第7話

 鉄骨が宙を舞った。赤い鉄の塊は回転しながら、夕日を反射して光っていた。校庭の芝生に、五メートルはあるだろう鉄骨がぶち刺さった。叫び声、サイレン音、ユンボの駆動音が混じりあい、聞いたことのない音楽を聴いている気分になった。ユンボロボは、夕焼けに照らされて、咆哮を上げる。二つの腕で手当たり次第に、空に目掛けて建築資材をぶん投げ始めていた。その様を、特科高生徒たちは、校舎の屋上からこわごわと眺めていた。

「うわー。ありゃー無人モードで暴れてるな。ハッキングかウイルスで、OSを書き換えられてるぜ。HOSを使ってるわけじゃないだろに。……これから、俺らはどうすんだ?」

 安形は専門家らしく解説しつつ、手すりに頬杖を付きながら、その光景を眺めている。

「どうするもなにも、警察が止めるまで、校舎でじっとしてるほかないさ。私ら高校生に何できるんだ」

 進藤は腕組みしてぼやく。目と鼻の先でロボットが暴れていても、特科高が避難所なんだから、逃げようもなかった。

「けど、同じようなロボハザードが、東京の各所で起きてるみたいです。警察来ないかもしれませんよ」

 高城さんがスマホでニュースサイトを見ながら言う。高城さんのスマホは、彼女には似合わない、武骨な黒いスマホだった。液晶は装甲のような分厚いケースに嵌っていて、背面にはハイキャッスル社の紋章が大きく彫刻されてある。

「ロボハザードの犯行声明がネットに出てるよ。読んどく?」

 スマホさんが、ブラウザウィンドウを空中に開く。犯行声明? 開かれたニュースサイトは、速報の文字で埋め尽くされている。そのうちの一つの記事がタップされ、犯行声明の動画がホログラムに踊った。動画には、不鮮明な人影が移っている。朧気な輪郭しか分からない。もやもやとしたそれは、音痴なイントネーションの英語で、たどたどしく喋った。

『余はドラゴン。ノーシスの指導者として、偽の世界を断罪する。ノーシス軍は世界を再構築するべく、蹶起した。余は、偽の世界を破壊し、真の世界を顕現させるために、行動するものである』

「ドラゴンだ」

 僕の呟きに、高城さんがすかさず反応する。

「私のお告げ、間違ってませんでしたね。あのロボハザードも、ノーシスによるテロです」

「だとしても、嬉しくないな」

「私は嬉しいですよ? そしてさらに嬉しいのは、さきほど新しいお告げを、テレパシーで戴いたのです。カケルさんがあのロボットを止めろとのことです」

「は?」

 僕の嫌そうな顔を無視して、勢いよく高城さんはまくし立てる。

「私のスマホとアンシブルテレパシーがあれば、ここからでもダイブは可能です! なぜなら! ここにありますこのスマホ、まだ市場にも出ていない、最新鋭の軍事用スマートフォンなのです! これ一台で、量子コンピューター並の演算処理が可能です! ですから、このスマホだけで、芦原さんはあの暴走ロボットまで、ダイブすることが出来ちゃうわけです! お値段は据え置きですが! あのロボットはきっとウイルスで暴れているのですから、ウイルス退治の専門家たる芦原さんが、キュッとシメれば万事オーケイです! そうでしょうそうでしょう!」

 なんでハイキャッスルの特注品を持ってんだよ、と安形がぼやく。僕は高城さんの勢いに流されまいと抗う。

「報酬も何もなしに、あのロボットへダイブして、止めろってのか」

「今、そんなこと言ってる場合ですかー!」

「ロボットは工事現場で暴れているだけ、僕らに危害は及ばない。そんな状況なのに、わざわざ死ねというのかい」

「え、その、あの、これはお告げでして。そこまで強くは言ってないというか……」

 じっと高城さんを見つめると、高城さんはしどろもどろになって、言葉は尻すぼみになる。

「なあ、芦原。君と高城さんとの話はよく分からないが……芦原はダイブハッキングとやらで、あのロボットを止めることは可能なのか」

 肩を叩かれ、僕は振り向いた。そこには進藤が居た。

「高城さんの話は、僕もよく分からない。、まあ、ロボットOSへ侵入できれば出来るけど、死ぬリスクはある」

 と、僕が答えるや否や、進藤は義手を自ら、思い切りぶちぬいた。そして、僕の胸に押し当ててきた。

「ならば、私が芦原に依頼しよう。あのロボットを止めてくれよ。報酬なら私の右手をやる。君の欲しがる報酬には及ばないかもしれない。けど、一千万円はするはずだ。なんだったらこれを着手金にして、後々ローン払いでもいい」

「どうして進藤がそんな依頼をするんだ?」

 虚をつかれ、僕はその義手を握ったまま、聞くことしかできない。

「私の本当の右手は、ノーシスの自爆テロで吹き飛ばされたんだよ。私のように腕を失う人や、命さえも失う人が出てくるのを、許したくはない。君がその運命を変えられるなら、変えてくれ」

 進藤は唇を噛み、目を伏せて、僕へ頭を下げた。何かを祈るように。

「え、あ、ワシはなんかあったっけ? あ、実家の工場を売るわ! 借金もこれで一緒に手放せ、ぐふっ!」

 進藤は左手でトライポッドをわしづかみ、安形の顔面に押し付ける。トライポッドから無力毒をぶっ刺された安形は、びくびく震えて動かなくなった。僕の家事ロボットを凶器にしないでほしい。バカバカしくなって、多少気が楽になった。進藤の覚悟に対して、背を向けるのは失礼だ。僕はスマホさんを見つめる。

「わかった。進藤の依頼を受けよう。スマホさん、ダイブするよ。ダイブプログラムを立ち上げて。僕は決めた」

 もし世界を自分の力で、変えてみせれるなら、やってやろう。スマホさんの手を握る。目配せすると、渋い顔のスマホさんは文句を言う。

「やるんだね。私はいやだけど。カケルが戻ってこないなんて、嫌だ」

「戻ってくるよ。君のセーラー服を、まだ見慣れてない。もっと見ていたいからね」

 できるだけ恐怖を押し殺して、僕は笑っていってやった。きっと悪口を飛ばしてくる。

「え。わかった。待ってる。ずっと」

 スマホさんは目を伏せて、はずかしそうに手で口を隠した。

 え。なんだその反応? なにそれ? 

「それではドーンと言ってみよー! アンシブルドッキング!」

 僕の動揺を知ってか知らずか、高城さんは強引に僕の意識を、アンシブルテレパシーで暴走ロボまで転送させた。


 ダイブの衝撃が五感を揺する。僕はひ弱な肉体から解放され、屈強な忍者のマイキャラクターへと、再構成されてゆく。本当の自分、賞金稼ぎのダイバーへ僕は変身した。転送が完了すると、細長い迷路が入り組んでいる廊下に、群青の忍者は立っていた。典型的な迷路型ダンジョン。ここが、暴走しているユンボロボットのプログラム内部だ。とはいっても、ウイルスが潜伏しているフォルダからは程遠い。

 パネルウィンドウをいくつか開く。バイタル、地図レーダー、そして装備一覧のウィンドウだ。右手に日本刀を、左手に火縄銃を装備。刀と銃を両手に持つなんて、ミリタリーマニアにメタメタに説教されるだろう。現実的ではないと。けどデイドリームは仮想空間だ。それで正しいんだ。汎用スキルには影分身を選ぶ。偽の自分が相手の注意を逸らせる。アンチウィルスソフトに、敵の居所や種類をサーチさせる。……駆除までしてくれればいいけれど、多分無理だ。自我型マルウェアに、無人ソフトは通用しない。まもなく検査結果が返ってくる。敵ウィルスは、重機ロボットのメインOSに寄生している。種類はワームタイプ。自我レベルはデフコン1を計測。最も高価で強力なウィルスプログラムだ。

 ダンジョンの天井に張り付いていた小鬼が、僕の頭を狙ってとびかかってきた。忍者刀を振り上げ、敵を造作なく切り伏せる。真っ二つに立ち切れた小鬼の死体は、ダンジョンの壁に飛び散った。そのままアメーバや小鬼を撫で斬りしながら、ダンジョンを突き進む。やがて、僕は大きな鉄扉にたどり着いた。

 錆びついた鉄板の向こう側から、エビや魚の腐ったような悪臭がした。ウィルスバスターは初めてじゃない。失敗したことだって何回かある。けれど、失敗が即死に繋がるミッションは、これが初めてだ。殺すか、殺されるか。

「帰命し奉る。あまねき諸仏に。我に悲愍より生じたる救母よ。救度する者よ」

 殺気を跳ね返すために、僕は加速スキルの呪文を唱えた。僕の行動速度がバフされ、主観の時間がスローモーションになる。たとえどんな敵であろうとも、素早さでかき回して、致命攻撃を噛ましてやる。それだけだ。決意を固め、僕は鉄扉を蹴飛ばす。その瞬間、僕の意識は別のデイドリームへと転送された。

 石灰岩で形作られた薄暗い聖堂に、気づけば僕は立っていた。聖堂の天井はアーチ状にすぼみ、全ての壁は何メートルもあるステンドグラスの窓で彩られている。そのうちの一番大きな真円のステンドグラスは、聖堂の心臓部、十字架と講壇の真上に掲げられていた。赤、緑、紫、青、ピンク、ありとあらゆる色のモザイクガラスが散りばめられたそれは、聖なる空間を鮮やかに照らし出している。実際に訪れたことはないけれど、この空間に僕は見覚えがあった。宙へウィンドウを開き、画像検索を試してみる。予想通りの答えが出てきた。やはり。ここは、ノートルダム大聖堂だ。正確にはその空間のコピー。

 石畳の中心には、細い枝の木が生えている。葉っぱの間には、たくさんの真っ赤な花が咲いていた。枝から垂れ下がっているのは、ツバキの花だった。

「ねえ。みつからないよお」

 その木は『喋った』。狂気の気配を感じ取り、反射的に刀を構えた。ツバキの花は、一つぼとりと落ちる。

「私の首、みつからないの」

 落ちた花ビラが、しゅうしゅうと音を立てて赤黒く燃えはじめた。もうエスケープは不可能だ。僕はもう、殺し合いから逃げられない。火縄銃の火蓋を開けた。炎はどんどん燃え広がり、ツバキの木まで燃え、数えきれないほどの触手が炎の中から産まれてくる。

「だから、お前の首を私の首にするの」

 そうして触手の纏う巨大なゾンビが、炎の渦から立ち現れた。決意を固めて、敵へ照準を合わせる。敵に頭はなかった。胴体の間に、いくつもの赤い目玉が嵌っていて、ギョロギョロと蠢いていた。

「我が前に敵は無し!」

 群青の忍者は、攻撃強化の呪文コマンドを唱え、日本刀の刃を煌めかせた。炎の触手は聖堂の長椅子をなぎ倒しながら、僕へ迫りくる。熱の気配を、仮想の肌に感じた。ダイバーとウィルスの殺し合いが、白昼夢のノートルダムで始まった。

 火縄銃の散弾で、振り回される触手を撃ち落とす。だが、新たな触手が、腐肉の皮膚を突き破って生えてくる。触手の振り回しが、敵のメインウェポンなのか? この触手をどうにかしないと、本体のゾンビへ切り付けられない。持久戦はこちらが死ぬ。速度バフの効果が切れる前に、ケリをつけないと。

「首を寄越せェ!」

 壁を蹴り、飛び跳ねる僕を追って、ゾンビは向きを変えながら叫ぶ。やけに喋るウィルスだ。それでも、相手はプログラムであって、人間じゃない。ウィルス駆除の定石は、プログラムに区別できない囮を使い、デリートすること。その戦術通り、僕は影分身スキルを発動させた。偽の僕が、そのまま左に回り込む動きを続ける。ちゃんと火縄銃も自動で撃つ凝りようだ。切り離された本物の僕は、一時的に透明化される。敵の触手は偽物を追っている。背中がガラ空きだった。いつぞやのゴーレムのように、致命攻撃を嚙ましてやる! 

 その背中へ駆け寄って、刀を振りかぶった。その瞬間、ゾンビの背中に、閉じたまぶたが無数に張り付いていることに気付いた。閉じているものは、いつか開くもの。しくじった。まぶたは一斉に開いて、本物の僕を、じっと見据えた。

「このたくさんの目玉は何のためにある? お前の小細工を見破るためだよぉ!」

 僕を捕まえるべく、触手が新たに芽生えて殺到してきた。この目玉は、飾りじゃない! ウィルスの検知能力をイメージ化した瞳だ。速度バフの効果が切れるまで、あと数秒。その焦りが、致命的なミスを生んだ。触手から逃れることばかりを考えて、僕は敵の脇をすり抜けようとした。敵の両腕も、僕を捕えようとしてくる。僕は腕からは楽々逃れることはできた。

 けれど、指先から飛び出てきた、巨大な鈎爪を避けきれなかった。燃える爪が、僕のマイキャラを撫で切った。メルトファイア。群青の忍者は炎に包まれた。激痛が、僕の脳裏を焼き焦がす。目の前がぼんやり暗くなる。削り取られてゆく意識を繋ぎ止め、僕は本能的に、キュア(回復)プログラムを起動した。注射器として描写されたキュアを首筋に突き刺し、僕は大聖堂の壁際へと後ずさる。敵のメインウェポンを読み違えていた。首を獲りたがる敵が、刃を持っていないわけがない。立ちふさがるように、ゾンビは近づいてくる。その無数の瞳は笑っていた。

「逃げても無駄だ。お前の魂はここで生贄となる。ドラゴン様の作り出す真の悪夢のために」

 僕を見下げて、ゾンビの目は笑みを浮かべて、『喋りかけてくる』。

「お前、ダイバーだな?」

 僕は直感を口にした。

「やっと気づいたのか? 同じダイバーとして、情けないね」

「ダイバーがウィルスを操作しているのか? なぜ逮捕されない!」

 ダイバーは厳格な身分登録を義務付けられている。違法行為に手を染めれば、遅かれ早かれ逮捕される。逮捕とはちょっと違うけど、小学校の時の僕のようにだ。

「逮捕? 私の偽りの肉体は、もうすでに墓の中さ! 死体を逮捕できるものか。ドラゴン様から洗礼を受けた私は、偽の世界から解放され、真の悪夢へ転生したのだ。私は白宮で真理に触れた」

 支離滅裂な答えが返って来た。一つの仮定が思い浮かぶ。もしかしたら、このゾンビは白宮で遭難したダイバーの成れの果てかもしれない。精神を切り取られ、肉体を失ったダイバーの廃材利用。僕はぞっとした。

「ドラゴン様は偽の世界を真に転換させる! ドラゴン様の孵化は邪魔させん! お前が洗礼を受けることはない! ここで死ぬだけだ。 その様を動画撮って、お前の大好きなスマホに送っといてやるよ。ウィルスひっつけてなぁ!」

 ゾンビは触手を伸ばし、攻撃を再開する。触手を必死に刀で切り伏せるが、敵の攻撃をさばき切れない。触手が僕の脚を払った。転倒した僕に全体重をかけて、ゾンビは両爪を振り下ろしてきた。僕は刀で爪を受け止めたが、触手は避けられない。忍者の甲冑を食い破り、触手は僕の体内へと侵入してくる。毒のようなデリートリキッドが、マイキャラへ送り込まれてくる。このままだと死ぬ。僕が希望を失いかけた時。僕の意識へ、スマホさんからメッセージが届いた。朦朧とする意識の中で、僕は疑った。なんでこんな時に。画像データのウィンドウが強制表示される。そこに映っていたのは。

 トライポッドだった。

 と同時に、何かのデータが転送されてくる。容量は信じられないほど軽く、1kbもない。転送は一瞬で終わった。それは、トリポッドだった。僕の左手に、トライポッドが握られていた。

「ヤッホー」

 そして、トライポッドはいつも通りに手を振って挨拶してくれる。スマホさん、僕が真でもいいのか。僕は一瞬スマホさんの意図を疑った。だけど、そんな自分の疑念を、僕はすぐに追いやった。いつだって、スマホさんは僕を助けてくれる。僕は手のひらのトライポッドへ訪ねた。

「なんの用だい、トライポッド№53」

「スマホが急いでダウンロードしたプログラムをもってきタ。使っテ」

 トライポッドはファイルを解凍した。僕のマイキャラクターに、新しいメインウェポンが登録される。これは……一か八かの選択肢だった。けれど、僕はスマホさんのアシストを全力で頼ることにした。

「お前の首を私の首にしてやるぅ! 死に晒せッ!」

「僕には先約がある。生きて帰ると約束したんでな!」

 スマホさんが送ってきたのは、単なるイヤガラセのアイテムだった。デイドリーム上に、邪魔なポリゴン体を無限に生み出すジョークプログラムだ。ブラウザクラッシャーともいう。僕はそれを起動させた。僕の手からトライポッドが、ボコボコと湧き出てきた。無限増殖の勢いは凄まじく、何万というトライポッドが濁流のように生まれ、ノートルダムの空間を埋め尽くした。トライポッドの波が、ゾンビを押し流して、僕はどうにか窮地を脱する。

「なっ、いきなり訳の分からんことをするなっ!」

「へえ。ウイルスに改造されたダイバーでも、うろたえるものか」

 僕は躊躇なくトライポッドのモノアイを、ボタンのように押し込んだ。するとトライポッドは、ドキツイ蛍光色でチカチカと激しく点滅しだす。たまらず、僕は視界を強制シャットダウンさせた。

「何をしやがる! やめろぉぉぉおおおおおおお!」

 ゾンビウイルスの絶叫が聞こえる。目玉に強烈な光線を喰らい、悶えているらしい。聴覚と嗅覚、そして熱で、僕は敵ゾンビの居場所を感じ取る。視覚だけを頼っていては、一流のダイバーじゃない。五感を使い、デイドリームを認識しなくちゃならない。この首なしダイバーは視覚だけに頼っていた。だから、白宮で首を刎ねられたんだ。一番熱源の近い部分。最も大きな目玉の裏に、奴の致命箇所──弱点が隠れている。僕は日本刀を構えて、突進した。

 致命攻撃を獲るために。僕は、このゾンビを倒して、その先の世界を見たい。

 SMAAAASH!!

 会心の一撃が、ゾンビウイルスの胸部に突き刺さる。僕はブラウザクラッシャーのプログラムを停止させる。ぽふんという音を立てて、トライポッドの幻は消えていった。

 荘厳なステンドグラスが、幻の陽光を受けて、ぼんやりと光り始めていた。デイドリームに、夜明けが始まろうとしている。敵ゾンビは動きを止め、自らの炎で燃え始めた。ゾンビは喘ぐ。

「いい、腕をしているじゃないか。私が、こんな身体じゃなかったら。無くした首が、あれば、思う存分、お前と死闘を楽しめたろうに。貴様の名前を、聞いてなかったな?」

「芦原カケル」

 首に巻きついた触手から、デリートセルが、僕のマイキャラへしみ込んでくる。僕はさらに深く、刀を敵の胸に突き刺し、左右にひねる。腐った血が噴き出して、ゾンビの身体をみるみる燃やしてゆく。ゾンビウイルスの構成データが崩壊してゆく。

 ゾンビの体から、ぼとぼとと目玉が降り落ちてくる。その目玉は僕の頬を伝い、石灰石の床へ落ちてゆく。

「カケル? KAKERU。似た名前を、知っている。ああ、私の本当の名は、カメルだ。やっと、解放される。お前にこの花をやろう。私の、名前の、由来になった椿の花を。英雄よ。私の力を、使うがいい」

 ダイバーの亡霊は、燃え尽きた。ダンジョンに朝陽の一筋の光が差し込み、ノートルダムの聖堂は色とりどりに輝き始めた。僕の左手には、ツバキの花が握られていた。カメル。その名前は聞いたことがある。ダイバー黎明期に現れた、エースダイバーの名だ。このノートルダム聖堂はきっと、彼女の心に刻まれた、大事な場所だったのだろう。僕はただひたすらに、祈ることしかできなかった。願わくば、彼女の魂が救われんことを。肉体の限界を感知し、僕の意識は浮上し始める。ゾンビカメルの言っていた、偽りの世界へと僕は戻った。

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