第7話





 実に天気のいい、心地よい朝だった。ただ、少し歩くと体は汗ばみ、シャツが纏わりつくように引っ付くのは、夏を目前に控えた証拠で、何度か日陰での休憩が必要だった。


 僕は黒田さんと別れた後、バスに乗って北野天満宮まで来ていた。時刻は午前九時過ぎ。想定よりも、かなり早めについてしまった。昨夜西島さんには午前十時集合とメッセージを送信している。


 大きな鳥居をくぐり、緩やかに右に曲がっていく参道を進むと、たくさんの鳩があちらこちらで何かを喋っているように音を立てていた。まるで噂をしていた厄介者が図々しく訪れたかのように、みんながちらっと一瞥して逃げていく。


 どこかで見たような景色だと思った。

 そして、それが小学生の頃の記憶だと分かると、苦い飴を口に含んだ時のような後味の悪さが、心にじんわりと広がった。


 あれは、突然だった。僕も含めて、みんな幼かったのだ。きっかけが何だったのか?そこまでは覚えていないものの、僕はクラスメイトの一人とつまらない喧嘩をした。掴み合い、殴り合いなどは一切なく、思いやりのない言葉の後に陰湿な態度を向ける、くだらない喧嘩だ。


 体力勝負じゃない分、きちんとした決着がつかないから、次の日にも持ち越した。そして、それが僕の負けを意味していたのだ。


 僕の喧嘩相手は、体格も大きく、足も速く、とにかく明るくて社交的だった。それだけの要素が備わっていれば、小学生では周りの信頼を得る事ができる。僕と比べれば、味方がずっと多かった。


 次の日に僕が教室のドアを開けた刹那、部屋の中にひしめきあっていた声の振動が、どこかに収束して消えた。そして誰かが共通のスイッチを押したように、全員が僕を一瞥した。そのたくさんの視線は何回もかけて研いだ刃物のように鋭く、優しさなどは一切無い。それらは僕の胸に容赦なく突き刺さった。


『……おはよう』


 僕の声は力なく教室を飛んだが、やがて重たい空気に押し潰された。そしてそれを合図にみんなが僕から視線を逸らした。


 僕はもう一度『おはよう』と口にしたかったが、心に蓋をされたように意思は死に、何もできないような気持ちになってしまったのを覚えている。


 喧嘩した相手を見た。彼は僕の視線に気づいている。それでも何もなかったかのように卑劣な笑いで他の子と話している。


 僕はその後数週間、ずっと孤独だった。


 学校において、僕の声は心の中にのみ存在し、そしてその言葉は彼を呪うものばかりだった。そして彼の人生をめちゃくちゃにしてやりたいと心から願っていた。そして願う事しかできない自分に失望し、陰湿な人間に堕ちていく自分にも悲観的になっていた。


 だが、そのまま夏休みに入って、二学期が始まった頃には、僕に対する無視はなくなった。驚くほど、ぴたりと止んだ。


 そしてその代わりに、僕の喧嘩相手の席には綺麗な花が置かれていた。大きめの花瓶とその周りに小さな花束が、彼のいない机の上に乗り切らんばかりに並んでいた。


 そう、夏休み中に彼は死んでいたのだ。


          ○


 その当時、僕は正直“彼の死”、それを知った瞬間に対してどのような感情を抱いたのか、よく覚えていない。


 ただ時間が経つにつれて僕の心を占めていくのは、『僕の呪い、願いが彼を殺したんじゃないか?』という不安感だった。


 彼の死因は詳しく知らされていなかった。何かしらのタブーのように扱われていたのか、まだ幼い僕達への配慮なのか、それは分からないが、病気などではなかったと思う。


 恨んで憎んでいた相手の突然の死は、僕を深く悩ませた。僕のせいなのかどうか確かめようがなく、そしてその悩みは誰にも打ち明けられなかった。


 もちろん今にして思えば、僕のその考えは行き過ぎた妄想だったのかもしれないが、やはり拭いきれない黒いシミのようなものが僕の心に残された……。


『僕は悪くない』

『きっと僕は関係ない』


 そうやって正当化して過ごしていくうちに、いつしかそのシミが濃くなっていくような気がした。目を向けないように意識していたからこそ、そのシミは僕の意識の中心に居座り続けていたのかもしれない。


 僕は疲れ果てていた。小学生ながらに大きなストレスを抱えて、遂には何でもいいから心の拠り所がどうしても必要だ、というところまで来ていた。


 そしていつも不安な心を和ませてくれる“何か”を探していた。僕は今でも、人生をそんな風に捉えている…………。


          ○


 北野天満宮の本殿にお参りして、境内を歩いていると、サキとの思い出が蘇ってくる。


 僕達の出会いの場所であり、何回も二人で訪れては、散歩のようにぐるぐると歩いた。


 この場所から、何が始まるというのか?


 彼女が残していった手紙の内容が気になる。“私達の思い出。その出発点から”というのは紛れもなく北野天満宮の事だろう。


 そして僕は時計を見た。

 午前十時を三分過ぎていた。


『西島さん……どうしたんだろう?』


 今まで待ち合わせをしていて遅れたことなどなかった西島さんであったが、鳥居のところまで歩いてみてもその姿は見当たらなかった。スマートフォンを開きメッセージの方を確認しても、何もアクションはない。


 僕はとりあえず、こちらからは何も連絡せずに、もう少しだけ待ってみようと思った。そこでもう一度引き返して境内へ向かおうとしたその時、県道沿いの歩道からじっと鳥居を見つめている、一人の男が目に入った。


 年齢は……恐らく僕と同じくらいだろうか?グレーのTシャツを着て、ジーンズを履き紺色のキャップを深く被って、じっと鳥居の上部を眺めていた。


 なぜ僕がその男に気を取られたのかというと、彼が被っていたキャップに見覚えがあったような気がしたのだ。


 ベースは紺色で白い文字が前方に刻まれている、なんてことはない普通のキャップ。だがその白い文字に特徴がある。流れるような字体は英語の筆記体のようでいて、よく見るとそれとは全く異なり解読できない。何かしらのデザインで、特に意味はないのかもしれないが、古代の文字などによくあるような不思議な魅力があった。


 僕はどこでそのキャップを見たのか?そして、なぜそのキャップの事が気になるのか?頭の中で唸りながらしばらくの間考えていると、その男は知らぬ間に横断歩道を渡って、鳥居の下まで来ていた。そして、一礼するなり鳥居をくぐり、ずんずんと参道を歩いて行く。


 どこか決まった目的地まで無駄なく進むようプログラムされたような、もしくは何か熱心な信仰に取り憑かれたような歩き方だった。


 意図的ではないものの結果的にその男の後を追う形で、僕も参道を歩いた。ただ男の方が若干歩く速度が速く、二人の距離は少しずつ開いていく。参道の周りには数人、散歩をしている人や観光客らしき人がいたのだが、僕の目は前を歩く男のみに焦点があっていて、不思議な事だが彼とは知り合いのような気分になっていた。


 彼は楼門の手前で一度立ち止まったが、何もせず、しばらくしてからそのまま前に進んだ。楼門は少し高くなっていて、先に進む男の姿はちょっとの間見えなくなってしまったが、別に彼を尾けている探偵でもないので、特に急ぐこともなく、ゆっくりと彼の後に続き階段を登って楼門を抜けた。


 しかし、僕はもう少し急ぐべきだったのかもしれない。


 彼は……いなくなっていた。

 僕の目の前に、あのキャップを落として消えてしまっていたのだ。


          ○


 なんとも言えない気分だった。周りを見渡しても男の姿はない。そもそも顔を覚えているかと言われても、しっかりと判別できるほど認識していたわけでもない。


 だが、不思議と男はここにいないと感じられた。


 僕はキャップに近づいていき、それをそっと手にしてみた。何かいけない事をしているような後ろめたさを感じたが、自分の中で芽生えた好奇心を無下にすることはできなかった。


 きっと何かがある。そう思えた……。


 そして僕の根拠のない予感は、やはり当たっていた。一瞬で身体を覆うほどの不思議な力に圧倒されて、僕は戦慄した。


 “サキ”


 キャップの裏側についた白いタグ。そこに油性ペンで記入された文字は、確かに見覚えのあるものだった。


『サキの文字だ……』


 その頼りない細い文字を見て、全ての記憶が繋がった。このキャップは、サキのものだった。


          ○


 サキは帽子の似合う女性だった。よく身につけていたのは、麦わらのつばの短いものだったが、お気に入りだった白のワンピースと馴染んで、とても華やかだった。


 だが付き合って一年くらい経った頃に、『キャップなんかも似合うんじゃない?』と言ってみたら、彼女は無言で頷いて、翌日に例のキャップを被って来たのだった。


『それも似合うね』


 僕がそう言うと、サキは首を捻って考えてから『この帽子、似合うって言われたの初めてかも』と笑った。


 確か……そのキャップはサキが中学生の頃に買ってもらったもので、修学旅行か何かに持って行く際、タグに名前を書いたのだと言っていた。


 その帽子について、僕が思い出せる事はこれくらい……。


 ……本当にそうだろうか?


 何か、もう一つあったような……。


          ○


 考え事をしている間、意識せずとも体が動いている事がある。まさにこの時もそうだった。


 気が付いた時には、キャップを握りしめて小走りで境内を行ったり来たりしていた。そして無意識のうちに先程の男の姿を探していた。『もう男はここにいない』と感じていても、探さずにはいられなかった。


 “あの男は一体誰なんだろう?”


 これまで慎重に積み上げてきたサキへの想いが、音を立ててバラバラと崩れていくような感覚があった。それは知らない男がサキのものを持っていたという事に対する嫉妬心などが原因ではない。サキの見えない部分、隠された部分が大きな不安となって僕の心の平衡を狂わせるのだ。


 “あの男はなぜここにいたのだろう?”


 彼女は僕をここへ導いた。そして今僕はサキのキャップを手にしている。そのキャップを持って来た素性も知らない男の行方は分からない。分からないまま、なんの手がかりもなく追っている……。


 “僕は一体何をしているのだろう?”


 そんなとりとめのない事を考えていると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。手に取ってみると、西島さんからの電話だった。僕は画面を見たまま迷っていたが、電話には出なかった。


 今は誰とも話したくない。そんな気分だった。


          ○


 どれほどの時間が経ったのか。

 歩いた距離は、かなり膨大なものになっていたと思う。


 それでも男は見つからなかった。


 僕は、形がはっきりしないままの不安を抱えて胸が苦しくなっていた。出口の無いぬかるみに踏み込んでしまったように、時間が経てば経つほど救いがないような気がした。


 そして僕はとうとう北野天満宮を後にした。何か大事な忘れ物でもしたかのように、心は後ろの鳥居を何度も振り返りながら、僕は県道を東の方へと向かって歩き始めた。


 それとほぼ同時に、スマートフォンにメッセージが届いた。取り出して画面を確認すると、相手はやはり西島さんだった。


 “今日はごめんなさい。実家の事で少しゴタゴタがあって、どうしても会いに行けませんでした。本当にごめんなさい。また機会があれば会いましょう。ぜひゆっくり話したいです。


 それと、今日話そうと思ってた事は、きっとあなたのためになると思うから、一度(もし時間があれば今日にでも)電話できないかな?


 一つは私のかつての彼氏のこと。

 もう一つはあなたの彼女のこと。


 橋本くん、これは聞きようによってはすごく失礼なんじゃないかって思うのだけど。


 本当は彼女なんていなかったんじゃないかな?


 間違っていたらごめんなさい。

 でも、メッセージではこれ以上うまく伝えられないの。


 電話、待っています”


 長い文章で、感情も見えないまま、淡々と綴られていた。


 僕は無論、深くため息をついてメッセージ画面を閉じた。




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