第4話

『ごちそうさまでした!』


 俺謹製の生姜焼きがお気に召したのか、ルウさんは満足気な表情で帰って行った。『執事が近くまで迎えにきてくれているから大丈夫です』と言われてしまったので、俺は家まで送るという紳士的な提案を取り下げ、玄関先で彼女に別れを告げた。去り際、ルウさんは俺に向かって再度お辞儀をし、『これから一緒に暮らせる事がすごく楽しみです!よろしくお願いします、桜司さん!』と花のような笑顔を咲かせた。

 あまりの眩しい笑顔に失明しかけたが、気を落ち着けて家の中へ戻れば、暖色の電灯が足元を照らしてくれた。大きく息を吐いて肩の力を抜き、廊下をとぼとぼと歩いて居間へ戻る。

 いつもと変わらぬ畳敷きの居間。中央には幅広の長机が置いてあり、長机の短辺側の壁際にはテレビやら棚やらが並んでいる。その壁の反対側の壁には台所に繋がる通り口があり、かけられた暖簾のれんが台所の小窓から吹き抜ける風に揺れている。代わり映えのしない、十年近く過ごした場所だ。だが、今日は少しだけ見え方が違っていた。


「なんか……まだ実感が湧かないな」


 俺はボソリとこぼす。途端、脳裏につい先程の光景が浮かんだ。そこでは卓上に並んだ生姜焼きの皿に、俺とルウさんが手を伸ばしている。

 純日本家屋、和風平家の居間で、エメラルドの瞳を煌めかせるブラウンヘアの少女が、座布団の上で正座をし、美味しそうにしょうが焼きを食べている。その異様な光景がほんの数分前まで繰り広げられていたという純然たる事実を、俺はまだ受け入れられていなかった。畳にゴロンと寝転ぶ。


「これから、一緒に暮らすのかぁ……」


 明滅する天井照明に目を細めながら、ため息と共に吐き出す。脳ではまだ理解が追いついていなかったが、しかし身体は正直であった。いつになく、心臓が高鳴っている。これからの毎日に対する不安と高揚、そして可愛い女の子と一緒に暮らすという思春期男子が手放しで喜ぶようなイベントに対するドキドキが、胸の内でがんじがらめになっているのだ。これは早急にどうにかしないと、きっとどうかしてしまう。

 俺は勢いをつけて上体を起こし、机の上に置いてある携帯を手に取った。翻訳アプリを酷使したせいか、携帯はほのかに熱を帯びており、充電がすでに底をつきかけている。俺は急げ急げと念じながら、ある男に電話をかけた。


「あ、もしもし。今大丈夫か?—————」




 ―――翌朝。

 動きやすい・汚れてもいいの代名詞とも呼べるジャージに身を包んだ俺は、自室から出て居間に沿った廊下を通り、屋敷の東側奥へと向かった。屋敷の間取りをざっくりと分ければ、西側奥に俺の部屋、中央に居間、南側に玄関があり、そして東側の奥には空き部屋が眠っている。ルウさんには、この空き部屋の内の一室を使ってもらう予定だ。

 昨日のうちにルウさんにはどの部屋がいいか決めてもらった。住まわせて貰うのだからどこでもいいです、と謙虚な姿勢を見せられたが、俺としても本当にどこでも良かったので、思うままに感じるままに選んでくださいと伝えた。結果、ルウさんは遠慮がちに、広い庭を望む縁側沿いの部屋を選択した。今日はその部屋に、彼女の荷物を運びこむ予定となっている。

 現在時刻は午前七時三十分。ルウさんが荷物と共に我が家にやってくるのは午前九時の予定なので、まだ一時間半も猶予がある。この猶予というのはつまり、ルウさんが住む予定の部屋を掃除する時間があるということだ。今までも定期的に掃除機をかける程度のことはしてきたが、もう十年近くも使っていない部屋なので、細かいほこりが確実に溜まっている。加えて空き部屋だったこともあり、不要な物の置き場と化してしまっている。そのためルウさんの荷物を運び入れる前に、一度大々的に掃除をする必要があるのだ。

 とはいえ、部屋はそこそこ広くて物も多いので、一人でやるのはちとしんどい。ルウさんと一緒にやることも考えたが、女の子をほこりっぽい部屋に入れるのは忍びない。という訳で――――。


「朝っぱらから悪いな、伊夜彦いやひこ


 ルウさんの部屋(予定)の前の縁側までやってきた俺は、庭で屈伸運動をしているジャージ姿の男、幼馴染の雨山あめやま伊夜彦いやひこに声を掛けた。伊夜彦は膝を伸ばした姿勢のまま、視線だけをこちらに振り向ける。


「いいよ別に。ちょうど体を動かしたかったところだ」


 よく言えば幼馴染、悪く言えば悪友、よくも悪くも腐れ縁――雨山伊夜彦とは幼稚園の頃からの付き合いである。互いの家が近かったこともあるが、伊夜彦の家が普通と比べてであったので、俺は昔からよく遊びに行っていた。その甲斐あって伊夜彦の家の人達とも仲良くなり、高校生になった今でも家族ぐるみで付き合いがある。今まで俺がひとりで暮らせてきたのも、雨山家の助力によるところが大きい。


「近頃は、お前と一緒で運動不足気味でな。ここいらで、そろそろ生活習慣病まっしぐらルートを脱しにゃならん」


 そう言う割には妙に筋肉がついている伊夜彦は、白い歯を見せてニヤリと笑う。見てみれば、ボサボサ髪のところどころには寝癖がついている。


「寝起きか?」

「うんにゃ、髪を整えてないだけ。どうせこの後汗かいて風呂入るしな。お偉いさんとか女の子に会うなら別だけど、お前の同居人なら、まぁいいだろ」


 男ばっかなのにわざわざ整髪料使うのもおかしいし、と笑う伊夜彦に対し、俺は首を九十度に傾けた。当然脳裏に浮かべるのは、一時間半後にやってくる見目麗しい社長令嬢である。俺は首を傾げたまま問うた。


「あれ? 昨日の夜、電話で言わなかったか?」

「ん? 何が?」




 一時間後。

 風よりも速く整髪料を塗りたくって来た伊夜彦の頑張りもあって、部屋の掃除は塵ひとつ残すことなく完了した。ルウさんが来るまであと三十分、手持ち無沙汰になった俺達は縁側に並び座り、しばしの間休憩と相成った。

 緑茶をすする伊夜彦が、低い声で言ってくる。


「いやぁ……まさか海外から来た女の子と一緒に住むことになるとはなぁ。そんな漫画みたいなこと、ほんとにあるんだな」

「まぁ、お前の家と付き合いがある時点で、だいぶ漫画っぽいけどな」


 俺が肩をすくめつつ言うと、伊夜彦は怪訝な表情を浮かべた。


「俺の家との付き合いのどこが漫画っぽいんだよ。どこにでもある普通の家庭だぞ」


 とぼけたように言う伊夜彦に対し、俺は嘆息混じりに、ある一単語を強調して返した。


「言っとくけど、普通の家庭には含まれないからな」


 そう、伊夜彦の家はここ海上町を取り仕切る「雨山組」というやくざなのである。別段暴力集団だとか犯罪集団だとかいう話は聞かないが、組事務所も兼ねている伊夜彦の家には、それはそれは恐ろしい顔つきの男たちがわんさかといる。子供の頃は、遊びに行く度にちびっていたものだ。ふいに、伊夜彦が言う。


「そーいや、その同居人の彼女の荷物は結構あるのか? 家具とかまで持ってくるんだったら、うちの連中も手伝わせるけど」


 俺は、昨夜生姜焼きを食べながら交わしたルウさんとの会話を思い出す。


「いや、彼女曰く、持ってくるのは服とか小物だけらしい。日本に来て間もないからな、多分家具とかはあんま揃ってないんだろ」

「ほーん、じゃあ運び入れはすぐ終わりそうだな」

「ああ、よろしく頼むよ」


 そう言って、俺は緑茶をずずりと啜った。茶葉の香りが鼻腔を抜け、かすかな苦みが舌をほどよく刺激する。視界正面、庭の端に建てられた納屋を見つめながら、肺の奥深くより息を吐き出す。


 うーむ。我が家ながら殺風景な庭だなぁ……。


 それなりに広い庭には、端っこに納屋が一軒と松の木が一本あるのみで、それ以外にはまったくと言っていいほど何もない。

 ルウさんが住むことになったんだし、これを機に家庭菜園でも始めてみようか――なんてことを考えていると、その殺風景な庭に、突然一輪の花が咲いた。詩的表現を抜きにするなら、綺麗な人がひょっこりと現れたのである。ブラウンヘアの下にエメラルドの瞳を輝かせるその人は、縁側に並び座る俺と伊夜彦を見るやいなや、


「Good morning!」


 と、元気な声を響かせた。

 グッドモーニングと返すのはまだ気恥ずかしかったので、俺はヒラヒラと手を振るだけにとどめる。伊夜彦はというと、一瞬ルウさんの美人っぷりに驚いたものの、すぐさま大きな声で「Good morning」と返した。それを聴いて思い出す。


「そーいやお前、英語できるんだったか」

「日常会話レベルだけどな。まぁ、一緒に作業する程度なら特に問題ないだろ」

「それは助かるよ」


 正直なところ、作業中にいちいち翻訳機を使うのは面倒くさいと思っていた。伊夜彦が話せるのなら、通訳を任せてしまえばいい。無論、俺が話せるようになるのが一番いいのだが、それはまぁ、一年後の俺に乞うご期待だ。


 ルウさんがこちらに向かってきたので、俺と伊夜彦も湯飲みを置いて立ち上がった。ルウさんはぺこりと頭を下げつつ言う。


「Thank you for your time today. Ah, Nice to meet you there. I'm Rucherit Phil Olympia. And you are...?(今日はよろしくお願いします。あ、そちらの方は初めましてですね。私はルーシャリット・フィル・オリンピアです。あなたは……?)」


 案の定俺は全く分からなかったが、ちらりと見た伊夜彦はうんうんと頷いていた。続けざま、流暢な英語を返していく。

 一抹の疎外感を感じながら、しばらく二人の英会話に耳を傾けていると、突然ルウさんが俺たちに背を向けて門の方へと走り出した。俺は必然的に伊夜彦に問う。


「ルウさん、どうしたんだ?」

「ああ。もう荷物運んでいいかって聞いたら、少し量があるからここまで台車で運んで来るって」


 あぁ、それで今走って取りに行ったのか……。


「……やっぱ英語分かんないと不便だなぁ」

「これから彼女と暮らすとなると、余計にな。ま、お前地頭はいいんだから。がんばりゃ多少はできるようになんだろ」

「その『がんばりゃ』が俺にとってどれほど大変か……」


 肩からガクリと項垂れると、伊夜彦はケラケラと笑った。そうこうしているうちに、ルウさんが台車を押して戻ってくる。台車の上には段ボールが4つほど積まれていた。


「想像以上に少ないな、あれぐらいなら、お前の手伝いはいらなかったかもな」


 俺は軽く笑いながら、楽勝楽勝と肩を回した。

 だが、ルウさんは台車を俺たちの少し手前で止めた後、再び門の方へと走り出した。伊夜彦が首を傾げる。


「なんだ、まだあるのか?」


 伊夜彦の予想通り、数秒後、ルウさんは2台目の台車を押して戻ってきた。そこには1台目と同じように、4つほど段ボールが積まれている。俺は肩をすくめて言った。


「前言撤回。お前を呼んで正解だったみたいだ」

「ははっ、そうだな」


 俺たちは和やかに笑い合い、腕まくりをして一歩踏み出した。しかしその直後、俺たちは右足を前に出した姿勢のまま硬直し、目を丸くした。


 2台目の台車を置いたルウさんが、再び門の方へと走り出したのである。


「「……マジ?」」


 俺と伊夜彦は声を揃え、脳裏をよぎった嫌な予感に身を震わした。そしてあろうことか、その嫌な予感はものの見事に的中する。


 数分後、殺風景な中庭には、ルウさんによって運び込まれた10もの台車が整然と並んでいた。


 段ボール総数———まさかの38個。

 圧巻の一言である。


 目の前に広がっているコラ画像かのような光景に、俺と伊夜彦は口をあんぐりと開けた。かろうじて戻ってきた思考回路をもって、俺は伊夜彦に問いかける。


「……なぁ、伊夜彦」


 これからする事になるだろう英語の勉強。その第一歩として、俺はまずこの言葉を覚えようと思う。


「業者かよって、英語でなんて言うんだ?」


 


 



 


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