第6話
サキと僕は京都の北野天満宮で出会った。
秋の始まりの、紅葉にはまだ早い、そんな曖昧な季節。とても気持ちのいい朝だった。
『隣、座っても良いですか?』
もみじ苑の休憩茶屋で腰掛けて休んでいると突然サキが初対面の僕に対して話しかけてきたのだ。
『あ、どうぞどうぞ』
そうは言ったものの、見知らぬ人が横に座るというのは不安でしかなく、特に学生だったから日々の一期一会に疎かったのもあり、僕は最初なかなか良い印象を抱かなかった。
『やっぱりまだ紅葉には早いですね』
彼女の視線の先には青々としたもみじが日にあたり、半透明のレースカーテンのように揺らぎ輝いていた。
『でも、その分人が少ないから僕は好きなんです』
何か言葉を繋げなければいけないような雰囲気に飲まれて、僕はなんとか話してみた。
『それもそうですね』
サキは二人しかいない茶屋を眺めて言った。
『私は初めて来てみたんですけど、とても居心地が良いですね』
『ここにいると心が落ち着きます』
『こちらには、よく来られるんですか?』
『去年が初めてだったんですけど、三回くらい行きました。だから今日は今年初なんですが、合計で四回目ですね』
少し驚いた表情のサキは、温かいお茶を飲んでからまたしても僕に質問を続けた。
『同じ年度で何回も行くのですね?』
『僕はハマっちゃうと何度も繰り返し行きたくなる質なので』
『でももみじ苑にそんな楽しみ方があるなんて……。なんかいいなぁ、私も知ることができてよかったです』
この時、僕は目の前のサキを少しずつ信頼しているのが自分でも分かった。それに何か自分の事を褒めてもらっているような感覚になるほど、サキは柔らかい話し方で僕の心を撫でていた。そして、若干浮かれ気味の僕は得意げに話し始めた。
『もうちょっとしたら本格的に紅葉が始まって、人も多くなります。そうするとまたちょっと雰囲気が変わりますが、それもまた良いんですよね』
『やっぱり赤いもみじが見たいというのは皆んな同じなんですね』
僕はそっと横を向き、サキをじっと見つめてみた。肩あたりまで下ろしている髪は癖なのか前方に少し巻いている。端正な顔立ちをしていて、唇がふっくらと厚く鮮やかな赤を纏っていた。そして目は少し欠けた満月を思わせる余韻が滲んでいて、何とも言えない懐かしさが…………。
『あっ………』
彼女が僕の視線に気付き、目があった。
こんなにも露骨に恥ずかしがるなんて、二十歳にもなって情けないと思いながらも、つまらない日々から徐々に自分の人生にピントが合っていくような具体性をもった喜びが芽生えつつあった。
つまり、僕は単純な男で、簡単に言うと一目惚れをしたのだ。話している女性がどこの誰かも分からないまま、恋をしていた。
サキが彼女自身の唇に指をさして僕を見る。
『何か口についてますよ』
『えっ』と声にならないほどの音を立てて、慌てながら自分の口に触れた。お茶菓子の小さな粒が付いていた。『ありがとう』と言ってお互いに笑い合いながら、僕はこの場所が世界から切り取られた二人だけの空間であるかのような優越感と罪悪感を抱いた。
『それにしても良い天気ですね』
秋の変わりやすい空に、もうしばらくこの青空のままでいて欲しい、と小さく祈りながら僕は深く息を吸い込んだ。
そして周りに人もいないゆったりとした時の流れの中で、僕の心臓と頭の中だけが目まぐるしく動いていた。次は何を話そうか?趣味の話だろうか?いや違うか、何を話すべきなんだ?と、自問自答を繰り返すうちに、その全ての勘案が無駄だと分かった。
『京都に住んでいますか?』
彼女のこの簡単な質問が僕の混沌とした頭を一太刀にて切り開くのを感じた。完全に彼女が二人の会話のイニシアティブを取っていたのだ。
『はい、大学へ通うために下宿してるんですが……出身は兵庫県の神戸です』
『そうなんですね!私も神戸ですよ。同じく大学生ですが、なんとか自宅から通っています』
思わぬ共通点の発見から、二人はさらに心のハードルが下がって、お互いに自分の事を話していった。
いつしか昼前になっていたが、僕達は茶屋を離れてからも、もみじ苑の中をゆっくりと歩きながら、飽きもせず話し続けていた。
『あの……名前を教えてもらえますか?』
『サキ、といいます』
もう、もみじは全く見ていなかった。
下の名前を教えてくれた事が、なんとなく嬉しかったからだ。
大きな木の影で涼しくなったところには簡易ベンチがあり、二人は何も言わずにそこに掛けた。横を見ると斜めに垂れた青いもみじがあり、サキは遠い目をしながら、そのステンドグラスのような淡い色に見惚れていた。
『また私も来たいです。紅葉が始まった頃に』
“私も”と言った彼女は、きっと僕を誘っているのだと、慣れない駆け引きに首を突っ込むカモのように胸が躍った。
でも、この早とちりが僕の人生を変えたのだ。
『じゃあ、今度良い時期になったら連絡しますよ』僕は嬉しさ滲む笑顔で伝えた。手はきっと震えていたと思う。
彼女は少し恥ずかしがるような仕草を見せてから、『はい。でも連絡先、知りませんよ』とクスクス笑って注意してくれた。
『あ……本当ですね』
そして僕達は連絡先を交換した。なんともスムーズなやり取りだったと思う。しかし当時の僕にとっては全てがぎこちなく、一挙手一投足が不安で、まるで綱渡りのような心地がした。
それから少し時間が経って、僕達はもみじ苑を後にした。大学へ行くと言って、サキは北野白梅町の方へ歩いていき、その姿を見送った。僕は特に用はなかったが、新しい陽気な気分を慣らし運転するかのように東へ歩いた。青空の下、どこまでも行ける気がして僕は鼻歌混じりで歩き続けた。
時間でいうとどれほど歩いたかは分からない。それでも不意に天気が崩れている事に気がついて地下の駅へ降りた。僕は知らぬ間に烏丸御池まで来ていた。
そして電車に乗って家へ帰っていった。
○
その後僕はサキの連絡先を、額に入れた賞状のように眺めてばかりで、気軽に連絡するのはどうしても気が引けた。
ただ、紅葉の時期までは少し間があるからこのまま待っているだけという状況に対して落ち着かない気持ちもあった。
僕の頭の中はサキで埋め尽くされつつあり、その当時はまだ西島さんとの関係は続いていたものの、心の繋がりを欲していた僕は、不思議なほど性的な欲求を失い始めていた。僕は自分自身がひどく最低な人間であるように思えて、西島さんとの関係に終止符を打ちたいと身勝手に考えるようになったのはこの頃である。
そこで僕はサキにメッセージを送ってみた。
“北野天満宮の紅葉はまだですが、京都の他の紅葉についても話してみたいです。今週末お茶でも一緒にどうですか?”
僕はメッセージを打ち込みながら、手はやはり震えていた。消しては打ち直し、消しては打ち直しの繰り返し。簡単な短文を作るのにかなりの時間を要した。そして時間をかければかけるほど文面は凡庸になり、言葉一つ一つが色を失っていくことも学んだ。
メッセージを送った翌日、サキからの返信があった。
“ぜひよろしくお願いします”
僕は舞い上がり、黒田さんにもすぐに伝えた。遅れた青春を謳歌するように、純真な恋心を抱いて、毎日を過ごしていた。
この数日後、僕はサキと付き合う事になった。
○
サキとの出会いについて、僕は心の中にある日記を丁寧に手繰り、思い出してみた。
寝転びながら暗くなった天井を見上げて、かつての日々に感謝しながら、僕はふと涙を流した。
横を向くと小さないびきをかいている黒田さんが、時折寝返りを打ってこちらを向く。その度に少し驚いてしまうのだが、その寝顔は気持ち良さそうに笑っていた。
一方僕は、なかなか眠る事が出来なかった。
『サキはどこへ行ったのか……』
なんとなく声に出してはみたものの、特に気持ちが整理できる訳もなく、むず痒い言葉の余韻が部屋の中で行き場を失い、ふわふわと彷徨うだけだった。
黒田さんを起こさないように気をつけながらゆっくりと立ち上がり、そっとカーテンを開けて外の景色を眺めてみた。
京都の街は……静寂に包まれていた。
黒い布を被せたような息苦しさが辺りには漂っていて、遠くに見える山の稜線がぼんやりと、暗いグラデーションに一つの区切りをつけていた。
なぜ、黒田さんはサキの事を覚えていないのだろう?
ずっとその事が頭を離れなかった。僕は間違いなく三人で天神祭に行った事を覚えている。いや、黒田さんも天神祭の日の事は覚えているのだ。ただ、黒田さんの思い出の中にサキだけがいない……。
『痛っ…………』
頭に針で刺されたような痛みが走る。それと同時に、僕の頭の中でサキの笑顔がぼやけ始めた。
早く会いたい……。早く会わなければならない……。
一つ溜息。そして僕はまた再び布団に潜り込んで、少しでも眠れるようにじっと目を瞑った。
○
『ねえ、今日はどこへ行くの?』
『どこって…………北野天満宮だろ?』
僕が朝の用意にもたついているとサキは退屈そうにテレビをつけた。それを見て、少し慌てながら服を着替えた。
『ちょっと待ってて。もう少しで準備できるから』
『急がなくていいよ、ゆっくり自分のペースでいいからね』
サキはテーブルに頬杖をついて、ニュース番組を見るともなく見ていた。もしかしたら怒っているのかもしれない。彼女の言葉と行動が一致していないように思われて、結局は急いで支度をする。まあ自分のせいだから何も言えないのだが……。
『よし、もう行けるよ!待たせてごめんね』
そう言って彼女の方を見ると、すでにテーブルからは離れていて、なぜかベランダに出ていた。
『そんなところにいて、どうしたの?』
『………………』
何も返事がない。
『ねえ、出かけよう。また一緒に北野天満宮へ行くんだから……』
僕はとりあえず彼女を振り向かせようとしたが、彼女は一向に黙ったままで、じっと前を見つめている……。いや、厳密に言うと見つめているのかどうかは分からなかった。
『さぁ、サキ……』
多少乱暴ではあったかもしれない。僕は彼女の肩を掴んでこちらへ引き寄せた。そしてよろめきながら彼女がこちらへ顔を向けた時、僕は言葉を失った……。
彼女には顔がなかったのだ……。
○
『おーい、橋本。起きろよー』
『…………?』
視界が霞んで、今どこにいるのか、何をしているのか、僕はすぐには判断できなかった。
『大丈夫か?随分と、うなされてたようだけど……。汗もすごいし』
目の前にいるのは黒田さんで……周りを眺めると、そこは黒田さんの部屋だった。そうだ、僕は昨晩、黒田さんにお世話になっていたのだ。
『すいません。変な夢を見てたようで』
『まぁ、昨日は色々な事があったからね。とりあえず水飲んで、パンもあるから軽く朝食を取ろう』
コップに入れてくれた水は冷たくて喉が心地よかった。布団を片付けて、黒田さんと一緒にテーブルに向かい、パンと目玉焼きとウインナーを食べた。
『ここまでしてもらって……本当にありがとうございます』
『なに言ってんの、いつでも相談してくれよ』
柔らかな陽光と温かい食事に、胸の中が洗われているような気持ちになった。
『じゃあ、そろそろ行かないといけないから、橋本も準備してくれ』
僕は鞄を用意して、すぐに出れるようにした。そして黒田さんが玄関の扉を開けた。その時、黒田さんがボソボソと喋り始めた。
『俺、昨日聞いたこと、改めて考えてみたんだ』
『え?』
差し込む日の光で黒田さんの表情が分からない。
『それで、橋本の言った事と俺の記憶を照らし合わせてみたんだけど……。やっぱり俺はサキちゃんに会った事はないよ』
何かが千切れるような音が耳に小さく反響した。
『そうですか……』
『ごめんな』
僕は正直この記憶のずれに関して、今朝目が覚めてから考えないようにしていた。
あの、よく分からない夢を見てから、僕は何かを信じられなくなっている。
しかし、その“何か”についても、僕は何も分かっていない……。
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