第3話
京都駅に到着したのは午後七時半を少しまわった頃だった。
駅の北側へ出ると、暗くなった空に向けて花のように白く浮かび上がる京都タワーが目に入った。登った事はないし、内側がどんな構造になっているのかもよく知らないが、いくつも思い出はある。景色の中で一際目立つ不思議な建造物だなと一瞥して、そそくさと地下へ降りた。
地下通路には近鉄・地下鉄を使う人や買い物をしている人、ちょっとした広場で何かしらのイベントに参加している人で溢れていた。
そして見渡せば蘇るかつての日々。あの頃とあまり変わっていない景色が、僕を妙に安心させた。ここに、かつての僕の面影があり、サキの面影があり、時間を経て空間を共有しシンクロしているような、ふわふわとした心地よさがあった。
少し歩くと見えてきたのは、サキとよく一緒に昼食をとった洋食屋だ。そこは相変わらず盛況で、簡単に食事をしようと思ったのだが、やめておいた。またいつかサキと来れれば、それでいい。
『さて、どうしようか……?』
勢いよく飛び出してきたものの、何も準備をしていないものだから、まずはその日の夜をどう過ごすか考えなければならなかった。
とりあえず地下鉄に乗ろうか、もしくはそれとも……と悩みながら、道の端へ寄った。軽快に歩み去る通行人の邪魔にならないように、爽やかな飲料の広告が大きく貼られた丸い柱にもたれて、腕組みをした。
そしておもむろにスマートフォンを取り出して、連絡先の画面を見た。古文書を読んでいるような難しい表情をしながら、誰かに連絡を取ろうかと思ってみたが、誰も彼もが久しぶりの連絡になるので逡巡した。
サキのメッセージトーク画面も開いてはみたが、返信はなかった。ただ、既読になっていた事が気になった。まるで、どこかから彼女が覗いているような、支配されているような感覚が走った。
そしてしばらくの間、そのままの姿勢で考え続けていたが、意を決して大学時代の先輩に連絡を取ることにした。
突然の電話は迷惑かもしれないな……と、呼び出し中のコール音を聞きながらどうしようもない事を考えていたが、8コール目でぷつりと切れて、懐かしい大らかな男の声が響いた。
『はい、黒田ですけど』
『あ、もしもし黒田さん、お久しぶりです』
『…………橋本か?』
ゆっくりと辞書をたぐって言葉を探すように、僕の名前を聞いた。
『そうです、大学の頃お世話になった橋本です』
『あぁ、ごめんごめん、スマホ変えた時に連絡先も消えてしまってさ、最初誰なのか分からなかったよ。でもまぁ、声の感じでなんとなく橋本かなって……。結構な期間会ってないのにすごいでしょ、俺の耳。なかなか声だけでは気が付かないと思うんだよね、どう思う?』
この流れていくような会話の感覚は、かつての黒田さんそのものだ。向かい風を受けているかのように圧倒される。そして僕は時間を遡るような錯覚を起こした。
『本当に気付いてもらえて良かったですよ。とても久しぶりなのに、いきなりの電話連絡ですみません。今時間大丈夫ですか?』
『うん、大丈夫大丈夫。どうしたの?』
『あの……実は……』
僕は黒田さんに、今分かっている範囲の事を出来るだけ正確に語った。僕の憶測をなるべく除いて語ると、『サキがいなくなった』という出来事は、実に喜劇的な拍子を持つように聞こえた。
『なるほどねぇ……。それで残されたメッセージをもとに京都に帰ってきた訳だ』
『はい……だから明日は北野天満宮へ行こうと思っているんです』
大学生の時、サキと初めて出会ったのは北野天満宮だった。その話は黒田さんも知っている。
『懐かしいな、北野天満宮での馴れ初め。あれからもう5年近く経つんだなぁ』
黒田さんは少し笑顔になっているのだろうか?どこか柔らかい印象の声で続けた。
『あの時の橋本の舞い上がりようったら、まるで中学生の初恋のようだったからね』
『実際ほとんど初恋のようなものですよ。女性と付き合った事なんか、それまでなかったんですから……』
僕はなぜかこの時、嘘をついた。
高校二年生の夏から秋にかけて、約半年ほど付き合った女の子がいたのだ。きっと可愛らしい彼女だったはずなのに、名前を忘れてしまった。そして顔も曖昧だ。だるま落としのように誰かが、僕の高校二年生の記憶だけを突き飛ばしてしまったように、頭の中には少しずれた違和感だけが残っていた。
僕はある過去を忘れようとしているのかもしれない…………。しかし、今となってはもうどうでもいいことなのだ。
『橋本はモテそうなのにな』
『いやいや、僕は平凡な男ですよ』
そう、なんの特徴もない普通の男……。
さっきのでまかせは一体僕にとって何だったのだろう?少し考えてみたが、結局何のための嘘なのか分からないまま、僕は柱から離れてゆっくりと歩き出し、そろそろ本題を切り出そうと思った。
『あの……まだ晩ごはんを食べてなかったらこれから一緒にどうですか?』
『そうだな、俺もそろそろ食べようかと思ってたところだし。それに、色々話も聞きたいし……』
そこで黒田さんは、少しだけ息を整えるように間をおいた。
『……なんだろうな、橋本の話もそうだけど、声そのものを直接聞きたいような気がするよ』
僕は少し照れるように笑ってしまった。
『ありがとうございます、場所は……』
『四条烏丸で』
やはり黒田さんは変わらない。
僕はそれを見越して、数秒前に四条行きの切符を買っていた。
○
四条に着くと、かつて黒田さんと二人で飲みに出かけた日々を思い出した。ロッククライマーのように器用に食道を這い上がってくる胃液と酒を、効き目がはっきりしない胃薬で封じ込めていたあの頃。少し酔いが覚めた後、よく分からない味のしないラーメンを延々と咀嚼し続けていたあの頃。色々な思いが心の中で渦巻く。
そして、それらと一緒になって僕の頭に現れるのはサキとの日々だった……。
『おう、お待たせ』
細身のジーンズに、キャラクターのロゴが入った白のTシャツ姿で、カバンも持たずに現れた黒田さんは大学生の頃となんら変わらない印象だったが、トレードマークであったあご髭が綺麗さっぱり無くなってしまったことが唯一の違いだった。
『お久しぶりです、突然ご連絡する形になってすみません』
『いやいや、なんか俺を呼んでもらえて嬉しかったよ。それに込み入った事情がある訳なんだから……』
黒田さんがふと、短い髪の毛越しに頭を掻いて僕の左手を見た。
『結婚は……してないんだな』
『してませんよ。もししていたら黒田さんに伝えますよ』
『それもそうか』
改札から少し階段を上がったところでは多くの人が四方八方へ向かって歩いていた。そしてむっとするような熱気が東の通路から流れ込んでいるような気がした。彼はジーンズのポケットから扇子を取り出して、暑い暑いと言っては必死に顔を煽いだ。
『とりあえず、いつも行ってた店に行くか』
僕はすっと頷いて、二人並んだまま西側の出口から地下を出た。
○
『いらっしゃい、何名様ですか?』
『二名です』
黒田さんの言葉の後、少し沈黙があった。カウンター奥の調理場から顔を出した中年男の店長が僕達の顔を交互にじっくりと見ていたが、やがて目を丸くして高い声を上げた。
『あぁ!懐かしい顔やな。どうしたんや?こんな久しぶりに来て』
『お久しぶりです。でも俺達二人も会うのが久しぶりなんですよ、店長。急に橋本から連絡があって……』
そう言いながら黒田さんは僕達のいつもの席へと進んでいき、『ここでいいですね?』とあたかもそこにしか選択肢がないかのような言い方で聞いた。
『そういや二人はずっとそこに座っとったなぁ。今では大学生はあんまり来なくてね』
店長は冷たい水をグラスに注ぎながらぼやいた。
店内を見渡すと、日曜の夜ということもあって満席とまではいかないが、それなりに席は埋まっていた。しかし、若者の姿は確かに少ない。
『……でも当時も君らぐらいやったかな。こんな辛気臭いところで、しんみりとしてる子らは』
小さな豆電球のようにパッと笑顔をこぼした店長が、軽い音を立ててグラスを席に置いた。
そういえばこの店長。
名前はなんだったっけ?そもそも聞いたことあっただろうか?
そんな失礼な事を思いながら、僕は乾いた喉を水で一気に潤わせた。
おばんざいや魚料理を中心とした創作料理が並ぶメニューを二人でめくりながら、僕は少し感傷に浸るような心地で椅子に深くもたれた。
『店長、とりあえずビールを』
僕も黒田さんに続いて同じビールを注文して落ち着いた。
ふぅと一息。そして、そっと姿勢を直して『彼女がいなくなった』という話を始めようかと思った。
しかしその時……。僕はとある一人の女性に視線がとまった。
その女性はL字型のテーブルカウンターの端に座っていて、こちらからは顔を詳しく見ることができない位置にいたのだが、少し顔をかがめた瞬間に見えた姿は、大学時代の懐かしい面影を纏っていた。
西島さん……。
大学のゼミが同じで、よくご飯へ行ったり遊んだりと仲良くしていた彼女。かつての天真爛漫な感じで無邪気だった印象は消えて、見た目はすっかり大人の女性になっている。それでも、その表面にはうっすらと西島さんの溌剌さが滲んでいた。
まだ彼女は僕の方に気がついておらず、話しかけようかどうか迷っていた。正直僕は彼女に対して複雑な心情を抱えている。
『うん……?どうかした?』
黒田さんが僕の放心したような表情を心配して聞いた。
『いえ、なんでもないですよ……』
そうして僕は彼女の姿があまり見えない事をいいことに、できればこのまま知らないふりを続けようと思った。
なぜか……?
それはかつて、西島さんと僕が体の関係をもっていたからである。
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