水谷くんは巻きこまれ
@shimarin
第1話
プロローグ
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らし、坂道を登っていく。
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
運動不足の痩身が悲鳴をあげている。硬いコンクリートを踏み締める度に、「日常的な運動が大切です」という体育教師の言葉の大切さを痛感する。
「重い……んで、地味に遠い……」
誰に届ける訳でもない愚痴を閑静な住宅街に響かせながら、額に汗を滲ませ足を踏み出す。腕にかかる重みに歯を食いしばり、長い帰路に涙を流す我が足をねぎらう。
「あと少し……あともう少しだ……」
あともう少しで、いとしの我が家に辿り着く。
そう胸に期待を抱いた瞬間、坂の下から突風が吹き上がった。両手にぶら下がる重みが、風に煽られて揺り動く。
「あー、揺らすな!マジで腕しんどいから——!」
俺はひとり、悲痛の叫びをこだまさせる。
その両の手には、法律スレスレまで物が詰め込まれ、今にもはち切れんとするビニール袋が握られていた———。
第1話
ここ
その
とはいえ、近所にはそれなりに大きなスーパーがあり、言ってしまえば買い物に関してはそちらの方が品揃えは豊富だ。それでもこの商店街が廃れることなく残っている理由は、ここを営む人々に起因する。
「親父さん。この豚肉二切れください」
「おぉ、
活気あふれる声をあげたのは恰幅のいい肉屋の店主だ。もうかれこれ十年はこの商店街にお世話になっているので、
店主は大小様々な肉が所狭しと並べられたショーケースを開き、慣れた手つきで豚肉を一、二——三、四切れ取り出した。
「あれ、親父さん、二切れだよ?」
小首を傾げる俺を尻目に、店主は四切れの豚肉を鼻歌交じりで袋に詰めていく。袋のあけ口を自前のシールで留めると、ぐいっと腕を伸ばして渡してくる。
「サービスだよ!こないだ店の掃除手伝って貰ったからな!」
店主はニカッと歯を見せて笑う。こないだというのはちょうど一週間前、店主の奥さんが古い友人と泊まり込みで旅行に行った時だ。普段奥さんが店の掃除をやっているため、店主一人ではろくに掃除もままならなかった。そこで、一人暮らしが長い俺にお鉢が回って来たのである。
「……そういうことなら、ありがたく頂きます」
大したことをしていないため忍びないが、せっかくの厚意を受け取らないのも、これまた忍びない。肩をすくめつつ袋を受け取ると、おうよ!という快活な声が耳朶に響いた。
肉屋を後にし、俺は魚屋、花屋、手芸店の順に回った。
魚屋ではアジを二尾買ったのだが、先日店番をしてくれたからということで、おまけでメザシを二尾貰った。
花屋では居間に置けるような手ごろな花を見繕ってもらったが、先週子どものお守りをしてくれたからということで、栄養剤をダースで貰った。
手芸店では切らしてしまった縫い糸を頂いたが、手芸教室の助っ人をやってくれたからということで、そのお礼として毛糸を二玉貰った。
「お、重い……」
当初の想定を大幅に上回る荷物を両手に抱えながら、俺はのろのろと帰路に就いた。今にも破れそうな袋に冷や汗を流しつつ、家を目指して川沿いをひた歩く。
我が家はうぐいす川を上流に遡った高台にあるため、海上町の住宅街からはちょっとばかし離れている。とはいえ、うながみ商店街から数十キロという訳ではない。
しかし、いかんせん緩やかな上り坂が続くため、運動不足の学生にとってはかなり応えるものがある。
川沿いをさらに北に進めば、この町唯一の神社である海上神社が見えてくる。地方の町の神社にしては中々に立派だが、山の中腹にあるので、辿り着くには長い長い階段を昇らなければならない。
そのため、商店街付近から海上神社に行くには、川沿いの緩やかだが長い坂を上った後で、急な階段を昇る必要があるという訳だ。
今日はそんな試練を乗り越える気概も体力もないため、俺は続く坂道の途中——すなわち我が家の前で足を止める。
武家屋敷——と言うにはいささかお粗末かもしれないが、それでもここいらじゃ俺の家は比較的大きい方だ。海外で働く両親の「帰って来た時くらいは純日本家屋でゆったりしたい」という強い要望を受けてこの和風平家は建てられたらしいが、一人暮らしをするには流石にちょっと広すぎた。
堂々たる正門の前で荒れた息を整え、やはり運動をしなければ!と決意を新たにする。戸を押し開けるために右手を伸ばすと、右腕にかけられた肉入りのビニール袋が視界に入り、俺は少し思案する。
俺には、普段料理をする上で心掛けていることがある。それは「同じ食材を使った料理は週二回まで」ということだ。これは昔、料理の腕を向上させるために立てた掟だが、上達した今もその習慣は続いている。
そして今週はすでに一回肉料理を作っており、今日二回目を作るつもりだった。そのために豚肉を二切れ買おうとしたのだが、親父さんのご厚意により豚肉が四切れとなってしまった。流石に四切れ全部は今日使いきれないので、使わなかった分は冷凍しておくしかないが……買った(貰った)食材はなるべく早く使いたいという変なこだわりが俺にはある。
「うーむ、どうしたものか……」
俺は魚を入れた袋を持つ左手を自分のおとがいに置き、しばし目を伏せた。数分たった後、川下から吹き上がってきた風を受けて、その長尺の思考にケリをつける。
……とりあえず、後で考えよう。
渦巻いた思考を隅に追いやり、今度は両手を戸に添えた。やや力を込めて押すと、ぎぃ~と木製扉特有の音を奏でながら、扉はゆっくりと開いていく。全開きの八割程度まで開いたところで荷物を持ち直し、空いた隙間をするりと抜けて邸内に入る。
開けた時とは違い、パタリと静かに扉が閉まった。ここから先は三メートル程の石畳を挟んで玄関がある。俺は荷物を無理やり引っ張りあげるようにして、視線を玄関へと振り向けた。
はたしてそこには精緻に並べられた石畳が、やはり三メートル程伸びている。そして正面にはこれまた大層な造りの玄関がある。毎日のように見る、見慣れた我が家の玄関だった。
ふいに照りつけた太陽に目がくらみ、一瞬視界が白くなる。徐々に正常な視界を取り戻し、やがて眼前の光景が瞳に映る。見えるのは、我ながら呆れるほどの純日本家屋の古びた玄関、所々がひび割れた規則正しい石畳——そして、静かに佇む一人の少女だった。
誰だ?
兼ねてよりの友人の名を想起するが、しかしその推測は、屹立する人物の風貌でかくも容易く否定された。
吹きすさぶ風に
「あ、あの……」
人見知りはしない方だが、それでも声をかけるのは躊躇った。
はたして少女は目を疑うほどに美しく、和風平家の前で一輪の花のように立つその姿は、まさに異国の地に舞い降りた妖精そのものだった。眼を丸くする俺に気づいたのか、少女はその柔和な口元に微笑みをたたえる。俺は少し、勇気を出してみることにした。
「h、Hello.....」
そう口にした途端、両頬に熱が宿るのを感じた。無理もない。生まれて初めて外国の人に対して英語を使ったのだ。純日本人なら「Hello」と「I'm fine thank you. And you?」は使えてしかるべきだが、教科書を音読するのと実際に使うのでは訳が違う。今はひとまず、通じるのを願うばかりだ。
———結果として、俺の渾身のHelloは通じた。少女は微笑を浮かべたまま、ペコリと頭を下げる。生まれて初めて、外国の人に挨拶が通じた。通じたのだが……。おもむろに、少女が口を開く。
「Hello. My name is Rucherit Phil Olympia from England.You are Oushi Mizutani,aren't you? I came to give my greetings today.」
少女の言葉は俺には通じなかった。
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