中の質問が理論的に間違っている事はなんとなく分かっていました。それでも何か、哲学的な事でもいいからこの話にもっともらしい解答を見つけて、決着をつけてしまいたいと思いました。


『じゃあ先生、本質的に物体はどのような見た目をしているというのが正解なんでしょうか?』


 先生は窓の外を見てから一呼吸おいて言いました。


『分からんなぁ、正解なんてないんじゃないか?』

 

 なぜか、僕はそれを聞いて人間の生と死を思いました。”


          ○


 寝る前にふと、中学生か高校生の頃に書いた課題の作文を思い出した。何がテーマだったのかは覚えていないが、内容はしっかりと記憶していた。最後の締めくくり方に納得がいかなかったが、結局先生からも『直した方がいいんじゃないか』と言われて、書き直した。不思議と書き直した方の作文は全く覚えていない。


『疲れた……』


 僕は夜中になっても妖艶な輝きを垂れ流す梅田の夜景を見て、僕のいる部屋だけが色を無くしているような気がした。しかしそれは僕が物事の本質に最も近づいている人間であり、世の中の姿こそが幻なのだと思わせた。


 僕は歯車が一つずつ噛み合わなくなっていくような、もどかしい気分で布団にもぐり込んだ。


          ○


 朝起きてカーテンを開くと、どんよりと暗い雲が空を覆っていた。シャワーを浴びて部屋を出ると、二人のサラリーマンらしき男がエレベーターを待っている。午前七時半、僕は翌日の仕事を思いながら彼らの後ろに立ち、ゆっくりと上がってくるエレベーターの階数表示を眺めていた。


『三、四、五、六……』八階に着いた時、何かへ向かう合図のようにベルが鳴り、扉が開いた。二人のサラリーマンのうち一人は乗り込んだが、もう一人は忘れ物でもしたのか、突然踵を返して戻っていった。その時、軽く僕の肩にぶつかったが彼はそのまま急いで部屋へ向かった。余程焦っていたのだろう。


 二階でエレベーターを降りて、小さなレストランでパンとコーヒーを注文し、無造作に置かれた新聞を手にした。芸能人の不倫や不労所得についてのコラム、高齢化社会に向けた政策の議論が並んだ記事を見るともなく見て、食事を終えた。


 部屋に戻る時は何を思い立ったのか、八階まで階段で登った。もちろん誰ともすれ違う事はなかった。


 部屋に入ると、つけっぱなしにしていたテレビから、あらゆるニュースが流れている。どれもこれも新聞で見たような内容だった。もしここにサキがいたら、それらについて何を語るだろう?


 そんな事を考えながら、ゆっくりと歯を磨いて、少ない荷物を簡単にまとめた。そして部屋に向けて軽く頭を下げ、挨拶をしてから僕はホテルを出た。


 午前九時前、僕は行き先を神戸に決めて、動き出した。


          ○


 そして最後に、僕は神戸の出来事をこれから記していく。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る