第261話 私の旦那様
「はい。大丈夫です。変わりなく……」
電話を終えた真鍋は煙草の火を消すと喫煙所を出た。
時間は程よく進んでいる夜。騒がしい一日が終わったかのように館内も静まり返っている。
「……」
真鍋は複雑な心境だった。電話先の相手には良い印象を持ってない事もあるものの、この件に関して頭を下げられたものだから断り切れずにいる。
部屋に戻ろうと歩いていると、ガコン、と自販機が動く音に反応する。
「……詩織」
「コウ君?」
そこにはエナジードリンクを買う鬼灯の姿があった。
「こっちにしておけ。眠りにくくなるぞ」
真鍋は鬼灯を部屋に送る際に、お茶を買い、エナジードリンクと交換する様に差し出す。
「いいの。なんだか……眠りたくなくて」
横を歩きながら鬼灯は笑う。それはいつもと変わらぬ彼女だった。
「……お前の父親から連絡があった」
「そう」
「ふざけた事だ」
「お父さんを悪く言わないで。私が悪いの」
「お前は何も悪くない」
鬼灯は庇うが事情を全て知る真鍋からすれば、憤慨を禁じ得ない。そんな彼に鬼灯は困った様に笑う。
「……大丈夫か?」
「大丈夫よ。昼間とのギャップがあると、夜はちょっとだけネガティブになるだけ」
「俺はお前を見失ったりしない」
「……コウ君は心配し過ぎよ」
「離れるべきじゃなかった。お前が一番辛い瞬間にお前を一人にしてしまった」
「仕方ないわ。母の期待に応えられなかったんだもの」
すると鬼灯は少し早足に前に出ると、くるっと真鍋を見る。
「でも、今は凄く嬉しいのよ? 絶対に、手に入らないと思ってたモノを間近に感じられて、貴方も近くにいる。少し、贅沢すぎるくらいかしら?」
ふむ。と顎に手を当てて彼女は自分の現状を振り返る。その仕草は無欠の紐を緩めた時に覗き見える、鬼灯詩織の素の仕草だった。
「欲張りだな」
「ええそうよ? 私は強欲なの。コウ君も、こんな強欲女に世話を焼いてると、あっという間におじいちゃんになっちゃうわよ?」
「その強欲女に、俺は人生を渡す価値はあると思ってる。だから、契約書を交わしただろう?」
「……本当。貴方にはビックリしたわ」
「俺は何一つ後悔していない」
「馬鹿ね」
「お前が思っている以上に俺は自己評価は低い」
良い女の近くは楽じゃない。あら、ありがと。と、二人は微笑しながら歩く。
すると、女部屋の前に着いた。鬼灯は段になっている足場に乗りスリッパを揃える。
「じゃあな」
「あ、待ってコウ君」
と、振り返った真鍋へ鬼灯はキスをした。
普段は身長差から背伸びしなければ届かないが、今は同じ高さだった。
三秒ほど、唇と唇は触れ合った後にゆっくり離れる。
「……」
「あまり驚いてない?」
「いや……感情の処理が追い付いていないだけだ」
「前にダイヤさんにやられた時に凄くビックリしたから、コウ君もビックリするかなーって」
「……頼むから思い付きでするのは止めてくれ。心臓に悪い」
「もしも、止まったら人工呼吸してあげるわ」
ふふ、お休み。と鬼灯が戸を開けると、そこにはリンカが立っていた。
「あ……トイレに行こうとしてですね……何やら話されてたので……終わるまで待とうかと思って……」
他人のキスシーンを見て、何と言って良いのか言葉が出てこない。
「鮫島……見たことは忘れてくれ」
「は、はい!」
感情の処理が追い付いた真鍋は赤い顔を隠すように反らしてそう言った。
「リンカさん。可愛いでしょ? 私の旦那様」
「…………え?」
今度は眼が点になり、真鍋と鬼灯の両方を見る。
「……鮫島。今のは他言無用で頼む……」
「え! は、はい!」
「ふふふ」
今も昔も鬼灯に振り回される真鍋は生涯敵わないと感じていた。
社員旅行の最後の朝は滞りなく迎える事が出来た。
昨晩、社長の武勇伝『黒船正十郎と砂漠の復讐者』(社長命名)を最後までワクワクしながら聞いた俺は少し興奮したものの、ぐっすり眠る事が出来た。
「諸君! 出発は10時からだ! 朝食を食べ! 歯を磨き! トイレを済ませ! 忘れ物は無い様にね!」
目覚まし代わりの社長のモーニングコールに、全員が返事をして各々行動を開始。
食堂で女性陣とも挨拶を交わしつつバイキングの朝食を済ませて身支度を整える。
もう終わりかー。あっという間だったなー。
などと、感想を言い合いつつも、皆は満足な旅行だったと心から思っている様だ。
その様子に社長もウンウンと頷いていた。
程なくして時刻は9時半。
正装(半ズボン)の金田さんの迎えるリムジンバスに荷物を入れて、入れた順にバスに乗り込む席は初日と同じ。国尾さんは自主的に帰ったようなので、その席はフリーだった。
「あ」
オレはいつも持っているイヤホンを部屋に忘れていた。
「すみません! ちょっと忘れ物です!」
そう言って競歩の様に早歩きで行く。昨晩デュガレさんに怒られたばかりなので、再度怒られる事は避けたかった。
「あったあった」
窓部に置いていたイヤホンを手に取りバスへ戻る。直ぐに見つかって良かった。
「おっと」
「すみません! あ、おはよう御座います」
角を曲がった所で、ぶつかりそうになった人物と挨拶をした。
阿見笠議員。休暇なのか、本日も出くわすとは思わなかった。
「もう帰る所かな?」
「はい。阿見笠議員はまだ休暇で?」
「オレも今日帰るよぉ。ボスの事も心配だしさぁ」
ボスってのは……多分、王城総理の事なんだろうなぁ。
「それに、今日はちょっとだけ、運が良さそうだ」
「そんなんです? 占いとかで一位だったり――」
「“大鷲”健吾君」
その言葉にオレは凍りついた。
「運いいかもねぇ。君にとってはどちらなのか、わからないが」
“ここから出ていけば過去はいつか追いついて来る。お前はソレに耐えられるのか?”
ジジィの言葉がオレを戒める様に頭の中で響いた。
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