第5話
『……おーい、聞いてる?』
『……あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてて』
黒田さんの陽気な声で我に返った。西島さんのことを考えているうちに意識はどこか遠くへ離れていたのだ。
『サキちゃんがどこにいるか分からないのは確かに落ち着かないだろうけど、こういう時こそシンプルに物事を捉えないといけないよ』
シンプルに……。
そう考えると、より浮き出てくるのは西島さんの彼氏が置いていったという手紙だ。何が書いてあったのだろう?状況は今回のサキの件と同じだ。
そもそも僕は、その頃の西島さんに彼氏がいたことも知らなかった。
カウンターテーブルの端に座る西島さんにそっと目を向ける。顔はよく見えないが一人ワインを飲みながらゆったりとした時間を過ごしていた。
『橋本さぁ、もしかして……浮気しようとしてんの?』
黒田さんは肘をついて少し前屈みになり、僕の目の色をゆっくりと鑑識するように覗き込んだ。
『え……?どうしてですか?』
『視線の先に同い年くらいの女性がいる。さっきから橋本はずっとその人を見ている。それで俺の声も届かないほど考え込んでいる……』
もったいぶって証拠をあげる様は、何かしらの裁判を想像させた。
『それってもう浮気の序章じゃないのかな?』
憎らしい笑みで僕を見ているが、これも黒田さんなりの冗談なのだ。
『何言ってるんですか、僕は彼女一筋なんでね』
これは……嘘ではない。
僕にはサキしかいないし、目の前からいなくなってしまった今もサキを探しているのだ。
僕はサキに会いたい。
頭の中で言葉にすると、明確に僕の目的が地に足をつけたように感じられた。
今少しでも、直感でも、サキに近づけるかもしれないヒントがあるならば、僕は見て見ぬ振りをするべきではない。確固たる意思が胸のあたりで渦巻く。あとは行動あるのみ……。
そして僕はほぼ無意識のうちに席を立ち、西島さんのいる方へ進んでいった。
『おい、おい!本当に行く事ないだろ?』
後ろから、慌てた声の黒田さんが手を伸ばして僕の肩に触れようとしたが、僕は振り返りながら笑顔でそれを制止した。
『大丈夫です。彼女は大学時代の友人なんですよ』
ぽかんとした表情の黒田さんを尻目に、僕は西島さんの方へと歩み寄り、彼女の横ですっと立ち止まった。
西島さんが魚の煮付けを箸で挟みながら、ゆっくりと顔をこちらに向けた。そして少しだけ目を丸くしてから、驚きとある考えを巡らせているような表情になった。
『久しぶり、西島さん』
『とても久しぶりだね』
心地よい音を立てて箸を置き、ワインを一口含ませてから、ナフキンで口元を優しく拭って、僕の方に向き直った。
『東京に行ったんじゃなかったっけ?』
『そうだよ、今も東京で働いてる』
『じゃあ、ちょっとした休暇で京都に帰ってきたの?』
『うん……まぁそんなところだね』
『ふぅん…………』
西島さんは辺りを見回して、少し口を開きながら何かを探していた。
『彼女さんは……一緒じゃないの?』
その言葉と同じタイミングで黒田さんが恐る恐るこちらに顔を出したので、『彼女はいない。大学時代の先輩と一緒なんだ』と振り返って彼を紹介した。
黒田さんは髪の毛を手で触りながら、恥ずかしそうに挨拶をした。
『もしよかったらこっちで一緒に飲みませんか?』
西島さんを誘った黒田さんは、『橋本もいいよな?もちろん』と、同意の目を向けてきたので、当然頷くしかなかった。店長にも確認をとって西島さんの料理やワインを僕達の方へと移動させた。
それから僕達三人は同じ母校のことを話のネタにして笑いあった。座席の並び方は僕を真ん中にした形で、終始言葉のキャッチボールを指揮しなければならず、時には両隣の会話を中継しているだけのような気分にもなった。それでも僕は大学の頃の、ある意味で視野が狭かった日常に想いを馳せた。そして通過列車のように休みなくビールは進み、さらに見境なく日本酒にも手をつけて、視界に入るもの全てが浮かれているように見えてきた。しかしそれと反比例するかのように、僕の心の底に隠れていた不安が沸々と煮えたぎっていくのも感じながら……。
『それで、彼女さんはどうなの?橋本くん。上手くいってるの?』
『え…………?』
西島さんの、そのさりげない一言は明確に覚えている。この時、僕の中にあった安定不安定を調整するスイッチがカチッと音を立てて、一気にサキのことで頭がいっぱいになった。
『そうだよ、それが問題なんだよ!僕が今ここにいる理由でもあるし。ここで、こんなところで立ち止まってたらサキがどっかに行っちゃうよ……』
『それってどういう事?』
西島さんがワインで少し上気した顔を僕に向ける。その先で黒田さんが難しそうな表情をしていた。
『サキが……いなくなったんだ。今日の昼に突然……』
僕は黒田さんに電話で打ち明けた時のように、事の顛末を語った。
『…………』
黙ったままの西島さんを見て、彼女は自身の過去に意識を向けているのだと僕は推測した。
『西島さんは……その……』
徐々に酒の魔法が解けていき、目の前の世界が鮮明になっていくにつれて、僕の言葉はおろおろとおぼつかないテンポになり、伝えたい事は相手に想像させるという形をもって伝わってしまった。
『私の話、知ってるの?』
『いや、あまり知らない。僕はちらっと聞いた事があるだけで……』
『彼女さんは私の事、知らないよね?』
一体何の確認なのか、よく分からないまま頷いた。
『不思議な体験ね……』
他人事に対する言い方ではあったが、眉間に寄せた皺が、彼女の中で巡っている深い思考を印象付けた。
『あの、橋本くん』
左腕の時計をちらりと見やりながら、西島さんが僕を呼ぶ。
『明日私休みなんだけど、また一緒に話せないかな?京都にはまだいるんでしょ?』
『うん、とりあえずはね。まだもう少しこっちにいる予定だよ。ちなみに明日は朝から北野天満宮へ行く予定なんだ』
『じゃあ、よかったら一緒に行かせてもらってもいいかな?』
僕はサキとの出会いを思い出していた。一人で北野天満宮へ行くべきじゃないのか?
そんなはっきりしないままの自分の思いが錯綜している。それを表に出さないように、目をグラスに向けたまま黙っていると、西島さんが沈黙に耐えかねて言葉を続けた。
『その彼女さんの話を聞いて思ったの。自分の昔のことなんだけど……。色んな後悔とかね、もう思い出しても意味のないことばっかり。でも、今のあなたはまだ未来を変えられるんじゃないかな』
彼女は小さなハンドバッグを確かめながら帰る支度をして、一口冷水を飲んだ。
『良い方にも悪い方にも、まだどちらに転ぶか分からないんだったら、良い方を信じないとね』
『もちろん、僕はしっかり彼女と話し合うつもりだよ。結果がどうなろうとね』
『うん、よかった』
西島さんがかつての明るい笑顔でこちらを向いた。
『あなたにその事で何か手助けができると思うの。もちろん一つのケーススタディのように捉えてもらったらいいんだけど』
僕は彼女の言葉に納得して、自分の中にあった迷いが少しずつ解けていくように感じられた。
『じゃあ、お願いしようかな、明日の件』
『ありがとう、また詳しい時間とかはメッセージで教えてね』
そう言って立ち上がった彼女は、『そろそろ帰ります』と、財布を取り出した。
『いやいや、ここは俺達で払いますから。せっかくの再会だったんだし、ここはどうぞ気にせずに』
少し申し訳なさそうに迷っていた西島さんであったが、『では、お言葉に甘えて』と、お礼とともに頭を下げた。
『じゃあ橋本くん、また明日』
『うん、また明日』
そして僕の耳元に近づいて囁いた。
『あなたの彼女の事で、一つ気になる事があったの。それも明日話すね』
そして彼女はくるっと振り返り、髪の甘い香りだけを残して、店を出ていった。
一つ気になる事……?
『橋本……お前やっぱり大学の頃モテモテだったんじゃないか?あんなに可愛い子とも仲良さそうだったし』
黒田さんが酔っ払った勢いのまま肩を叩いて聞いてきた。
『違いますよ、本当に数少ない女性の友達の一人なんです』
『本当か?まぁ女性の友達がいるだけでも贅沢なんだよな、きっと』
『黒田さんは男とばっかりつるみすぎなんですよ。女性が近付きづらいのかも』
声をあげて笑う黒田さんを見ながら、僕の頭では去っていく西島さんを思い出していた。
彼女の残した言葉が気になりつつも、とりあえず僕達は残りの料理とお酒を片付けて店を出た。『俺達が支払う』と言っていた黒田さんだったが、僕の分まで奢ってくれた。
『橋本さ、今日の夜はどこにも行くあて無いんだろ?』
『無いですね』
『じゃあ、うちに泊まったら?』
『そんな……明日は仕事じゃないんですか?』
『うん、仕事だよ。だから朝は早くなっちゃうけど、それでも良かったら来なよ、久しぶりにさ』
僕はこうなる事を心の中で密かに望んでいたが、さすがにここまでしてもらうのには気が引けた。
『いや……いくらなんでも、良くしてもらいすぎですよ』
『いいんだよ、俺がやりたいだけなんだから。なんたって、色々聞きたい事が山ほどあるんだからな』
そしてまたしても、僕は人の好意に甘える形で『分かりました、お願いします』と黒田さんに伝えた。
『よし、じゃあ行くぞ。また少し飲み直そうか』
『明日本当に大丈夫ですか?』
『大丈夫、大丈夫。そんな事気にするなよ』
そして僕達はコンビニへ寄ってから、黒田さんのマンションへと向かっていった。
○
黒田さんの部屋で、僕達が話したことの大半はサキのことだった。そこで僕が一番驚いたことは、“黒田さんがサキに会った事がない”ということだ。
『え……?会った事なかったですか?』
『いいや、俺は会った事ないよ。顔もどうかなぁ、写真は見せてもらった事あるけど、曖昧だな』
僕はてっきり、二人は会った事があると思い込んでいた。
いや、本当に……思い込んでいただけだろうか?
僕は、記憶をゆっくり辿っていく。大学生の頃の思い出の中に、何かが引っかかっているような気がする……。
『よく橋本が話してくれたからさ、サキちゃんのなんとなくのイメージはあるんだよ。でもどちらかというと性格面だったり、言動だったり、そんなところばかりが出来上がっていて、肝心の見た目はいつものっぺらぼうなんだ』
やはり何かが引っかかる……。
『橋本はあまり彼女を紹介したりするタイプじゃないもんな。どちらかと言うと、こっそりイチャイチャしていたい変態系だったから……』
黒田さんの冗談に笑ってはみたが、やはり僕は、黒田さんとサキの三人で出掛けた事があるような気がして、すぐに難しい表情になってしまった。
『どうした……?ごめん、怒った?』
『……いえ、そうじゃないんですけど……』
そう、僕が今考えているのは別のことだ。ぼんやりと当時の情景が浮かんでくる。夜の闇、夕焼け、連なる電灯に香ばしい匂い。そして川沿いを歩く人の列。京都じゃない。あれはたしか…………。
『天神祭…………?』
大阪の天神祭。あの時四回生だった黒田さんは就活を終えていて、どこかへ花火を見にいきたいと言っていたのだ。僕はもともとサキと天神祭へ行く予定があったから、よかったら一緒にどうかと誘ったのだった。
『え、天神祭がどうしたの?』
『黒田さん、覚えてませんか?一度、一緒に天神祭へ行きましたよね?』
僕は水を得た魚のように生き生きとした目で確信を持って言った。
『あぁ、もちろん覚えてるよ』
ほら!と僕は心の中で叫んだ。
『あの時は人が多すぎて参ったよなぁ。本当に暑くて花火どころじゃなかったよ』
そう、あの日は異常に暑く、ゆっくりと進む人の流れの中で、しっかりと三人離れないように用心しながら歩いていた。
『あの時ですよ!サキも一緒だったじゃないですか』
大きく目を見開いて黒田さんを見た。しかし彼の目は、暗い池のように鈍く光を吸収し、動揺の色を作り出していた。
『え……?俺と橋本の二人だったよ……?』
……?
『あの時は二人で梅田に集合したんだよ。それから桜ノ宮駅に向かって……』
『いやいや、サキも一緒に屋台で焼き鳥食べて、三人で話したじゃないですか。三人でお面も買って、花火も見て』
僕は必死になって訴えてみたが、黒田さんの困惑は強まるばかりだった。
『いいや、二人だった……』
何かがずれている……。
黒田さんと僕は二人で少し気まずくなってしまった空気を避けるように、寝る支度をした。
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