21:短夜
夏の暑さは好きになれそうにないが、朝起きても暗くないのは悪くない。
冬の朝はどうにも苦手だ。アラームにせっつかれて目を開けても、まだ夜の中にあるようで、これから明けると頭でわかっていても布団を被りたくなるし、本当に眠ってしまったことも数多い。盛大に寝過ごして博士にどやされたことは一度や二度ではないし、ある時にはフィールドワークの車に置いて行かれたこともあった。そう、あれも寒い冬の日のことだった。
流石にこの仕事を始めてからそういうミスは無くなったが、学生時代の私の怠惰ぶりを思うと、外向きにはよく真人間の形を装えている方だ、と自分で自分を褒めずにはいられない。誰も褒めてくれないから。
とにかく、夏になってからは随分この夜の短さに助けられている。夏と冬とで勤務時間が変わるわけではないが、定時で研究所を出た時にまだ明るい、というのはなかなか気分が弾む。まあ、定時で上がれることなど一週間に一度あればいい方、と言ってしまえばそれまでだが、気分の問題は大事だ。
気分の問題。きっと、何につけても気分の問題なのだ。外界の事象をどう解釈するのかは、受け止める側次第なのだから。
だから、これも、どこまでも気分の問題なのだとは思うのだが。
「近頃は、調子がいい、気がします」
発言を許可すると、Xは淡々とそう言った。しかし、そのぼんやりとした顔から、常との違い――X曰くの調子の良さ――を窺うことはできない。そもそも、Xは極端に体調を崩した時以外に調子が悪そうな素振りを見せたことがない。その体調を崩した時ですら、自分のせいで我々の仕事を滞らせるわけにはいかない、と無理やり平静を装ってみせるのだから、Xの「調子」は外面では判断しがたい。
なお、この時は、Xの体調が悪いと判明した時点で「無理に『潜航』を敢行して更に悪化される方が迷惑」と説得して理解してもらったので、二度目は今のところない。話せばわかってくれるのだ、話さないとわからないのは問題な気もするが。
「調子がいいって、具体的には、どんな感じ?」
「いやに頭がすっきりして、体が軽い、というか」
「それだけ聞くと、覚醒剤の触れ込みみたいでちょっと怖いわね」
「薬は、やりませんよ」
「持ち込めてたら大問題よ」
それもそうですね、とXは生真面目に頷いてみせる。潜航装置のメンテナンスをしているスタッフをちらりと見れば、肩を震わせて笑っていた。どうしても、Xと話していると、時折このようなとぼけたやり取りになってしまう。Xが何につけても生真面目な性質だからか、余計な枝葉すらも真に受けて、論点がずれてしまいがちだ。
そんなわけで、一つ咳払いをして、盛大に脱線しかけていた話を戻す。
「でも、特別、調子が良くなるようなこと、あったかしら」
ここしばらくの『潜航』に、特筆すべきところはなかった、と思う。いや、もっと正確に言うならば、どの『潜航』も特筆すべきことはあるが――何せ、一つとして同じ『異界』を訪れることはないのだから――、その中にXにとって特別な意味をもたらす『異界』があったか、といえば、そんなことはなかったはずだ。つまり、Xにとっては他のどの時期とも変わらない、「普段通り」の『潜航』であった。
だが、それ以外に理由らしきものが思い浮かばない。『潜航』以外のXの生活は、極めて規則正しく、言い換えれば単調だ。定められた時間に起き、定められた時間に食事をとり、定められた時間に眠る。独房における自由時間は大体筋トレをしているといい、それ以外の話を聞いていない以上、特別な変化があったとも思えない。
しかし、これからも異界潜航サンプルとしてのXを運用していく以上、Xのコンディションが良いに越したことはない。その理由が説明できるなら、こちらで可能な限り条件を整えてやるのも、円滑な『潜航』を進める上では重要と考える。
「何か、調子が上向きになった心当たりってある?」
「……夏、でしょうか」
「夏?」
一瞬、何と言われたのかわからなかった。夏。季節の、夏だ。そう思い至るのとほとんど同時に、Xが言葉を続けた。
「毎年、夏になると、調子が良くなります。きっと、それです」
そういえば、Xは以前、「夏が好き」というようなことを言っていた、はずだ。ただ、あくまでそれは単なる好き嫌いの話であり、コンディションにまで関わるとは思っていなかったのだ。それに――。
「でも、あなたの場合、今が夏なんて、カレンダーを見て初めてわかるようなことじゃないかしら」
Xの暮らす独房には窓がなく、研究室の窓も分厚いブラインドで閉ざされ、原則として開かれることはない。Xに外界の情報を与えないための措置だ。白々としたLED照明が朝から夜まで同じ明るさを維持し、常時稼働し続ける空調によって一定の温度に保たれているこの研究所において、季節を意識するのは極めて難しい。
Xも「そうですね」と私の言葉を認めながら、手錠で繋がれた両の手を重ねる。
「だから、想像するだけです。夏が来たのだ、ということを」
もはや、Xが『こちら側』の夏を知ることは二度とあり得ない。それでも、Xは夏が来たということを暦で把握して、考えてみるということか。夏が来たということ。夏を表す概念のこと。かつて過ごしてきた、夏という季節のこと。
そうすると、少しだけ気分がよくなるのだ、と。Xは穏やかに言う。
「どうということはありません。単なる、気分です」
そう、これも、結局のところは気分の問題。
私が短い夜を歓迎するのと同じように、Xは夏という季節そのものを歓迎する。体感として感じ取ることができなくとも、彼なりのやり方で。
私には理解できない心境だが、結局のところ、これはどこまでもX次第の話であって。
「なら、夏の間は、いつも以上に頑張ってくれるのかしら?」
私もまた、「そういうもの」としてXを扱うしかないのだ。
Xはわずかに口の端を歪めて、私の言葉に深く頷いてみせる。当然のことだと言わんばかりに。
そうして、今日の『潜航』が、始まる。
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