第3話

「今……フィル・オリンピアって……」


 眼を丸くする俺を少女、もといルーシャリット・フィル・オリンピアさんの視線が射抜く。相変わらず、妖精のように可愛らしい顔立ちで………


「……って、そうじゃなくて!」


 俺はぶんぶんと首を振り、思考を正常に戻した。


 ルーシャリット・フィル・オリンピア……? フィル・オリンピアって……本当に……?


 俺は恐る恐る携帯画面を見る。画面には、先程発せられた日本語の文章が表示されていた。俺はそれを食い入るようにじっと見つめる。


「……うん、やっぱあってるよな」


 間違いなく、「私の名前はルーシャリット・フィル・オリンピアです」と表示されている。俺は携帯に注いだ視線を、そのまま目の前の少女に振り向けた。俺の眼に、ブラウンのショートヘア、エメラルドの瞳、細長い手足、わずかに隆起した胸が映り込む。その美麗な姿はどう考えても、


 ……どう考えても、息子じゃないよな。


 近頃、女性のような見た目をした男性も多いらしいし、外国人ならより女性らしく見える可能性は十分にあるが、それにしたって、目の前で佇む美少女が男だとは到底思えない。


 …………。

 ……聞いてみるしかないか。


「あの、すみません」


 言うと、ルーシャリットさんは小首を傾げ、頭上に?を浮かべた。翻訳機を通すのを忘れていた事に気づいた俺は、携帯を口元にかざし、改めて話しかける。


「ひとつ聞いてもいいですか?」

『はい、なんでしょう』

「失礼ですが、あなたのお父さんの名前を教えてください」

『父の……ですか?』


 ルーシャリットさんがそう聞き返した時、俺は一抹のを抱いた。なぜならば、もし彼女の名前がフィル・オリンピアであることが単なる偶然で、例の社長さんと何の関係もなかった場合、ルーシャリットさんは初対面の男から何の前触れもなく父親の名前を聞かれたことになるのだ。ともすれば、初対面の人間に対して、趣味やら何やらの前に父親の名前を聞き出そうとするおかしな奴と思われかねない。

 俺は背中に冷や汗を滲ませた。だが、それは彼女の答えをもって無事杞憂とあいなった。ルーシャリットさんは一拍置くと、笑みを浮かべてこう言った。


『父の名前は、デイビッド・フィル・オリンピアです。桜司さんのご両親とは旧知の仲だと聞いています。』


 へー、最近の翻訳機は旧知の仲だなんて難しげな日本語にも訳せるんだなー………って、はい?


 技術の進歩に感心していた俺だったが、耳に届いた、ついさっき聞いたばかりの名前に両の眼を見開いた。


 デイビッド・フィル・オリンピア———間違いない、電話で母さんが言ってた社長さんの名前だ。単なる偶然で父親の名前まで一致するなんてのは流石に考えにくい。加えて、両親とも旧知の仲であるのならばもはや確定的である。やはりこの人が……。


 そう考えた俺だったが、しかし、たどり着いたその結論に相反するある一点だけが、俺を思考の渦へといざなった。


 息子……息子かぁ〜……。


 そう、懸念点は先ほどの電話における「今日から、私とパパの友人のがそっちに住むことになったから、ちゃんと迎えてあげてねー」という母さんの台詞だ。

 母さんの聞き間違い・言い間違いならそれに越したことはないのだが、昨今のジェンダーの傾向からいって、万が一ということもある。心は男の子であるとか、性転換を果たしたとか、女装をしているとか等は充分にある話だ。さらには翻訳機の翻訳が正しいならば、目の前に佇む少女はイギリス人だ。となれば、日本と海外ではそもそもジェンダーに対する考え方が違うという可能性を考慮する必要もある。もし下手な事を、それこそ「息子って聞いてたのに女の子じゃーん!」とかぬかした暁には、世界中の軍隊を纏めて吹き飛ばす程の超巨大地雷を踏み抜くことになりかねない—————。


 と、俺が邪推に邪推を重ねて頭を抱えていると、突然手に持った携帯が聞き慣れた機械音を鳴らして震え始めた。先ほども聞いた母さんからの電話の着信音である。これ幸い!母さんに直接聞こう!と俺はすぐさま電話に出た。そして、


『ごめんごめん、さっき息子って言ったけどあれ娘の間違いだったわ。アンタなら大丈夫だと思うけど、変なことしちゃダメよ。じゃ』


 飄々と言い切るや否や、電話はプツリと切れた。


 ————。

 ————。

 ———————はい。

 

 という訳で懸念点が解消された俺はルーシャリットさんに向き直り、今一度翻訳機を通して話しかけた。


「えっと……両親から事情は聞いていますんで、とりあえず、一旦家に入りましょうか。部屋は適当に決めてもらって、それから荷物を……」


 と、そこまで言いかけたところで俺ははたと気づいた。ようよう見れば、ルーシャリットさんは肩掛けの小さなポシェットしか持っていなかったのだ。キャリーケースはおろか、リュックサックの一つも持っていない。


「あっ、そうか。今日は挨拶をしに来たんだったか。えと……ルーシャリットさん、荷物とかはいつこっちへ?」

『荷物の運び込みは、桜司さんの予定に合わせるつもりです。引っ越し業者には頼んでいませんので、ご都合がよければ明日にでも』


 翻訳機での会話に慣れてきたのか、ルーシャリットさんは一切滞ることなく答えた。そのあまりの自然さについ聞き流しそうになったが、俺は彼女の発言のある一点に小首を傾げる。


「ん?引っ越し業者に頼んでないってことは、誰か手伝ってくれる人がいるんですか?こっちにお知り合いでも?」


 そう問うてから気づいたが、そもそもこっちに知り合いがいるのならその人の家に住めばいい話だ。それなのに男一人暮らしの我が家に来たってことは、日本にはほとんど縁がないのだろう。

 家の中への運び込みは無論俺も手伝うけど、この家までの荷物の運搬はできないしなぁ……等と考えていると、ルーシャリットさんは眩しい笑顔を湛え、こともなげに言った。


『はい、執事が車を出してくれますので』


 …………。

 …………。

 ……執事って、本当にいるんだな。


 半ば絶句しながら、俺は眼前の美少女が俺のような下々の人間とは本来交わることの無い人物であるということを改めて実感した。俺はこれから、この人と一緒に生活する事になるのだ。

 急激に高まった緊張感から脱するために、やっぱ執事って髭白いのかなぁ……と益体のない事を考えていると、突然ルーシャリットさんは両手の人差し指をつんつんと突き合わせ、もじもじとし出した。


「ん?どうしたんです?」


 聴くと、ルーシャリットさんは瞳をキョロキョロと動かし、ややあって俺を真円の翠眼すいがんで見据えた。


『実はですね……執事が荷物を持ってきてはくれるんですが、彼はとても忙しい人で。運び込みが完了次第、すぐに父の元へと行かなければならないみたいなんです。なので、その……』


 言いづらいのか、ルーシャリットさんは口をつぐんだ。彼女の言葉の先をおおむね理解した俺は、まぁ無理もないかと納得する。俺だって、初対面の人に対してこういう事を言うのは躊躇うに決まっている。故に俺は、先回りして答えた。


「家の中への運び込みはもちろん手伝いますよ。荷物が多ければ、近くに住んでる友人も駆り出します。これから一緒に住むんですから、どうか気を遣わないで何でも言ってください」


 俺は自分史上、最も穏やかな笑顔を浮かべた。

 ルーシャリットさんからすれば、縁もゆかりもない国で知らない男と住む事になるのだ。だからまずは、安心させる事が最優先だろう。

 携帯から、俺の発言を翻訳した英語音声が流れ出す。どの英単語がどの日本語を表しているのかは全く分からないが、文の区切りぐらいは聴き取れた。そして同時に、その文の区切りごとにルーシャリットさんの表情が変わっていくのが見て取れる。最初は驚きの表情、続いて少し申し訳なさそうな表情、そして最後は——。


『本当に……ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、これからよろしくお願いします』


 感激と喜びに満ちた表情を浮かべながら、ルーシャリットさんは深々とお辞儀をした。その所作もまた、童話の世界のお姫様を思わせる程に、美しいものであった。

 

 正面に立つ彼女の右横を抜け、玄関へと向かう。ズボンのポケットから鍵を出そうとしたところで、右腕にかけていたビニール袋が揺れた。そこで俺はふと思い立ち、180度回転してルーシャリットさんに向き直る。携帯を口元に構えて、


「ルーシャリットさん、よかったら晩飯食べて行きませんか?俺の料理が口に合うかも知っておきたいんで」


 言うと、ルーシャリットさんはニコリと笑い、


『では、お言葉に甘えさせて頂きます。あと、ルーシャリットは長いので、これからはルウと呼んでくださいね』


 と、一般高校男児にはややハードルの高い提案をしてきた。俺は右頬をポリポリと掻きながら、


「ど、努力します……」


 苦笑しつつそう答えると、ルーシャリット——もといルウさんは、『はい!』と可憐な笑みを浮かべた。俺はほっと一息つき、再び玄関に向き直る。


(とりあえず、豚肉は今日で使い切れそうだ。)


 そんな事を考えながら、俺は玄関を引き開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る