19:氷
「凍え、死ぬかと、思いました」
幾重にも毛皮や毛布を巻き付けたXに向かって「そりゃそうだ」と笑ったのは、真っ白な熊だった。
そう、ディスプレイに映っているのは熊なのだ。二足歩行で、もこもこの服を着た。
「毛皮も無いのにそんな薄着で、自殺志願者かと思ったよ」
「好きで、こんな、格好してるわけじゃ、ないんです……」
いつも以上に不自由そうなしゃべり方は、体が冷え切っていて、口が思ったように動かないからだろう。私からXの顔を見ることはできないが、何とか言葉を絞り出す唇も、すっかり紫色になってしまっているに違いない。
『異界』におけるXは、基本的には『こちら側』の姿を投影したものだ。Xが己をそう認識しているから。その際、着衣もその日着ているものが反映される。大概はトレーナーにズボン、そして足元のサンダル。それは、もちろん今日も例外ではなかった、わけだが。
まさか、辺り一面真っ白な、吹雪に包まれた極寒の『異界』に送り込まれるとは思っていなかったに違いない。私も予想外だったのだから、この場にそれを予期していた者は一人もいなかったはずだ。
一応、Xを『異界』に送り込む前に最低限Xが「生きていける」場所かどうかのテストは行っているのだが、その基準をもう少し厳格にしておかなければ、サンプルを無駄に失うことになりかねない、と反省する。
結局、Xはすぐにこの白熊に拾われて、家に招かれたことで難を逃れたのだが。どういう状況に陥ってもぎりぎりのところで危機を回避する、そういうところがXにはある。強運というべきか、悪運というべきか。
白熊の家は、氷のブロックを積み上げてできていて、それだけ見るとひどく冷たそうなのだが、その内側は意外にも暖かそうだった。なお、『こちら側』にも雪で作る住居が存在はするので、住居の形態としてはさほど非現実的というわけでもない。少なくとも、吹きすさぶ外気に晒されないというだけでも、随分違うのかもしれなかった。
「ほら、飲みなよ」
白熊が、大きな手で器用に持ってきたのは、重厚なマグカップだった。白熊のサイズに合わせているのか、Xが持つと両手にも収まらないほどだった。何とか取り落とさないようにしっかりと支えて、カップの中身を見てみる。泥のような色の液体が湯気を上げている。
「温かいです。それに、甘くいい香りがしますね」
Xが目に映るものについて言葉にするのは、Xの視覚と聴覚しか知ることができない我々への配慮であり、同時に、「これは何か」という白熊への質問でもある。白熊は「知らないかい?」と言ってから、答えた。
「ここから少し離れた場所に生える、雪にだけ根付く木の皮を煎じたものさ」
「雪にだけ、根付く……」
もちろん、そのような植物は『こちら側』には存在しない。だが、ここは『異界』だ、そのような植物も存在しうるのだろう。ともあれ、「冷める前に飲みな」と白熊に促され、Xはマグカップに口をつける。一口、二口。液体を飲み下す音が、スピーカーを通して響く。
「……おいしいですね。意外と、すっきりした甘みです」
「この辺りでは貴重な甘味なんだ。昔はもうちょっと採れたんだけどね、ここしばらくは如何せん寒すぎる。雪が完全に凍り付いちゃって、木が根を張れないんだ。僕もこの寒さで自前の毛皮だけじゃ足りなくて、このありさまさ」
大げさな動きで、白熊は自分の着ている服を指す。なるほど、この白熊にとっての衣服とは単純に防寒のための装備であり、人間にとっての衣服とは違う意味合いを持っているらしい。
「このままだと何もかもが凍り付いちゃうよ。この家もいつまで保つか」
「何か……、原因は、あるんですか?」
「噂によると、この世界にあった熱気が、別の世界に流れ込むようになっちゃった、って話だけど」
「熱気が、別の、世界に?」
「そう。君、他の世界から来たんだろう? それと同じさ」
白熊はさらりと言って、Xも「はあ」と答える。どうやらこの世界の住人にとっては、いくつもの世界が存在する、というのは常識レベルの話であり、故にこそ、Xのような、見るからに別の形をした存在――他の世界からの来訪者にも寛容なのだろう。
「ちょっとしたきっかけで、世界の間に保たれてたバランスが崩れちゃうこともあるんだろうね。僕も困っちゃうけど、この世界の熱気が流れ込んだ世界は、それはそれで、暑くて大変なんじゃないかなあ」
――その言葉に、つい、『こちら側』のことを考えずにはいられない。
数年を拘置所で過ごし、今は空調の利いた研究所に住むXは知る由もないと思うが、近頃の夏はどうにも暑すぎる。年ごとに暑さが増している気がする――という主観はそう的外れでもないようで、ニュースでは日々温暖化による様々な問題が論じられている。今まで当然そこにあった「季節」というものが失われつつある、と語る者も多い。
これは、地球という惑星に生きる我々の問題だ。誰もがそのように認識しているわけだが、もし、白熊の話が正しければ、地球のある『こちら側』だけの話ではなくなってくる。あまねく『異界』との繋がりを、その間に流れる何かを、解き明かす必要があるのではないか?
しかし、『こちら側』は己の世界のことすらまだ手探りで、『異界』の存在を知るものなどごく一握り。『異界』との間に何が起こっているのかを理解するまでには、気の遠くなるような時間が必要なのではないだろうか。
それまでに、我々は……、今と同じように生きていることが、できるのだろうか。
とはいえ、Xはそんな私の危惧など知るはずもなく、世間話の調子で白熊に応える。
「暑すぎるのも、寒すぎるのも、辛いですからね」
「そうだよねえ。いっそ、この寒さも分けられればいいのに。暑いとこに、ここの氷を持ってけるだけでも、随分違うと思うんだ」
氷ならいくらでもあるからね、と白熊は氷でできた家の壁を指す。この外に広がっているのは、溶けることのない雪と氷。熱を失ってしまった世界。
果たして、Xも壁の外の光景を思っていたのだろうか。白熊の視線を追うように、白い壁を見つめたまま、ぱちぱちと、ディスプレイが瞼の動きに合わせて明滅する。
「私の世界には、かき氷っていう、削った氷に、甘い蜜をかけて食べる文化がありますが。ここの氷を使ったら、おいしそうですね」
「へえ、こっちじゃ物好きになっちゃうな、こんな寒い中更に氷を食べるなんて」
「こちらは、とても、暑い時期があるんです。私は、久しく食べてないですが」
研究所においても、死刑囚であるXの食事は規定に従って管理されている。Xによると「量は十分ですし、おいしいですよ」とのことだが、彼の感覚は少々あてにならない。それに、やはり自由な食事からは程遠い。夏の暑い日にかき氷を食べる、という体験は、『こちら側』では二度とないのだと言い切れてしまうのだから。
「暑い、かあ……、僕には、想像できないなあ」
白熊は深い溜息交じりに言う。この世界において、唯一、暑さを知る者なのだろうXは、まだかろうじて湯気を立てているマグカップの中の液体を舐める。
とても、静かだった。地鳴りのような吹雪の音が、わずか、スピーカーから聞こえるだけで。
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