第9話





『橋本君、大丈夫?』


 しばらくの間無言だった僕を心配して、西島さんが聞いた。


『大丈夫、だけど』


 自分の声が喉のあたりで引っかかる感覚があった。黒田さんの話が僕に覆いかぶさってくる。僕はあの時、本当に一人だったのか?


 苦しい。“早くサキに会いたい”という思いだけが僕にとっての希望であり、そして僕の中で実在する唯一のものだった。


 そして目を瞑り、もう一度確認する。

 あの日、サキは僕の目の前にいた。


『あのね、この話を聞いた時は話半分っていう気持ちだったんだけど、それでもこの件は橋本君に伝えたらいけないような気がして』


 尻すぼみになっていく彼女の声は風船がゆっくり萎んでいく様に似ていた。今まで言えずに少しずつ溜まっていた違和感。それに小さな針で穴を開けていく。まだ風船は残っているのだろうか?


『僕がカフェで一人きりだったって、みんなそう思ってたの?』


『いいえ、この話はその子と私しか知らないの。噂を広めるような事はしたくなかったから』


『そうなんだ』


 僕が聞きたい事はそんな事じゃないのに、核心へ迫っていくのが怖くてなかなか踏み出せないでいた。そんな思いに電話越しでも気がついたのか、西島さんはまたしても僕の手を引いて大きな階段を登らせようとする。大学生の時と同じように。


『正直、私は驚いた。橋本君はそんな冗談を言う人じゃないでしょ?』


 僕は電話なのに無言で頷く。


『それに、一人で笑って喋ってたなんて、私はどうも変だなと思ってて、やっぱりカフェでの事は信じられなかった。でも実際にそんなあなたを見た友達は、その頃から、何かに気がついていたのかもしれないけど』


 “その頃から”という表現が気になった。西島さんも今では、その友達と同じような考えに変わっているという事かもしれない。

 僕は彼女の話の続きを待った。


『私は……昨日あなたに会って、何か感じるところがあったの。それは今日もう一つ伝えようと思っていた事。私の昔の彼氏について』


 西島さんの彼氏。その人は置き手紙をして西島さんのもとからいなくなった。その行動はサキと似ている。


『実は私、橋本君とよく遊んでた時から彼氏いたの。あの頃は“いない”って嘘ついてた』


『なんとなく、そんな気がしてたよ』


 電話の向こうで、西島さんが恥ずかしそうに笑ったのが分かった。


『それでね、彼氏は私が遊んでる事に気がついてた。それでも……何も言ってこなかったの』


『本当に気づいてたのかな?』


『うん、それは確かだと思う。というよりもその頃の私はちょっとおかしくてね。遊んでる私にどうか気づいて欲しいって思ってた。気づかれるようなヒントをわざと見せびらかしていたの。なんかね……やっぱり構って欲しかったのかな?』


 その言葉は、当時の彼女が僕のことをなんとも思っていなかった証拠だと感じた。あの空虚なキスの理由を知れたように思えた。


『それでも彼は、あえて何も言わないのね。なんだかいつも物足りなかった。そして嵐が去ったように私はその後、彼と普通に過ごしたの。私が一方的に悪いのは分かってるんだけど、もう少し私自身に興味を持ってもらいたかった。けど、何も変わらないままだった』


 彼女の声は、おそらく震えている。僕はただ聞く事しかできない。


『それでね、ぱっと消えたの。驚く暇もないほど、当たり前のように彼は私の目の前からいなくなった。置き手紙だけを残して』


『その手紙、何が書いてあったの?』


『“僕は君を幸せにはできない。そして君も僕を幸せにはできない”って。たったそれだけ』


 手紙の内容は、日常に潜みながら突如としてうなだれる死の予感を思わせた。それでも、僕は不思議とサキのことを考えていた。


『私は時間が経ってから、事の重大さに気がついたの。彼は私の前からいなくなったんだって、改めて気がついた。私はとりあえず心当たりのある場所を探し回ったんだよ。よく一緒に行ったパン屋、買い物に行ったショッピングモール、夜まで時間を共にした公園。でも……結局どこにもいなかった。それでね、私思ったの。彼の事、何にも知らないなって』


『何も知らない?』


『そう。彼との思い出は長かったのに、私と一緒にいる時の彼しか知らないの、私は』


『それは、普通なんじゃないかな?恋人のことを全部知ってるなんて、もしそんな人がいたらそれはただの思い上がりだよ』


 この時の僕は、少し語気が強かったかもしれない。サキのことを少しでも多く知りたいと思う、今の僕自身に対しての言葉でもあったからだ。


『でもね、私、彼の家すらも知らなかったの。彼の通っている大学も、何もかも。一緒にいる時はそれでも良かった。会えばお互い隣にいて触れられたから。でも、いなくなって気がついたの。彼に会いに行くことができないんだってことに』


 それを聞いて、僕もサキについて知らない事が多いのだと感じた。そういえば、僕も神戸にあるサキの家を知らない。


『彼がいなくなってから、毎日毎日彼のことを考えた。付き合ってた頃は、そんなことなかったのにね。でも不思議なことに、彼のことを思えば思うほど、頭の中にいる彼の姿は色を失い始めるの』


 西島さんの声が再び震えた。電話の向こうから何やら大きい音が聞こえるが、それでも彼女の震えは僕の耳に伝わった。


『彼はね、いつしか透明になってた。顔さえも分からなくなってた。本当に付き合っていたんだ、という実感だけが残って、その具体性は何もなくなってしまったの』


 僕は……情けないことに何も言えなかった。


『私、それから誰ともお付き合いはしてない。誰かと愛し合うってことが、怖いの』


 彼女は、おそらく泣いている。先程から後ろで鳴っていた大きな音が、また一段と大きくなった。


『それでね、まだ橋本君の彼女がどうなのか私には分からない。さっきの天神祭の話も昨日ふと思い出しただけなんだけど、でも何かあなたの周りで大きな“流れ”ができているような気がする。その流れはあなたの人生を左右するものかもしれない。だからあなたの意志でもってその流れを見極めなければいけないと思うの』


『どういうこと?僕にはさっぱり分からない。どうしたらいい?』彼女の速くなる鼓動が伝わる。しかし、内容は抽象的だった。


『“未来を変えられるかもしれない”なんて昨日は無責任なこと言ってごめんね。変える方法もわからないのにね。それに“彼女はいなかったんじゃないか?”って失礼な事も聞いてごめんなさい。でも、あなたは信じてるよね、彼女さんのこと』


『もちろん。サキはいるよ』


『……サキっていう名前なんだ』


 西島さんの声はどこか安らぎを得たような心地よさがあった。後ろに聞こえる大きな音はどうやら車の多い道路のようだ。その奥には何か別の音が聞こえる。電車……の音だろうか?


『だったらまだ手がかりがあるんじゃない?サキさんが残していったものが。私と決定的に違うのは、サキさんがあなたに意味深なメッセージを残してるってこと。探すための糸口がきっとある。私から言えるのはこれだけ』


 ひとしきり言い終わった彼女から感じるのは、何かしらが幕を閉じる時の虚無感だった。そして肝心な事は何も分からなかった。


 それでも、僕は西島さんの電話は大きな意味を持っていたと思う。


『ありがとう、西島さん』


『こちらこそ、ありがとう。また会おう』


 川の水が突然滝に落ちるような、そんな話の終わり方だった。余韻もなく、電話が切れた。


 また会おう。と彼女は言ったが、もう会う事はないだろうと直感的に思った。


 そしてこの電話を切った直後、キャップを持った手を見て、なぜか僕は唐突にサキの言葉を思い出した。


『私、このキャップね、家の前にある帽子屋で買ったの。個人でやってる帽子屋で、これは世界に一つだけしかないものなんだって』


 何かの啓示だろうか?

 僕は大事なことを思い出した。

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