水谷くんは巻きこまれ

@shimarin

第1話

         プロローグ


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息を切らし、坂道を登っていく。

 

「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」


 運動不足の痩身が悲鳴をあげている。硬いコンクリートを踏み締める度に、「日常的な運動が大切です」という体育教師の言葉の大切さを痛感する。


「重い……んで、地味に遠い……」


 誰に届ける訳でもない愚痴を閑静な住宅街に響かせながら、額に汗を滲ませ足を踏み出す。腕にかかる重みに歯を食いしばり、長い帰路に涙を流す我が足をねぎらう。


「あと少し……あともう少しだ……」


 あともう少しで、いとしの我が家に辿り着く。

 そう胸に期待を抱いた瞬間、坂の下から突風が吹き上がった。両手にぶら下がる重みが、風に煽られて揺り動く。


「あー、揺らすな!マジで腕しんどいから——!」


 俺はひとり、悲痛の叫びをこだまさせる。

 その両の手には、法律スレスレまで物が詰め込まれ、今にもはち切れんとするビニール袋が握られていた———。



           第1話          


 ここ雲雀ひばり市の人口はおよそ十万人と聞いたことがある。神奈川県横浜市の四百万人近い人口に比べたら微々たるものかもしれないが、そもそも比較対象が大きすぎるので、十万という数が多いのか少ないのかは、結局のところよく分からない。

 

 雲雀ひばり市は全国的な知名度こそ低いものの、山々や海に囲まれた自然豊かな地方都市である。北側には三千メートル級の山々が控える鶉山うずらやま連峰が連なり、そこから流れ出でて海まで繋がるうぐいす川が、雲雀市を東西に二分している。西側には都心部が広がっており、いくつもの高層ビルが屹立しているが、その一方で、東側には海上町うながみちょうという平々凡々とした町がある。

 

 その海上町うながみちょうの一角、北東寄りにある住宅街を、数多の店々が立ち並ぶ『うながみ商店街』が貫く。歴史の深いこの商店街には、八百屋に魚屋、肉屋に花屋などのテンプレートな店だけでなく、呉服店や手芸店、喫茶店にゲームセンターなどといった、小さな町の商店街にしてはバラエティ豊かなラインナップが揃っている。

 とはいえ、近所にはそれなりに大きなスーパーがあり、言ってしまえば買い物に関してはそちらの方が品揃えは豊富だ。それでもこの商店街が廃れることなく残っている理由は、ここを営む人々に起因する。


「親父さん。この豚肉二切れください」

「おぉ、桜司おうしくんか!今日はいいのが入ってるよ!」


 活気あふれる声をあげたのは恰幅のいい肉屋の店主だ。もうかれこれ十年はこの商店街にお世話になっているので、水谷桜司みずたにおうしという俺の名前も覚えてくれている。

 店主は大小様々な肉が所狭しと並べられたショーケースを開き、慣れた手つきで豚肉を一、二——三、四切れ取り出した。


「あれ、親父さん、二切れだよ?」


 小首を傾げる俺を尻目に、店主は四切れの豚肉を鼻歌交じりで袋に詰めていく。袋のあけ口を自前のシールで留めると、ぐいっと腕を伸ばして渡してくる。


「サービスだよ!こないだ店の掃除手伝って貰ったからな!」


 店主はニカッと歯を見せて笑う。こないだというのはちょうど一週間前、店主の奥さんが古い友人と泊まり込みで旅行に行った時だ。普段奥さんが店の掃除をやっているため、店主一人ではろくに掃除もままならなかった。そこで、一人暮らしが長い俺にお鉢が回って来たのである。


「……そういうことなら、ありがたく頂きます」


 大したことをしていないため忍びないが、せっかくの厚意を受け取らないのも、これまた忍びない。肩をすくめつつ袋を受け取ると、おうよ!という快活な声が耳朶に響いた。


 肉屋を後にし、俺は魚屋、花屋、手芸店の順に回った。

 魚屋ではアジを二尾買ったのだが、先日店番をしてくれたからということで、おまけでメザシを二尾貰った。

 花屋では居間に置けるような手ごろな花を見繕ってもらったが、先週子どものお守りをしてくれたからということで、栄養剤をダースで貰った。

 手芸店では切らしてしまった縫い糸を頂いたが、手芸教室の助っ人をやってくれたからということで、そのお礼として毛糸を二玉貰った。


「お、重い……」


 当初の想定を大幅に上回る荷物を両手に抱えながら、俺はのろのろと帰路に就いた。今にも破れそうな袋に冷や汗を流しつつ、家を目指して川沿いをひた歩く。


 我が家はうぐいす川を上流に遡った高台にあるため、海上町の住宅街からはちょっとばかし離れている。とはいえ、うながみ商店街から数十キロという訳ではない。

 しかし、いかんせん緩やかな上り坂が続くため、運動不足の学生にとってはかなり応えるものがある。


 川沿いをさらに北に進めば、この町唯一の神社である海上神社が見えてくる。地方の町の神社にしては中々に立派だが、山の中腹にあるので、辿り着くには長い長い階段を昇らなければならない。

 そのため、商店街付近から海上神社に行くには、川沿いの緩やかだが長い坂を上った後で、急な階段を昇る必要があるという訳だ。

 今日はそんな試練を乗り越える気概も体力もないため、俺は続く坂道の途中——すなわち我が家の前で足を止める。


 武家屋敷——と言うにはいささかお粗末かもしれないが、それでもここいらじゃ俺の家は比較的大きい方だ。海外で働く両親の「帰って来た時くらいは純日本家屋でゆったりしたい」という強い要望を受けてこの和風平家は建てられたらしいが、一人暮らしをするには流石にちょっと広すぎた。

 

 堂々たる正門の前で荒れた息を整え、やはり運動をしなければ!と決意を新たにする。戸を押し開けるために右手を伸ばすと、右腕にかけられた肉入りのビニール袋が視界に入り、俺は少し思案する。

 俺には、普段料理をする上で心掛けていることがある。それは「同じ食材を使った料理は週二回まで」ということだ。これは昔、料理の腕を向上させるために立てた掟だが、上達した今もその習慣は続いている。

 そして今週はすでに一回肉料理を作っており、今日二回目を作るつもりだった。そのために豚肉を二切れ買おうとしたのだが、親父さんのご厚意により豚肉が四切れとなってしまった。流石に四切れ全部は今日使いきれないので、使わなかった分は冷凍しておくしかないが……買った(貰った)食材はなるべく早く使いたいという変なこだわりが俺にはある。


「うーむ、どうしたものか……」


 俺は魚を入れた袋を持つ左手を自分のおとがいに置き、しばし目を伏せた。数分たった後、川下から吹き上がってきた風を受けて、その長尺の思考にケリをつける。

 

 ……とりあえず、後で考えよう。


 渦巻いた思考を隅に追いやり、今度は両手を戸に添えた。やや力を込めて押すと、ぎぃ~と木製扉特有の音を奏でながら、扉はゆっくりと開いていく。全開きの八割程度まで開いたところで荷物を持ち直し、空いた隙間をするりと抜けて邸内に入る。


 開けた時とは違い、パタリと静かに扉が閉まった。ここから先は三メートル程の石畳を挟んで玄関がある。俺は荷物を無理やり引っ張りあげるようにして、視線を玄関へと振り向けた。

 はたしてそこには精緻に並べられた石畳が、やはり三メートル程伸びている。そして正面にはこれまた大層な造りの玄関がある。毎日のように見る、見慣れた我が家の玄関だった。


 ふいに照りつけた太陽に目がくらみ、一瞬視界が白くなる。徐々に正常な視界を取り戻し、やがて眼前の光景が瞳に映る。見えるのは、我ながら呆れるほどの純日本家屋の古びた玄関、所々がひび割れた規則正しい石畳——そして、静かに佇む一人の少女だった。


 誰だ? 灯莉ともりか?


 兼ねてよりの友人の名を想起するが、しかしその推測は、屹立する人物の風貌でかくも容易く否定された。


 吹きすさぶ風になびく煌びやかなブラウンのショートヘア。なだらかな撫で肩から伸びるしなやかな腕に、折れそうな程に細い脚という均整のとれたプロポーション。こう言っては失礼だが、どう考えても灯莉……俺のよく知る人物ではなかった。というか、全くもって知らない人物だった。


「あ、あの……」


 人見知りはしない方だが、それでも声をかけるのは躊躇った。別嬪べっぴんさんに臆したという訳ではない。初見では気が付かなかったが、ブラウンヘアの奥に垣間見えた緑の瞳は、紛うことなき外国のそれであったのだ。そして、俺は両親と違い外国語、ひいては英語が大の苦手だ。俺の訥々とつとつとした呼びかけが聴こえたのか、少女は軽やかに振り向いた。

 はたして少女は目を疑うほどに美しく、和風平家の前で一輪の花のように立つその姿は、まさに異国の地に舞い降りた妖精そのものだった。眼を丸くする俺に気づいたのか、少女はその柔和な口元に微笑みをたたえる。俺は少し、勇気を出してみることにした。


「h、Hello.....」


 そう口にした途端、両頬に熱が宿るのを感じた。無理もない。生まれて初めて外国の人に対して英語を使ったのだ。純日本人なら「Hello」と「I'm fine thank you. And you?」は使えてしかるべきだが、教科書を音読するのと実際に使うのでは訳が違う。今はひとまず、通じるのを願うばかりだ。 



 ———結果として、俺の渾身のHelloは通じた。少女は微笑を浮かべたまま、ペコリと頭を下げる。生まれて初めて、外国の人に挨拶が通じた。通じたのだが……。おもむろに、少女が口を開く。


「Hello. My name is Rucherit Phil Olympia from England.You are Oushi Mizutani,aren't you? I came to give my greetings today.」


 少女の言葉は俺には通じなかった。

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