第10話
『本当にみんな、人形みたい』
あの日、天神祭へ向かうまでサキと僕は梅田のカフェにいた。サキはコーヒーをすする時以外は窓の外を向いて、大きく見開いた目を輝かせていた。遠く下の方に見える人の姿がミニチュアのようで、たくさんの人生が行き交う様子は、まるで自分達がこの世にいなくなってしまったような不思議な感覚があった。
『あの男の人、なんか怪しい』
サキは探偵のように手を顎に持っていき、おどけながら言った。
『そうかな?別に普通じゃない?』
『いやいや、さっきからスマホに気を取られてフラフラしてるし。それに……』と、サキは言ったものの、結局彼女から疑惑の目を向けられた男性は何も怪しくなかった。ただ懸命に行き先を探しているだけの通行人だった。
それでも僕は無邪気にはしゃぐサキを見て笑った。たまたま窓際の席に座れて良かったと思った。
『はあ、楽しいね』
『うん、楽しい』
僕はオウム返しのように反応した。そして少しの沈黙があり、彼女は片肘をついて外の景色をぼうっと眺めた。
『でも、なんだか孤独になった気分』
サキがぽつりと呟いたその一言がコーヒーの香りに紛れて、行き所のない苦味を僕達の間に残した。
『僕がここにいるよ、心配しなくても』
すらすらとくさいセリフを言うなぁ、と我ながら思った。それでも、彼女に対する心の内は本物だった。
彼女の顔を見る。透明な泉を思わせる潤んだ瞳が、数ミリほど動いた。僕は呼吸を忘れて、その一瞬の煌めきに吸い込まれた。何もかもが燦然と輝き、その光が作る影さえも鮮やかな色彩へと変化する。彼女の中には一つの独立した世界があるように思えた。
『そうだね、私は一人じゃない』
そう、サキは一人じゃない。
そして、僕は全てを信じる事ができる。
彼女の存在を肯定できる、その自信があるのだ。
○
僕は梅田へと向かう阪急電車の中で、あのカフェでの出来事を思い出していた。
あの日の会話が無かったなんて、あり得ない。そして彼女が内面に隠し持つ、神秘的な輝きを僕は知っている。
遠くに聳える生駒の山に目をやると、いつの間にか日が暮れて、夕焼け空がぼんやりと滲んでいることに気がついた。そこから街に溢れていくように広がるオレンジの陽気は、どこか呑気でいて和やかな街の様子を演出している。それでもその街の中に入っていけば、いつも忙しなく動き続けている日常に触れて疲弊するのかもしれない。いつだって遠くから見れば、何もかもが穏やかに感じるものだ。たとえそれが命であっても……。
サキは今どこにいるのか?
手元にあるサキのキャップを握りしめて、僕は暗くなりつつある外の景色を見つめ続けていた。手がかりはやはりこれしかない。
僕は神戸へ行こうと決めた。
ただその前にやる事がある……。
○
十三駅で乗り換えをせず、そのまま終点の梅田まで向かった。時刻は午後六時過ぎ。八坂と河原町でかなりの時間を過ごしていたらしい。
大阪へ寄ったのは、もちろん意味があった。あの頃のサキの面影を少しでも探したいという気持ちが、僕にそうさせたのだ。
思い出というのは、訪れた様々な土地に、人々がそれぞれの面影を残していく事だと僕は考えている。その面影は時が経っても消える事なく、不意に訪れた知人の胸に入り込む。そして、その人の心に共振を起こして感傷的な気持ちにさせる。何もかもが美しく、悲哀に満ちた現象だと思う。
京都に着いた時、サキの面影に僕は確かに触れた。もちろんこの大阪にも、サキの面影はあるはずだ。僕はそれを拾いに行きたい。
どこから向かうべきか?
僕はまず、梅田の大丸へ向かった。
エスカレーターを上がって、コーヒーの香り漂うカフェへ着くと、奥の窓際の席へ案内された。以前サキと共に座った座席とは異なる場所だったが、僕はすでに胸の中で微かに揺れる郷愁に駆られて、小さな涙が頬を伝っていた。
『コーヒーを、お願いします』
ホールスタッフの女性が、涙を流す僕をじっと凝視していたが、やがてキッチンの方へと去っていった。
そして僕は、目の前の席に座るサキを見たような気がした。彼女は両肘をついて、顔は両手の上に乗せ、何かしらのリズムに合わせて顔を僅かに揺らしていた。
『サキ……』
今にも笑い出しそうな、そんな意地悪な気持ちを含んだサキの表情は、僕を安心させた。
僕は今、幻を見ている。それは間違いない。
そんな事を考えながら、僕はまた目が熱くなるのを感じた。
『お待たせいたしました……』
先程のスタッフが再び訝しげな表情で僕を見る。僕は運ばれたコーヒーを自分の方に寄せてみたが、その香りはより一層僕の心を刺激した。
『…………』
スタッフの女性は黙って僕の横に立ったままで、なかなかキッチンへ戻らない。僕は伏し目がちに彼女の方を向いた。女性は、何か言いたげな雰囲気を漂わせている。僕は思い切って聞いてみた。
『あの、どうかしましたか?』
『あ、いえ。なんでも、ないです』
そそくさとキッチンへ戻っていく彼女を尻目に、僕はきょとんとしたまま、今朝に見た夢の事を思い出していた。
サキの顔がなかったのは、何を意味しているのか。
目の前にいる“顔のある”サキは、何も教えてくれない。
○
次に僕はJR環状線に乗り、桜ノ宮駅に向かった。もう既に午後八時をまわっていたが、なんとしても確かめたかった事がある。天神祭の花火。そしてそこに漂う三人。僕は黒田さんの言った事がどうしても信じられなかった。
『え……?俺と橋本の二人だったよ……?』
あの日サキは僕の横に、確かにいた。ゆらゆらと揺れる祭りの灯りが通りに人の影を落とし、そこには複雑な思いが吹き溜まりのように固まっている気がした。そんな事をサキに伝えると、『気にしすぎ。そんな暗いこと考えないで』と僕を嗜めた。
川沿いを歩くと思い出すあの日の細部に、不思議なほど心の落ち着きを覚えて、僕は四阿のベンチに腰掛けた。
やはりここにサキと来ている。
その確信があった。
なぜ、僕はそんな当たり前のことに頭を悩ませ続けているのだろう?どうして、前向きな事が何も思い浮かばないのだろう?
そんな風に、サキの手がかりであるキャップを握りしめながら自分に問いかけていると突然背後から微かな物音がした。足を擦ってゆっくりと歩くような、不気味な音だった。
振り返ると、一人の男が道路沿いの小さな柵に座ってこちらを見ていた。暗くてよく見えないが僕の方を向いてじっとしているのは間違いない。どのような目的があってそこにいるのか、一向に分からない。ただ、気味が悪いというよりも、その男の姿がどこか自分のように見えた事が、腑に落ちなかった。
まるでそれは……心の鏡のように、僕の不安を映しているようだった。
男は暗い色の服を着て、まわりを漂う夜の空気に同化している。彼と僕はしばらく向き合ったままお互いに動かなかったが、先に重い腰を上げて歩き出したのは彼の方だった。
“こっち……”
声ではなく、音でもない。頭に直接湧き立つような言葉を感じた。
『待って』
僕はベンチから立ち上がり、道路の方へと駆け上がった。黒い男は、点々とまばらな電灯の下で暗い影を作り、肩に何か重い荷物でも背負っているかのような疲れた歩き方で進んでいく。
『僕に、話しかけましたよね?』
三メートルほど距離を置いて話しかけたが何も返事はない。しかし、僕は彼に近づこうともせず、ただゆったりとした彼の歩調に合わせて進み、川沿いを南へと下りていった。
夜の匂い。湿気とともに重く疲れたように感じる。そしてその中に前を歩く男の汗のにおいが混じっていた。そんな彼の背中は視界の中でぼんやりと明滅するように大きく呼吸して動いている。僕の目はじっとその様子を眺めていた。そしてまた、僕はふと思った。
『僕は、何をしているんだろう』
○
一体どこまで歩き続けるのかと考えていたが、開けた野球場に着いたところで、彼は突然立ち止まった。そしてゆらりと首をまわして僕の方へ向き直り、じっと僕を見た。
その時彼の顔を初めて見たが、それはあまりに特徴がなく、目に入った瞬間に記憶の綻びがから逃げ出してしまうような、そんな表情をしていた。
特徴のない、普通の男……。
『あの、僕を知っているんですか?なぜ話しかけたんですか?』
男は黙って、左手を伸ばした。その手の先、彼が指し示す場所にお互い目を向ける。かなり遠くの方、暗闇のおぼろげなグラデーションの中で何か輪郭のあるものが浮き出ていた。
『なんですか、あれは?』
それが人間だとは、最初よく分からなかった。ただ、その影が立ち上がり、川の方へ向かって歩き出した時、揺れる髪の毛が持つ微かな生命の予感に、僕の胸はとくんと一つ大きな脈を打った。
『あれは、誰?』
『…………』
『僕に見せたかったのは、あの人?』
『…………』
黙ったままの男は依然、同じ方向を指し示している。僕はどうすればいいのか判断できず、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
しかし彼の目に鈍い輝きと滲んでいる涙を見た時、僕は彼の、心の中の叫びを聞いた。
『はやく行け!』
先ほど感じた心の中の言葉よりも、それはしっかりとした声となって聞こえた。そして、それはどこかで聞いたことのある声だった。しかしどこで耳にしたのか、さっぱり分からない。ただ今はそれよりも、やるべき事がある。
僕は夢中になって視線の先にいる人物の方へ駆け寄った。潮が引いていく時のような緩やかな虚しさが胸をこみ上げてくる。
なぜだろうか?
“あそこにいるのは、きっとサキなのだ”
そう思えた。
『サキ……!サキ!』
呼吸と心臓と、そして一歩ずつ踏み込む足のリズムがバラバラで、それでも心をなんとか保ちながら、サキだと信じて走った。
それでも…………。
あと十メートル、届かなかった。
そこに誰かがいた事も忘れてしまうほど呆気なく、影は消えていた。人の温度も、匂いも、何もない。息切れの中に、悔しさと苦しさがあった。
間に合わなかった。
“どうして?”
また言葉が頭に浮かんだ。あの男の仕業だと思って、僕は振り返ってみたが、そこにも人の影はなかった。
僕は、何をしているんだろう?
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