第13話

僕がすぐダイブから浮上してきて、パトリオットは面食っていた。もっと時間がかかるか、もしくは僕自身が死ぬものかと、勝手に思っていたのかもしれない。ノウから奪い取った指紋データは、マッキントッシュから、変な形のフロッピーディスクとして、現実世界へ出力されていた。 

そこからまたパトリオットにゴネられて、府中の森から出られない……なんてことにはならなかった。僕がウォレットメモリを手渡すと、驚くほど簡単に、僕らは府中の森から脱出できた。

「なんで私があんな汚い指紋データを、ロードセーブしなきゃなんなかったの。すっげえ汚いバグだらけで、気色悪かったんだけど」

 府中の森から出てきてからずっと、スマホさんはとんでもなく拗ねていた。森近くの公園のベンチへ、うつ伏せに寝っ転がり、動こうとしない。ベンチの下には、指紋データの入ったフロッピーディスクが転げ落ちている。苦労してもぎ取ってきたデータが入っているはずなのに、もう触るのも嫌だという風だ。僕はフロッピーを拾い上げてから、説得に掛かる。

「すまない。僕のマイキャラでは、データをセーブできなかったんだ」

「さっき大事にしてくれるつったじゃん。あーあ、汚れちゃった。わたし」

「汚れたって……スマホさんにとって、そんなに深刻な事なのか」

「んー。犬のクソを素手で拾った気分」

 僕はコメントに困った。それは、また、微妙な汚れ具合だ。ただ、嫌には違いない。スマートフォンであれ、僕は彼女の気持ちに寄り添いたい。

「お詫びにさ、どこか行こうよ」

「なんでさ」

「スマホさんにお礼したいんだ。なにか買うよ」

 と、ご褒美をちらつかせると、スマホさんのブレードアンテナが、ぴくりと動く。けど表情は堅いままだ。

「マップアプリで調べたけど、このあたりにお店なんてないもん」

 スマホさんは心底残念そうに言う。確かに言われてみれば。この公園の周囲に広がるのは、閑静な住宅街というやつだった。興味を引くお店は見当たらない。僕らのようなよそ者が楽しめる場所と言えば、この公園内の美術館ぐらいなものだ。僕はなんとなしに考えた。その美術館で何か、スマホさんのお気に召す逸品を探すのはどうだろうか。見つからなければ調布駅へ戻り、スマホさんが満足するまで買い物に付き合おう。そう思い立って、僕は乗り気でないスマホさんを、美術館へ誘うことにした。

 訪れた美術館は、世界の民芸作品を多く収蔵しているらしい。けれど、スマホさんは興味がないという。ゲストがこれだから、僕もチケットを買って観覧する気にはなれない。美術館の隣のお土産屋で、スマホさんのお気に召すものを、探してみることにした。とはいっても置いてあるのは、展示品モチーフのバッグやジグソーパズル、芸術家関連の書籍ばっかりだ。空振りだなあと思って、一周して戻ってくると、スマホさんは世界の民芸品特集コーナーで、じっと何かを見つめていた。マトリョーシカや熊の木彫りなんかが置いてある。僕が近づくと、スマホさんは真顔で振り向いてきた。手には小さな瓶を握っていた。その瓶の中には、模型の船が入っている。ボトルシップという置物だ。

「なにか欲しいものはあるかい。無ければそれはそれで、別のところで探してもいいよ」

「これなに?」

 スマホさんは首を傾げる。興味を持った対象が、ドイツ製のボトルシップとは意外だった。てっきり美術館の所蔵品をプリントしたバッグやら、よくわからない髪飾りやら、そういうファッション系で推してくると思ったのに。

「ボトルシップだよ」

「これはどうやって作るの? 製作方法が分かんない」

「ピンセットを使って、瓶の中で模型の部品を組み立てて作るんだ」

 あやふやな知識で僕が説明すると、スマホさんは真剣な顔で考え込んだ。

「どうして、そんな面倒なことをするの。現代美術の作品に、こういう面倒な作品があるのは知ってる。この美術館でもINTERIORって抽象画が展示してるけど、機械にはよくわからない。それがどうしてそれほどの価値を持つのか」

「え、その……面白いから?」

「カケルは面白いの。この瓶」

「まあ人並みには。それと、デイドリームに居る時、スマホさんからの転送データが、メッセージボトルに見えるんだ。それがどこか重なって見えて、面白いなって」

 ふうんと言ってから、スマホさんはボトルシップを、僕に差し出してくる。これでいいみたいだ。僕はそのボトルにラッピングをしてもらい、代金を払った。


 そのあと。美術館の近くのバス停で、僕らはひたすらバスを待った。スマホさんは、ラッピングを丁寧にはがしてから、ずっとボトルシップを眺めている。気に入っているのか、それとも別の事を考えているのか。

「あの指紋データを使って、これからどうするの」

 しばらくして、スマホさんは何気なさそうに聞いてきた。

「指紋データを基に、ネットパスポートを偽造する。僕はミスターノウでもない、架空の存在に成りすます。一度防衛プログラムに入り込めば、アメリカ帝国行のバックドアは設置できるから、それまで架空の人物が持てば十分だ」

「偽造って。どうしてそこまでして、ドラゴンを殺そうとするの?」

「よくわからないけど……僕の力で世界を変えれるなら面白いと思ったんだ。それに世界が滅べば、スマホさんも居なくなる。僕はまだ、スマホさんを失いたくないよ」

「あ。その答えカッコいー。音声ファイルにブックマークつけとこ」

 スマホさんはニヤニヤ笑って、僕の顔を覗き込んでくる。

「やめてもらいたいな」

「指紋データを手に入れたなら、もうあとは楽だと思うよ。ノウを説得するのが一番の難題だったから」

 スマホさんは空を見上げて小さく言う。疑問がわいた。まるで、これからの事を見透かしているかのような言葉だった。

「父さんから何か、聞いてるのか? なんだかこれからの事を、知ってるみたいだったけど」

 僕が知らない事を、スマホさんは知っている。ならば何故、僕は知らないのか。知らされていないのか……僕の問いに対するスマホさんの反応は、急で、意外だった。ぐいとスマホさんは顔を近づけてきた。

「ないしょ」

 そして僕を見つめてから、にやりと笑う。何か僕にとって不都合ないたずらを、思いついたときの顔だった。

「……顔が近いぞ」

「心拍数上がってる。スマホ相手に、なにをドキドキしてんの? 練習しよっか」

「なんの練習だっていうのさ」

「みあさんと、こうなるときのための」

「その、僕は」

 スマホさんは僕の頭を包むように掴み、口づけした。

 スマホさんの口内は、ひんやりと冷たい潤滑油で満たされていた。なめらかで甘い油が、僕の口へ流れ込んでくる。舌は柔らかく、弾力があった。その舌が、僕の歯の裏をなぞる。

「カケルが高校に入ってから、ずっとつまんないことばっかり。だから、いい思いさせて」

 完璧な美貌に、いたずらっぽく光る猫目。彼女は頬を染めたり、泣いたりしない。けれど、僕にはわかった。彼女は、とても恥ずかしくて怯えている。

 僕は、貴女を。先の答えは、言い出せなかった。もう一度、スマホさんが口をふさぐ。物心ついたころから、ずっと一緒にいてくれた存在が、スマホさんだった。両親がいない家でも、友達がいない学校でも、耐えることができたのは、スマホさんがいたからだ。僕にとっては、何よりも頼れる存在の戦友であり、家族だった。起きた時も、寝るときも、彼女はそばにいて助けてくれる。ずっと続いてきたゆるくて心地いい関係が、鈍い音を立てて崩れようとしてゆく。

「その、スマホさん、どうしていきなりキスなんて」

「もし世界から私が無くなっても、私という存在を、忘れさせなくさせるために。カケルの記憶にブックマークしたくなった」

 長い接吻の後に、スマホさんは笑顔のままおもむろに、ウィンドウを開いた。交通アプリの表示が、あと二分でバスが来ることを知らせている。 

「あーたのしかった。それで。どうするご主人様? このままこのベンチで朝までぼーっとしてるつもり?」

 僕が我を忘れているのは、貴女のせいなのに。帰ってから、眠りに落ちたのは覚えている。他の記憶はあいまいだった。次の日のスマホさんは、いつもと変わらぬニヤニヤ顔で僕を起こした。まるで調布でのことを、なにも覚えてないかのようだった。僕も努めて、いつも通りのふるまいをするしかなかった。

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