第23話

「よくこの机で寝てられるよね。帰ろうよー」

 聞き覚えのある声が、机にうつ伏せて寝ていた僕の上から、降ってきた。声の持ち主は容赦なく僕の両肩を揺さぶり始めた。

 五月になり、気温は夏に向かって一気に駆け上がっている。

 校舎の向かい側では、ショベルカーやクレーンが忙しく動き回って、消防士向けの宿舎を建設している真っ最中だった。

 淡い亜麻色のロングヘアーに、白いワンピースが映えて見えた。

 丁度いい天気の放課後の教室。目の前の同級生の名前を、僕は思い出せない。

 彼女は左手でandroidのスマホをいじっていた。強烈な違和感。

『…………パンドラウィルスに感染したネズミ十万匹をユーラシア大陸各所で解放。及び、アメリカ帝国の核ミサイルを全弾即時に発射する。それに加えて、軌道上に隠匿された攻撃人工衛星から中性子光線を一斉射し、地球上から生命を徹底的に根絶……』

「どしたの? 鳩が豆大福食ったような顔して」

 スマホから顔を上げて、彼女は、怪訝そうに僕の顔をじっと見つめる。

「君と話すの、久しぶりだなって思って」

 彼女はどこか遠くに行った気がした。けれど静かな幸福感で、違和感が分厚く上塗りされてゆく。

「昨日も一昨日も会ってるんですけど。小学生からの同級生に、それはひどいんじゃない?」

 広いつばの帽子、真っ白なストローハットを掲げて、彼女は呆れて言う。ああ、そうだっけ。僕は認識を修正した。この世界ではそうだった。ひそかな思い人を忘れるなんて、僕は寝ぼけているのだ。その時だった。ポロシャツにぴっちりしたジーパンを履いた進藤が、教室に入ってきて、僕らへおーいと手を振って挨拶をしてきた。この学校では、私服登校が基本だった。

「安形が探していたぞ。今日こそはコンピューター部に勧誘するとか」

 右手で部室棟の方向を指さして、進藤が話しかけてくる。何の変哲もない普通の右手だった。

「進藤さあ。カケルは部活動したくないってゆってんじゃん」

 彼女は眉根を寄せて、進藤に噛みついた。

「とはいえ、芦原のような天才プログラマーが無所属というのは惜しいだろ」

「いいの。そんなの。ほら帰ろ。今日もご飯作ったげるからさ」

 彼女が、ぼんやりしている僕の手をぎゅっと握る。その手は柔らかくて、血の通った、ずっと触っていたくなるような握り心地だった。進藤はたじたじな様子で肩をすくめた。……。

 ここはどこだ?

「ここは、どこだ?」

 僕はつぶやいた。このままではいけない。

「どこって、殺譚ァ螟ァ謨咎? 死オ雁ユヲ驛ィ莉伜ァ樣オ俶」

 彼女が、聞き取れない言葉で喋った。僕は立ち上がって、進藤を指さして詰った。

「僕の知っている安形はロボットオタクだし、進藤は右腕を無くしているはずだ」

「んなっ、何を急にわけわからん事を言うな」

 そういう進藤の姿が、だんだんとおぼろげになってゆく。ピントの合わない動画のように。解像度がどんどん下がり、それはぐちゃぐちゃの塊へと変わる。

「お前もスマホさんじゃない。スマホさんは、僕を絶対に助けてくれるんだ」

 気付けば、教室の外の風景まで、熱した砂糖菓子のように崩れていた。空は溶けて、茶色く変色し、ぼたぼたと落ちてきている。

「もういいんだよ、繧オ繧ァ繝ォ>?。貴方は死んだんだ」

 無表情で、偽物のスマホさんがつぶやく。途端、教室のあらゆる窓が割れて、濁流が押し寄せてきた。密室は、一瞬で水に満たされた水槽と化す。これはドラゴンの攻撃か? 違う。僕は死に直面している。誰にも来る、死の間際の幻を見ているだけだ。僕は窒息の苦しみでもがき苦しんだ。生きようと願えば願うほど、苦しみは強くなる。そして、死の誘惑に折れそうになればなるほど、激痛はやわらいでいく。

「死ぬわけにいかない。僕は世界を変えていない。変えないまま、死ねるものかよ!」

「なんだってそうだけど、諦めなきゃならないときって絶対来るんだよ? 人だって、物だって、いつかは壊れて形を無くすんだ。縺マ昴≧縺ユォ繧ル? カケルにその番が来ただけなのに、自分がなにか特別とでも思ってるの?」

「僕はまだ、なにも出来ていない! 龍に勝っていない!」

 死の誘惑に抗えば抗うほど、窒息の苦しみが増す。熱した太い針を、いくつも胸に突き刺されているような痛みが、体中の神経をゆすぶる。

「楽になりなよ。生きることに何の意味もない。未完のままで、不発のままで、お前は死ぬ」

 擬人化された死は、僕の愛している彼女に限りなく似た声で、あの彼女が絶対に言わないようなセリフを吐く。僕は濁った水中で、背を縮めてうずくまった。自我が解体されていく。その感覚はとてつもなく、幸せだった。死は幸福だと、誰かが言っていた気がする。僕の挑戦は、ここで終わりらしい。スマホさん。ごめん。僕は君の約束を守れなかった。君の意味も、これで消えるらしい。

 無意識に握りしめた右手から、ひやりとした感触と手触りが伝わる。溺れ死ぬ僕は、いつのまにか小さな瓶を握りしめていた。ありったけの力を込めて瓶を握る。瓶はひび割れて、中から小さなメモが浮かんできた。僕はそのメモに、書き記された文字を追った。ダイバーが死の淵で握りしめたメッセージボトルに、SOSのメモは入っていない。入っていたのは、簡単な自己紹介の一文。


「Ⅰ’m Cheshire Cat」


 安形が言っていた事が、一気に脳裏で蘇って思い出された。スマホさんの本名を、知っておいた方がいい……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る