第4話
神戸の高校から京都の大学に進学して、それと同時に簡素なアパートでの下宿を始めた僕の生活は、堕落を極めていたと思う。
食事や家事においてはもちろん手がつかず、さらには常にどこかへ出かけてお金を浪費していた。レストランや警備スタッフ、スーパーのレジなど、一生懸命アルバイトで稼いだなけなしの給料は貯まることなく露と消えたのだ。
そんな時、よく遊んでいた仲間の中に西島さんがいた。
彼女は綺麗というよりも可愛さが勝っていたが見た目はかなり評判で、大学の同じ学科の男性陣には『当然、彼氏はいるんだろうなぁ、三人ぐらい』とか『夜は結構社会人と遊んでるらしい』等々、妄想で彩られた噂話がよく飛び交っていた。
でも僕はそれらが全部嘘なのだと知っていた。
彼女は大学では友達に囲まれて一見華やかでありながら、心の中には孤独の影を落としていて、それは僕と二人でご飯へ出かけた時によく見ることができた。
『私ってさ、なんで生きてるんだろ?』
『え……?』
若い僕は何も気の利いたことが言えず、ただブリキのおもちゃのように軽い音を立ててじっと黙っていた。
『あのね、私はなんの才能もなくて、将来の展望も暗いし、何が楽しいのかも分からないし……』
そう言って彼女は少しだけ目を瞑った。そしてグラスに入った氷をカラカラと音を立てて回しながら話を続けた。
『そりゃ友達といる時も楽しくないのかって聞かれたら、そうじゃない。もちろん楽しいよ。だけどずっと心の底に引っかかるものがあるの。なんかこう……モヤモヤするの』
あまり上手く言語化できない西島さんを見ながら、僕は彼女が自分の人生に酔っているだけなのだと決めつけた。
日常に潜む不合理な小さい不幸を連ねて、終始自分からの視点に偏った語り方。悲劇を捻出して、心のハードルを下げて、そこに落ち着き安心しているような表情。
そんな風に、彼女を哀れな人間として見ていた自分がいた。
でもそれは結局、僕が未熟で本質を見る事ができていなかっただけなのだと、今では思う。
彼女はきっと可愛らしい見た目によらず心は早熟で、人生の無機質さにいち早く失望していたのだと思う。
目の前の事で精一杯だった僕には到底気付く事ができないような暗闇を、将来の自分の像に重ねて見ていたのだ。
『ねぇ、私って彼氏いると思う?』
『…………いると思う』
西島さんは少し笑って、僕に謝った。
『変な、ずるい聞き方してごめんね。でも、その回答はハズレです』
『そっか。大学の男達がきっと喜ぶよ』
僕は若干、言い方を間違えてしまったような、どこか馬鹿っぽく間の抜けた返事をした。正直にいうと、どういう反応をすれば良かったのか分からなかったのだ。
『橋本くんはどうなの?』
『彼女がいるかどうかってこと?』
西島さんは、そんなの当たり前よ、というような含み笑いをしてから頷いた。
『僕もいないよ、できそうな気配すらないな』
この時僕はまだサキに出会ってはいなかったし、実際誰からもアプローチされず、また自分からも決してしなかった。
『そうなんだ、もったいない……』
『…………』
『もったいない』という表現に青春の機微を感じ取った僕は、高鳴る鼓動を抑えきれず酔いに任せながら『……じゃあ僕と今夜どう?お互いフリーなんだし』と、乱暴に誘ってみた。そして誘ってみたあとで、彼女から放たれる不穏な艶やかさに戦慄した。僕の目の前には、一人の女性が『西島さん』という殻を脱いで座っているように思えたのだ。
『どう?っていうのは、つまりどういう事?』
『え……それは…………』
心の準備ができていなかったのは自分の方だった。彼女は少し視線を落として、息を深く吸い込んだ。そして僕に向かってこう言った。
『ホテルに行くかどうかってことかな?』
その時、僕はなぜか大きな長い階段を思い浮かべた。
彼女は僕よりも数段上のところにいる。僕が慣れない景色にあたふたと戸惑いながら、ゆっくりゆっくり登っていると、彼女は太陽のように明るい道標となり、僕の手を優しく引っ張る。そんな、まるで彼女が天使であるかのような絵がはっきりと頭の中で煌めいた。
そして彼女に向けて僕は頷いた。
○
その夜の事は、はっきりと覚えている。
春のまだ少し寒い時期だった。
二人の時間が無限に引き延ばされている。そんな風に感じられるほど僕は彼女に夢中になり、羞恥心と欲の狭間で脳が締め付けられるのを感じていた。
しかし、何者かがずっと僕の心を突いているような錯覚を起こしていた。
もちろん全てが初めての経験だったという事は大きいのかもしれないが、どこか深海で何かが息をひそめているような不安と、その対比としての神聖さが常に漂っていた。
『ねぇ、どうだった?楽しかった?』
彼女は何も身につけないままタオルケットにくるまり、若干眠たそうにして僕に聞いた。僕はベッド横の椅子によそよそしく座ったまま答えた。
『そうだね…………』
ここから少しの間、二人の上に降りた沈黙。僕が楽しかったかどうかを気にするよりも、彼女自身がどんな気分だったのかを言って欲しかった。それは若者の自惚れからくる虚栄心だったのかもしれない。
『西島さんは、こういうの初めて?』
勝手もわからないままベッドに横になり、彼女の白く透き通った肩を見て、そっと割れ物を扱うように触れた。そして不思議と彼女に対するあらゆる欲求が消えていた事に気がついた。
『……うん、初めて』
僕はその言葉が嘘なのだろうという気がした。何も根拠はなかったが、彼女の目の奥で鈍く光るものを見たような気がして、僕はそう考えた。
特に意味はなく、ぎこちないまま肩を抱き寄せてみる。彼女の鼻先が僕の胸に触れて、生暖かい息が何かの痕跡を残すようにあたり続けていた。
緩やかに流れる空気の中では、彼女の呼吸だけが時計の秒針のように、確かで絶対的なものに思えてくる。そして次第に彼女の意識は薄れて、すやすやと眠ってしまった。
その寝顔を見ながら、『彼氏はいない』と言った彼女の言葉もきっと嘘なのだと思えてきた。僕はその小さな肩にそっと口づけをしてみた。
彼女に対するイメージは揺らぎ、僕は何も信じられなくなり、自分自身もゆっくりとホテルの一室という奇妙な空間へと溶け出していく気がした。
『何をやってるんだろう?』
そう一人呟いて、僕も知らないうちに眠りについた。
○
その後も西島さんと僕は月に2回ほど、共に食事をしてからホテルへと通った。
お互い一人暮らしだったにもかかわらず、どちらの家にも行くことはなかった。口にはせずとも共通認識として、ある種の線引きをしていたのかもしれない。
『今週はいつにする?』
『僕はいつでも』
『じゃあ木曜日はどう?』
『うん、そうしよう』
こんな簡単なやり取りの中に、体の関係が含まれているなんて誰が思いつくだろう?世の中には外側からでは全くもって判断できない事柄がたくさんある。僕はその見えない世界の住人を恐れていたが、いざ自分がその立場になると舞台袖のような湿った安心感を得ることができた。そしてそこに安定しようとする自分が見えてくると、少し悲しくなった。
『橋本くん、どうだった?』
彼女はいつも僕に感想を求める。
『うん、とても良かった』
僕はいつものっぺらぼうのような回答でやり過ごした。そして、彼女からの感想を聞ける日は来なかった。
○
その年の秋、西島さんと親しくなってから半年程経った頃に、僕はサキと出会った。
そして、僕は正直に恋人ができたことを西島さんに伝えた。
『そうなんだ……』
二人並んで歩きながら話していた。少しだけ顔を横に向けると、西島さんが笑っているのが見えた。
『よかったね。橋本くんには恋人ができないんだろうなって、勝手に思ってたからちょっと嬉しいかな』
『そんなふうに思ってたんだ』
『だって浮ついた話は全く聞かなかったから』
僕は西島さんとの関係を振り返りながら、この半年間の虚無的な快楽を精算しなければならないような気分になっていた。しかし、その方法など何も思いつく事はなく、むしろ気分に抵抗するように、頭では何もしないようにと僕自身を宥めるのであった。
『じゃあもう私達の関係は終わりにしなきゃね』
『……そうだね、随分勝手な事だと思うんだけど』
『当たり前だよ、このまま続けられるわけないんだから』
西島さんは、僕から切り出さなければならなかった事を言ってくれた。
そしてどのような意味が込められていたのか分からないが、西島さんは僕の頬にキスをした。何も温度を感じない空虚なキスだった。
僕達はその日、曖昧なキスを合図に言葉少なになり、知らぬ間に別れ、そしてお互い一人になっていた。
○
それからも西島さんと僕は大学の授業やゼミ等で会うことはあったものの、二人きりになる事は決してなかった。
西島さんが故意に避けていたのか、それとも僕が避けていたのか。特に意識する事なく、僕達は『よく一緒になる大学の友人』という元通りの関係に戻っていた。
ただ僕は一つ、西島さんについて気になる事があった。
そう、気になる事……。頭の片隅には確かにあったはずなのに、それを今までずっと思い出すことは無かった。こうして実際に西島さんの姿を見て唐突に記憶が蘇り、僕の心をあっという間に支配する謎の不安感。そしてサキのいなくなったこの現在に通ずるような妙な違和感……。
それは、僕がサキと付き合いはじめて三ヶ月ほど経った頃に西島さんの知人である女性から聞いた話だった。
『西島さんの彼氏、急にいなくなっちゃったんだって。本当急にだよ。置き手紙をたった一枚残してさ……』
当時、僕はこの根も葉もない噂を無視した。
しかし、これはサキの失踪と何か関係があるのだろうか……?
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