第2話




 今までに知り合った女性の中でも、サキは少し変わっていたように思う。


 もちろん、『僕の前では』という前置きが必要かも知れないが、彼女は何かと僕を困らせる事が好きだった。


 例えば、一緒に買い物に出かけた時。僕が目を離している隙にどこかへいなくなる事がよくあった。当のサキはというと、背伸びをしながら彼女の事を探している僕の慌てた姿を、少し離れたところからニヤニヤと笑って楽しんで、ようやく僕と目が合うと不思議な事でも起きたかのように目を丸くして首を傾げるのだ。


 他にもまだまだある。あれは……サキと僕が小さなアパートで一緒に暮らし始めてすぐの頃だったか……。


 たいして特徴もない簡素な僕の似顔絵を二十枚、それも角度や表情が全て異なった二十枚を朝一番に壁に貼り付けて、起き抜けの僕の反応を楽しんだりもした。どういう反応をすれば良いのか分からず立ち止まったままの僕を、彼女は実験結果を待つ研究者のような不穏な目つきでじっと眺めていた。


 極め付けは、僕の車を勝手に借りて、なんの予告もなく二、三日のドライブに出かけた挙句、どこかでカーチェイスでもしてきたのかと疑るほどボンネットがボコボコの状態で帰ってきた事だ。


『ごめんなさい……』


 さすがにこればかりは常軌を逸していると自省したのか、祭りの後の静けさのような態度をもって、しばらく僕をからかうことはなくなり、最低限の修理費用は彼女自身が工面した。


 どうして車がそんな状態になったのか、僕は気にはなりつつも、決して聞くべきではないという直感のもと、真相は曖昧なまま今に至っている。


 さて、ここまで僕が述べた事を振り返ってみると、サキの愚行や卑劣さを暴露する事で、まるでとある被害者がどこかに訴訟するために証拠を集めているように映る。


 だが、それは僕の意図とは全く異なる。


 もちろん彼女の僕に対するからかいが、度を超えている事は重々承知の上だが、僕は彼女について不満を抱いた事はあまりない。


 特に怒りを感じた事もなかったし、彼女の奇行も慣れれば、それもまた愛嬌のように思えた。


 僕はつまり、サキを中心として、自分の生活を位置付けていた。太陽の周りをまわる地球が、日の光なくしては存続できないように、僕は彼女が側にいる事を求めて、そのささやかな恩恵に預かっていたのだ。


 そんな僕は日曜日の午後に、たった一つの太陽を失った。


          ○


“私達の思い出。その出発点から”


 紙に書かれた文字を指でなぞって、コップを流しに置いた。


“さようなら、心配しないでください。これは私の意思です”


 そう書かれた紙の裏側。そこに記された文字は表側とは別の感情がうかがえ、完成していない文章は妙な余韻を残している。二面性を持ったこの手紙。『私についてきて』とでも言うかのように、僕の心を引っ張っていた。


 思い出の出発点……。


 サキと僕の共有した時間は約五年。

 その時間の始まりは……。


『京都か……』


 そう呟いた僕は、無意識のうちに鞄に着替えと財布を詰め込み、翌日以降の仕事を調整して何とか二日の休みをとった。実に融通の利く会社である事を感謝した。


 サキの動機不明な失踪、そして意味深な置き手紙。数時間前までこの部屋にいた彼女が仕掛けたプログラムは、滞りなく進行しているのかもしれない。


 再び僕は彼女の見えざる力に吸い込まれていく…………。


          ○


 混雑した東京駅の改札を抜けて、新大阪駅行きの新幹線に乗った。車内では様々な喋り声が入り混じり、その半数以上は子供達の笑い声で、微笑ましい家族連れが目立っていた。


 僕の斜め前、弁当を食べながら笑う子供の姿を見て、ふと二年前の事を思い出した。サキと僕が東京へ移る新幹線での出来事だ。


『子供って無邪気でいいね』


 サキが無表情のまま、ぽつりと呟いた。


 その時も同じように僕達の前方で五、六歳の男の子が笑顔で母親に喋りかけていた。


『僕らにも、あんな頃があったんだよな』


『でも、もう大人になっちゃった』


 彼女は何か胸に抱え込んでいるものを暗に示しているような話し方をした。


『私達はこれからどこへ行くんだろう?』


『……東京だよ』


 僕は見当違いと分かっていながら、それしか答えがないような素振りで言ってみた。


『もう……』と彼女はぶっきらぼうに返事をした。そして甘えるように僕の手の上に小さな掌を乗せて、目を閉じた。


 やがてサキは僕の肩に顔を乗せたまま眠ってしまった。僕は彼女の心細い温もりを感じながら、彼女が“どこへ行くんだろう”と言った時の主語が“私達”だったことに揺るぎない誇りのようなものを感じていた。


 最終的にどこへ向かうにしても、僕達は共に歩んでいくのだ。そう心の中で反芻した。


 そして彼女が僕を必要としてくれているという実感が芽生えて、これから向かう新たな土地への不安が少しずつ払拭されていったのを覚えている。


 それでも僕達はどこかで何かがずれてしまったのかもしれない。それは歩幅かもしれないし、そもそもの方向が違ったのかもしれない。


 小さな歪み。それが見えないまま、僕達の中で育ち続けていたとして、僕はそんな事にはこれっぽっちも気付く質ではなく、その役割はサキの方が断然しっくりとくる。


 彼女が僕に対して、ずっと何か思うところがあったなら、この不可解な行方不明は必然的に起きたものかもしれない。


 その真相を知りたいと思った。

 想像力を欠いた僕の頭では、到底辿り着くことができない答えだ。そこに向かうには、彼女が仕掛けたヒントを辿るしかない。


“一度連絡をください”


 念のため、サキにメッセージを送っておいた。これで返信が来たら、彼女の計画は頓挫したことになるのだろうが、僕のくだらない心配性のために、『もしかしたら』を期待して送信したのだ。


 ふぅ、と一呼吸置いてスマートフォンを鞄に入れた。


『京都に一体何があるんだろう?』


 新幹線の窓の外、金をまぶしたような夕暮れの街に向かって独り言を投げかけた……。


          ○


 そして僕はこの後、彼女に関して全くの無知である事を知った。


 今回の京都での出来事は僕にとって不思議な体験であった。思い出すと胸の奥を締め付けられる。


 ただ、彼女を取り巻く幾重にも重なったヴェールを、少しだけかいくぐったような気持ちがした。


 鼓動が早くなるのを抑えて、僕は京都で起こった事を語っていこうと思う……。

 

 

 

 



 

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