第2話
沈黙が流れた。気まずい方のだ。
ニコニコとする美少女は、背筋を伸ばして立っている。どうやら俺の返事を待っているようだ。
とうの俺はというと眉根を揉み、彼女の言葉を全身全霊を以って理解しようと躍起になっていた。
……とりあえず、My name isとは聴こえたから、自己紹介をしたのだろう。そんでもって俺の名前も聞こえたから、多分「あなたが水谷桜司ですよね」と言った感じ。……あとはtoday。
結果、俺の翻訳では「私の名前は、あなたが水谷桜司ですよね、今日」という九十年代の機械翻訳も真っ青の怪文書ができあがった。これをもってしてどう返答すればいいのか見当もつかない。
……………。
「い、Yes……My name is Oushi Mizutani」
少し考えて、俺は名を名乗ることにした。こればっかりは小・中で幾度となく繰り返してきたので、流石に慣れたものだった。I'm fine thank you. And you? を言うのはなんとなく躊躇った。多分、まだ気恥ずかしさが残っているんだと思う。
とにかく、結果として、麗しの少女に俺の英語は伝わったようだった。彼女は「やはり、あなたが桜司なんですね!」と言っているかのように瞳を輝かせ、喜色満面の笑みを浮かべている。その表情のまま、嬉々として何かを言っているようだが、悲しきかな解読は叶わなかった。
(うーむ、どうしたもんか……)
俺はおとがいに手を添え、俯きがちに唸った。すると、ふいにポケットの携帯が鳴り響いた。アップテンポの着信音は、母さんからの電話だ。チラリと少女を見る。すると少女は口を閉ざし、親指と小指だけを立てた手を耳元で振る、世に言う電話のハンドサインをしていた。どうやら電話に出てもよさそうな雰囲気である。俺は軽く会釈をし、携帯を耳にあてがった。
「もしもし、母さん?」
「ええ、今大丈夫?」
再び少女を見る。少女はぼんやりと空を見上げていた。
「大丈夫だよ」
「そう。今は家?」
「家……というか、まぁ、敷地内にはいるよ」
「ふーん、学校帰り?」
「んー、そんなとこ」
「学校はどう?」
「あー、普通だよ」
「普通ってどんな感じ?」
「えーと、まぁ、いい感じ」
俺は若干適当に答える。
毎度のことなのだが、母さんは要件に入るまでが長い。普段中々会えない息子の話を聞きたいのはよく分かるが、それにしたって、色々と聞きすぎなところがある。
以前、こんな事があった。
母さんから「最近はどう?」という近況を尋ねる電話があった。その際、学校の友人と遊びに行った事を伝えたのだが、それに対し母さんは、
「へー、なんて名前の子?」
と聞いてきたのだ。
高校でできた友達だから、母さんが知ってる訳がないし、それを言ったところで何かがある訳でもない。だから、
「いや、母さんの知らない友達だよ」
と紳士的に答えたのだが、即座に、
「知ってるかもしれないじゃない」
と言ってきた。
ゼロであることが確定している可能性を提示してくる母さんに、俺は首を九十度に傾けた。そして案の定、名前を言っても母さんはそいつを知らなかった。
とまぁこのように、要件に入るまで、ともすれば十分以上かかる母さんなのだが、
「そう、なら良かったわ。それでこっからが本題なんだけど」
「え?」
いつもとは違う即座の本題突入に、俺は素っ頓狂な声をこぼした。
「んー?大丈夫?」
「あ、あぁ……!うん、大丈夫大丈夫!」
「そ、じゃあ、えっとね———」
母さんは一拍置いてから、軽い口調で言った。
「今日から、私とパパの友人の息子さんがそっちに住むことになったから、ちゃんと迎えてあげてねー」
…………。
は、い? 今、なんて言った?
「あれ、聞こえてる?」
「いや、聞こえてはいるけど……どういうこと?」
「どういうこともなにも、そのままの意味よ。私たちの友人の息子さんがそっちの家に住むことになったから、ちゃんと迎えてあげてってこと」
いや、そっちが聞きたいんじゃなくて……!
「俺が聞きたいのは、なんでそんなエキセントリックなことになってるかってことだよ!なんで友人の息子さんが、うちに住むことになったんだ!?」
「あー、そっちね。じゃあ手短に……」
そう言って、母さんが語った内容はこうだった。
父さんと母さんの友人に、貿易会社を営む社長さんがいるという。その社長さんが日本で新事業を展開するため、家族と共に日本に移り住んだらしいのだが、仕事の関係で、結局海外に行かなければならなくなったらしい。
奥さんは社長さんについて行くつもりでいたのだが、しかし、かねてより日本に行きたいと思っていた息子が、日本に残りたいと言い出したらしい。
子供を一人日本に残すわけにも行かず、しかし言っても聞かない息子に困り果てた社長さんが父さんと母さんに相談したところ、日本で一人暮らしをしている俺にお鉢が回ってきた、とのことだった。
「あー……なる、ほど」
「そうなのよ。急で悪いけど、頼むわね」
「あ、もう俺に拒否権はない感じなのね……」
「もう今日そっちに行くみたいだから、今更無理っていう訳にもいかないでしょ」
「あー……」
まぁ、確かに……。
そう言われてしまえば、少し弱い。海外からはるばるやって来て、本人の希望とはいえ、ひとり不慣れな日本に残ることになった子を、一体誰が拒否でき————。
「……ちょっと待って、海外って言った?」
俺は少し大きめの声で問うた。すると母さんはバカでも相手にするかのような声で、
「そうよ。あんたちゃんと話聞いてたの?」
「いや、聞いてはいたけど理解してなかったというか……どこの人?」
「イギリスよ。年もあんたと同じね」
へー、同い年なんだ。
って、そうじゃなくて。イギリス……思いっきり英語圏じゃないか!!
「ちょっ、ちょっと待ってよ! 俺、英語はからっきしだよ!?」
「あぁ、そーいやそうだったわね。ま、大丈夫でしょ。何とかなるわ」
「いや何とかならないって!!」
俺は絶叫する。当然だ。なにせつい先程、目の前の外人少女に対し、小学生レベルの英語しか発揮できなかったのだから。このままもし
俺がそう焦り散らすと、母さんは「あんた何言ってんの?」とでも言いたげな雰囲気を電話越しに滲ませながら、
「翻訳アプリ使えばいいじゃない」
と、至極冷静な口調で言った。
あー、確かに。
俺はポンと掌を打った。
つい先程は九十年代の機械翻訳も裸足で逃げ出すほどの怪文書を作り上げたが、今はもう二○二二年の折り返し、外国語翻訳なんて、携帯アプリひとつでお茶の子さいさいだ。
「その手があるのを忘れてたよ。うん、了解。とりあえず一度会ってみるよ」
「助かるわー。よろしくね」
「はいはい……っと、そうだった、息子さんの名前だけ教えといてよ」
「あー……ごめん、聞くの忘れてたわ」
「え〜〜……、じゃあ、せめて社長さんの名前をフルネームで教えて。そしたら息子かどうか分かるから」
「あぁ、おっけおっけ。名前はね、デイビッド・フィル・オリンピアよ」
告げられた名前を、俺は頭の中で反芻する。
デイビッド・フィル・オリンピア……デイビッド・フィル・オリンピア……外国の名前だから、多分フィル・オリンピアが一緒なんだよな。だから、息子さんの名前も、なんちゃら・フィル・オリンピアってなるってことか……。
「結構長い名前だね」
「こっちじゃ普通よ——っと、そろそろ仕事戻らなきゃ。じゃあ桜司、色々とよろしくね。何かあったら連絡ちょうだい」
「りょーかい。じゃね」
電話を切るや否や、俺はさっそく翻訳アプリをインストールした。普段ソシャゲやSNSなんてやらないもんだから、アプリをインストールするのは、携帯を買った時に入れた連絡アプリ以来である。
「彼女も……多分英語だよな」
俺は彼女を、真円の
そんな事を考えているうちに、インストールが完了する。俺はアプリを開き、翻訳設定を日本語→英語および英語→日本語に設定する。
「よし……これで……」
俺は携帯を口元に運び、しっかり翻訳されるよう、気持ちゆっくり目に、
「こんにちは、私は水谷桜司です。すみませんが、先程は聞き逃してしまったので、改めてあなたの名前とここに来た理由を教えてください」
そう言うと、画面上でローディングのアイコンが回転し始めた。その間に、俺は石畳を踏み鳴らして少女に近寄る。小首を傾げてこちらを見る少女に、俺は携帯を差し向けた。すると、携帯から英語の機械音声が流れ出す。
…………。
これ、ホントにあってるのかな……?
ノイズの交じる英語を耳にしながら、俺は妙な不安に駆られた。
いくら技術が進んでいるとはいえ、一言一句完璧に翻訳されるとは限らない。もしかしたら、とんでもない翻訳になっているかもしれない。酷い下ネタとかになってたらどうしよう。
しかし、それは杞憂であった。少女は音声をすべて聞き終えると笑顔を浮かべ、「OK」と言った。俺はそっと、安堵のため息をこぼす。少女は差し出された携帯に顔を寄せ、流暢な英語を話した。
「My name is Rucherit Phil Olympia. I came to give my greetings today. Nice to meet you」
ややあって、携帯から翻訳された日本語の機械音声が流れ出す。
『私の名前は、ルーシャリット・フィル・オリンピアです。今日は挨拶をしに来ました。会えて嬉しいです』
おー、けっこう綺麗に翻訳されるもんだな。やっぱり技術の進歩ってのは大したもん————、
……って、今、名前なんて言った———?
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