物語は日曜の午後から始まる

メンタル弱男

第1話 





 これは僕の彼女にまつわる物語だが、決して惚気ではないことをここに誓う。


 むしろ哀れな男の夢。そして深淵なる『彼女を中心とした世界』への冒険が待っている。


 どうか、僕を見守ってもらえればと思う。



          ○


『僕はまだまだ、彼女の事を知らない。そしてこの物語の結末も……』


 冒頭で大それた事を語ってしまった僕は、この物語を未来の僕自身に捧ぐ。


 どうか、無事でありますように。


          ○



『暑いな』


 ソファからゆっくりと起き上がって伸びをした。さっきまで閉めていたカーテンが中途半端に開けられている。どうしてだろう?


『サキ……?』


 弱々しく名前を呼んだみたが、僕の寝ぼけた声以外、音は何も聞こえなかった。


 頭は少し重たく、ぼうっとする。

 まるでどこか別の世界から自分だけが追い出され、そのまま置いてけぼりにされたような気分だった。


 サキはどこにいるんだろう?


 部屋をぐるりと見渡してみる。

 隠れる隙間のない小さなワンルームの中で、人の影はおろか生物の気配すらない。 


『あれ……?』


 住み慣れた部屋に、どこか違和感を感じる。パズルのピースを、どこか一つだけ取り違えてしまったような、僅かな歪さが僕の周りに漂っていた。


 この感覚は何だろう?

 何かがこちらを見ていて、僕が動き出すのをじっと待っているような気がする。


 それでも、何も分からなかった。


 とりあえず僕は一つ溜息をついて、考えるのをやめた。そして無意識に、半分開いた口から言葉が漏れた。


『サキはいなくなった……』


 これは直感だったが、事実でもあった。


 “この部屋から”というよりは、“今、僕のいるこの世界から”彼女が忽然と姿を消してしまったのかもしれない。


 僕は不思議なほど冷静に、そんな非現実的な事をしばらくの間、考えていた。


          ○


 これは、とある晴れた日曜の午後。


 肌にうっすらと残っているサキの温もりが、なんとなく僕を不安にさせた。この不確かな温もりだけが彼女のイメージを留めてくれているような気がしたのだ。


 ソファに座りながら、呆然と時間を過ごす。体が苔のように、じっとソファに張り付いていく。サキはここにはいない。そんな目の前の現実が、車窓からの景色のように過ぎ去っていく。そう感じる程、僕は全く動かなかった。


 それでも……やはり彼女は僕を導いた。


 彼女はこの部屋に、ある仕掛けをしていたのだ。


 僕を見てクスクス笑う、実に彼女らしい仕掛けと共に、僕はこの物語の入口に踏み込んでいく……。


          ○


 ローテーブルに置かれた、鉱石のように艶々と光る多肉植物に目が向いた。


 何か、おかしい。


 一人しかめっ面をしながら、部屋に漂う寂しさを紛らすように呟いた。何かがいつもと違う。


 そして僕はしばらくして気がついた。多肉植物の鉢がテーブル上の右側、いつもとは少し違う場所に置かれていたのだ。


 ゆっくりと顔を傾げながらもともと置いてあった場所について考えていたが、ようやく重い腰をゆっくりと上げ、少しだけ痺れた足に気をつけながら、そっと鉢に手を伸ばした。


 小さな植木鉢の下にある、真っ白な陶器の受け皿を持ち上げると、そこに白い紙片が挟まっていた。


 僕は一呼吸おいて腕組みをしてみたが、余計に頭の中は霞んでしまった。そして静かに速くなる胸の鼓動は、彼女が僕を急かしているのだと思えた。


“さようなら、心配しないでください。これは私の意思です”


 紙を広げると彼女の丸い文字が、細く頼りなく連なっている。


 はぁ……また一つ溜息が漏れた。

 夏の前の寂しげな日の光が、僕の目の先で鈍く輝いていた。


 僕はのっそりと台所の方へ向かい、置き手紙を手にしながらコップに水を注いで、一気に飲み干した。


 サキは嘘をついている。


 僕はそんな事を思いながら、少し表面がざらつくその手紙の裏側を見た。


 そしてこの物語が始まる。




 

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