第8話
『ねえ、私と一緒にいて楽しい?』
サキは僕に、よくそんな事を尋ねた。
『楽しいよ』
決まって僕はそう答えた。二人が共有する時間の中で、楽しくない瞬間はもちろん多少なりともあったが、僕は彼女に“楽しい”と伝えたかった。
『よかった』
サキは、ほっとしたような表情で小さく笑った。こんなやりとりを何度繰り返しただろう?
僕達の思い出は心の中に広く深く根を張り、いつしか日常の何気ない一瞬でさえも、二人のために用意されたもののように思えた。
そして、それらの思い出こそが僕達を定義づける。僕達の存在は、僕達が歩んだ道のりによって証明されている。
西島さんのメッセージは、僕達の存在と思い出と、それら全てを否定するようなものだった。
複雑な思いを抱えて歩き続け、今出川で南へ下り、いつしか天気が悪くなったために電車に乗った烏丸御池は、知らぬ間に越えていた。四条で東へ曲がると人が多くなってきたので、意識が心の底から戻り、少し疲れてきたことに気付いた。
大丸の地下にあるカフェでコーヒーを飲み、一息ついたらすぐに店を後にして、また歩き始める。
僕は四条通を東へ進みながら、昼を少し過ぎた空の、突き抜けた青色を見た。ビルに切り取られた狭い空に、自分の境遇を重ねてしまった。
そして“僕がサキと付き合っていなかった”という西島さんの表現はどういうことなのだろう?とふと思った。
さっきのメッセージがやはり気になってしまう。僕は何度もスマートフォンの画面を開いて逡巡し、またポケットに入れ直す。
なかなか自分の気持ちに素直になれず、どちらに転んでも納得のいかない結果になりそうな、後ろ向きな予感が胸を埋め尽くした。
僕はどこまで歩けばいいのだろう?
○
『私、このキャップね…………』
そんな情景が突然、頭に浮かんだ。四条通を突き当たりまで進み、八坂神社に着いた時だった。
西楼門をくぐり後ろを振り返ると、四条通が京都の中心を貫いていて、まるで大きな川をイメージさせる。その背景とともに先程蘇った記憶はサキとの思い出で、僕は夕陽のあたる彼女の顔と、被ったキャップに触れた彼女の手を思い出した。
キャップについてサキは何か言っていた。その続きは、思い出せない。
もうすぐで答えに手が届きそうなモヤモヤした感覚のまま本殿にお参りして、おみくじを引いてみた。
末吉だった。吉方は西。
僕はサキを求めている。サキに会えるのだろうか?
○
僕は河原町まで歩いて、これからどこへ向かうか悩んでいた。彼女の残したヒントに対して、僕は応える事ができていない。
河原町の地下通路で電車の料金表と時刻表を見る。時刻は午後二時半。明日の午後には東京に戻らなければならない。あまり悠長なことは言ってられず、僕は何かにすがるような気持ちでスマートフォンを取り出した。
西島さんに連絡するか……。
どこか胸が絞られるような気持ちもあったが、これしか方法がないような気がしたのだ。
『もしもし、西島です』
西島さんは着信の相手が僕と分かっていると思う。しかし、どこか彼女の声は他人行儀で遠くに感じた。
『あ、橋本だけど。メッセージありがとう』
『橋本君、今日は本当にごめんなさい』
彼女は丁重に謝罪を述べた。僕は正直、そんなことはもう気にしていなかった。聞きたいことは、あのメッセージの内容についてのみだった。
『あれ、どういうこと?』
『うん……突然でごめんなさい。気を悪くしてないかな?』
『大丈夫。それよりも気になるんだ』
大丈夫、というのはやはり嘘だった。
『あなたの彼女さん、名前も知らないんだけど、京都の大学に通ってたって事だけは知ってた。あなたから聞いたんじゃなくて、人伝いなんだけどね』
『あってるよ。それに……西島さんには直接詳しい事は言ってなかった。それも正しい。僕は彼女のことについてゼミの男子にしか話してないから』
『うん、でもね、みんななんだかんだで知ってたの。あの頃なんて、みんな口軽いでしょ?』
『うん、そうだね』
『だから今から話す事も、友人から聞いた話。詳しい事までは話せないかもしれないけど、一つの仮説のように聞いてほしいの』
婉曲に話が展開されることに、だんだんとイライラし始めている自分がいた。それでも僕は、声に態度を含めないように、冷静な自分を装って続きを聞いた。
『橋本君、天神祭行ったよね。三回生の時に』
また、天神祭の話……。
頭痛がしたようで目をじっと閉じた。
そして力なく頷きながら『うん』と答えた。
『あの時、梅田で橋本君のことを見たっていう同じゼミの女の子がいたの。たまたま入ったカフェに座ってたって』
あの日、サキと僕は梅田で黒田さんを待っていた。たしか、大丸の景色のいいカフェで時間を潰していたはずだ。下に見える人の姿がミニチュアの模型のようだとサキが見入っていたのを覚えている。
『その子は橋本君を見つけたんだけど、声はかけなかったみたいで……』
『それはもちろんだよ。さすがに彼女とデートで来ている男に話しかけるのは気まずいだろうと思うし……』
『いや、そうじゃない』
彼女の声のトーンが変わり、キリキリと耳が痛む。
『そうじゃないの。彼女が話しかけなかったのは何か橋本君に違和感があったからなの』
『え?どういう事?』
『その後大学の授業の時に、橋本君が天神祭に行った話をしたでしょ?恋人と梅田で遊んでから、先輩と一緒に花火を見に行ったって』
その話を自分がしたかどうかはあまり覚えていない。ただ、内容は事実と一緒だ。何も問題はない。
『それを聞いて……彼女の違和感は強まったの。やっぱり自分が見たカフェでの光景はおかしいって。だから私に聞かせてくれた』
『だから何を?』
僕はついに苛立ちを声に含めてしまった。西島さんの話し方が全てにおいて癪に触ったのだ。
『…………』
少し口籠る西島さん。一体何なんだ?
『その子は何を見たの?』
もう一度僕は聞く。
西島さんは、何を考えているのだろう。
『落ち着いて聞いて欲しい……』
僕はじっと待った。
そして彼女は話し始めた。
『カフェにいたのは、橋本君一人だったって』
え?
『一人で、笑いながら座ってたって。まるで目の前の空席に、誰かしら話し相手でもいるかのように……』
西島さんは……何を言ってるんだろう?
僕は人が多く行き交う河原町の地下通路で、誰よりも孤独な自分を見出した。そして大きく深呼吸をした。心を落ち着かせるために何度も何度も深呼吸をした。
やはりそれでも、西島さんの言っていることは理解できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます