18:群青

 それは、私の目には、青すぎるほどに青い立方体に見えた。

 大きさは一抱えくらい、だろうか。台座に載せられた立方体を上から見たり、回り込んだりして、どの面を覗き込んでみても、のっぺりとした青。

「これは、何ですか?」

 台の側に立っている、黒く細長い――かろうじて人影に見えるものに問いかけてみても、返事は言葉とも思えない音の羅列。この様子では、Xの言葉も通じていないのかもしれない。

 今日、『潜航』したXが降り立ったのは、複雑な迷路を思わせる『異界』だった。高い天井には明かりらしいものは見えないが不思議と明るく、よくわからない素材で作られた壁と、足元に敷かれた無地の絨毯らしきものがはっきりと見て取れる。

 そして、時に折れ曲がり、時に交差する通路の両端には、ところどころに何かが置かれていた。

 それらは、私から見たら「何か」としか言いようがない。

 Xの背よりも高い見上げるような何か、台座に置かれた豆粒のような何か、はたまた、薄っぺらく頼りない何か。そのどれもが、『こちら側』の言葉や知識に当てはめることのできないもので、この『異界』の情景をどう報告するか、未来の私が頭を抱えるだろう、という嫌な確信が脳裏に浮かぶ。

 通路を歩いていると、時折、動くものを見かけることもあるのだが、それもまた姿かたちは様々であり、置かれている何かの前に立ち尽くしていたり、音もなく通路を歩いていたりと、何ら規則性は見いだせない。

 そして、いくつも存在する「何か」としか表現できないものの中でも、特にXの目を引いたらしいのが、この、青い立方体であった。今までは何が現れてもぼんやりと眺めるだけで通り過ぎていたが――そうしなければきりがない、というのも事実だった――、この立方体の前では一旦立ち止まって、じっくり観察をしている。

 しかし、どれだけ観察しても、ディスプレイ越しに見えるそれに対する感想は「青い」しかなく。

「青い、ですね」

 ぽつりと落とされたXの感想もまた、同様なのだった。

 その時、不意に、いやに明るい声がスピーカーに声が割り込んでくる。

「あら、旅人さん、こんなところで会うなんて、奇遇ね」

 Xが振り向けば、そこに立っているのは一人の女性だった。そして、Xと「私」は、その女性を知っていた。

「こんにちは。しかし、よくお会いしますね」

「縁ができるというのは、そういうことよ。特に私みたいな『魔女』は、縁のような、目に見えない繋がりを伝って旅するものだから」

「……なるほど?」

 この「なるほど」は、よくわかっていない時の「なるほど」だ。Xは、とりあえず相槌の代わりに「なるほど」という言葉を使う癖があるが、それが相手の言葉を本当に理解した上での発言であるかどうかは、その語尾の感じで何とはなしに判断できる。

 女性も、「わかってない顔ね、それは」と愉快そうに笑ってみせた。

 そう、この女性とは、今までの『潜航』でも何度か出会ったことがある。そして、我々は、彼女が「魔女」であることも知っている。

 魔女。魔法を使うもの。しかしながらこの「魔法」という言葉も曲者である。特に『異界』を観測する我々は、この語を慎重に扱うべきと考えている。

 今までも、Xは『こちら側』では起こりえない数々の不可思議な現象に遭遇してきたが、我々がそれらに「魔法」と名付けることはない。『こちら側』ではあり得ない現象も、その『異界』の中では当然のものであり、「起こりえないこと」を示す「魔法」という言葉は相応しくないからだ。

 だが、その我々からしても、どうしたって、魔法と呼ぶしかないものがある。

 それが、『異界を渡る者』の持つ力だ。

 我々は、この世界に近しい『異界』に意識を接続する、限定的な形式で『異界』を観測している。もし、人を肉体ごと『異界』に送り込み、自由に『異界』を渡り歩く技術が確立されれば話は別なのだが、実現の目途は立っていないのが実情だ。

 だが、我々がその方法を確立できていないだけで、『異界』を自由に渡り歩く者は確かに存在する。それぞれの『異界』のルールに縛られることなく、まさしく魔法のような力を操る者。それが「魔女」と呼ばれる者たちだ。

 そのうちの一人であるこの女性は、幸いなことに『異界』を渡り歩くXに友好的であり、時には『異界』で途方に暮れるXに手を貸してくれることもある。逆にXが彼女を助けたこともあるため、持ちつ持たれつといったところか。

 Xはゆっくりと辺りを見渡してから、女性に視線を戻して言う。

「そういえば、今日は、猫は一緒じゃないんですね」

 おとぎ話の魔女を髣髴とさせる、先の尖った黒い帽子に黒いドレスを纏った女性は、「あら」とおかしそうに口元に手を当てる。

「そこにいるけど」

 そこ、としらじらとした指が向けられたのはXの足元だ。自然とXの視線が下がり、魔女のドレスのスカートとヒールを履いた細い脚、続けてX自身のサンダル履きの足が映る。そして、その足に、真っ黒な毛並みの猫がまとわりついていたのだった。

「旅人さんのこと気に入ったみたいでね。この前から、ずっとあなたのことばかり話してるのよ、この子」

「そう、なんですか」

 もちろん、魔女の言葉の真偽はわからない。Xは猫の言葉を理解できないし、当然私もそうだ。ただ、屈みこんだXに向けて甘えるような鳴き声をかけ、差し出した手を拒むことなく自ら撫でられようと体をこすりつけてくる辺り、気に入られているのは間違いなさそうだ。

 Xが無骨な指先で黒猫の狭い額を掻けば、画面いっぱいに映し出された猫は金色の目を細めて、心地よさそうにくるくると喉を鳴らす。何とものどかな光景だ。……ここが『異界』であることも、忘れそうになるくらいに。

 そうして、猫を存分に構っていると、頭上から魔女の声が降ってくる。

「旅人さんは、美術館がお好きなのかしら」

「美術館?」

 何故、唐突に美術館という単語が出てきたのかわからなかったのか、Xは疑問符を投げ返す。なお、その視線は問いかけてきた魔女ではなく、すっかり気を許したのか絨毯にあおむけになって腹を見せる猫に向けられていたのだが。

「わかってなくてここにいたの? ここ、私たちの間で話題の美術館なんだけど」

 魔女の声には呆れのような響きが混ざっていた。そこで、Xもやっと猫を構うのをやめて立ち上がると、改めて周囲を見る。しんと静まり返った空間に、言葉を交わしているのはXと魔女だけ。適度な明るさの空間、複雑に折れ曲がった通路、ところどころに置かれている、何とも形容しがたい物品。

「何か、と思ってましたが、展示品ですか」

「そう。ここには、あらゆる世界から美術品が流れ着くって言われてるの。仕組みは誰にもわからないけど、そういうものとして知られていて、自分の知らないものを見るために、いろんな世界から客が訪れる。そういう美術館」

 魔女の言葉は、我々が思うよりもずっと世界と世界の境界線が薄いということ、同時に、自在に世界を渡る者が多いのだろうことも示している。ここに立ち尽くしている黒い影も、通路ですれ違った者たちも、美術館の客なのだろう。

 数多の世界から美術品が集まる美術館。そう思えば、目に映るものを上手く呼称できなくとも仕方がないのかもしれない。『こちら側』であっても、美術と呼ばれるものを、言葉で表現するのはなかなか難しい。

「中でも、これは、特に面白いと思うけど。旅人さんには、どう見えてるのかしら」

 魔女は青い立方体に視線を向ける。青い立方体は、変わらずにただただ青い。青くあり続けている。ディスプレイ越しですらそうなのだから、それを目の当たりにしているXは尚更だったに違いない。迷うことなく、口を開く。

「青いです」

「やっぱり、旅人さんもそう言うのね。これはね、『青のクオリア』という作品なの」

「……クオリア?」

 クオリア、感覚質。Xには馴染みのない言葉かもしれない。私もそうそう使うことはない、どうにも一般的とはいえない言葉だから。

「クオリア、知らない? 説明するのはちょっと難しいんだけど、これに対して、あなたが感じた『青さ』がクオリア」

「青いものは、当然、青い、ですよね?」

「そう、あなたはこれを青いと感じるし、私も青いと思う。でも、青さって、そもそも何だと思う? どうしてこれに青さを感じたか、説明できる? そもそも、私とあなたの感じた青さは同じだと思う?」

「……いえ、……それは、わからない、ですね」

「クオリアっていうのは、そういう、『その人がそう受け取る感触』を指すの。私たちは青という色を知っている、それがどんな色なのかを知っている。でも、それって、一体どこでどのように感じてるんだと思う? 実はこれが案外、説明できないことなのよ」

 ある一定範囲の波長の光を見たときに、我々は「青さ」を感じる。光という外部の刺激を感覚器である目で受け止め、神経細胞に電気信号が流れる。そうして刺激の情報が脳に伝達されたときに、脳がその光の波長を「青さ」として感じ取るわけだ。しかし、「青さ」という感覚そのものがどう生じているのかを、我々は正しく説明することができない。少なくとも、現在の科学では。

「ええと、つまり?」

 そして、Xは、魔女の説明がまるでわからない、ということがわかったようだった。魔女は頭の上に疑問符を飛ばしているだろうXを見て、ぷっと噴き出した。

「まあ、わからないならいいわ。とにかく、これは、『青のクオリア』。青という色の青さそのものっていう触れ込みでね。誰が見ても『青さ』を感じる……、らしいの」

「誰が見ても、ですか」

「そう。少なくとも、青さを知っている人は、みんなこれを青いと言う。でも、どうも、色を見たことのない人にも、これが青いってことだけは伝わるらしいの」

 全色盲の相手に色の感じを伝えることはできない、というのはクオリアについての議論でもよく取りざたされる例だ。それがどのような波長をもつ光なのか、物理法則は説明できても、どのような「感じ」――クオリアであるのかを説明することは不可能、という話なのだが。

 もし、魔女の言葉が本当ならば、それはとんでもないことだ。『こちら側』の様々な分野においてなされていた議論が、根本的に覆るのではないか。

 クオリアが何であるのかを理解できていなくとも、魔女の言っていることが「ありえないこと」であることはわかったのだろう、Xが怪訝そうに問いかける。

「そんなことが、ありえるのですか?」

「さあ?」

 魔女は、いたって、あっけらかんと言った。

「だって、クオリアは『感じ』なのだから、言葉で説明できるようなことではないし、『あなたが体験した感じ』を、私が知ることもできない。誰だって同じ。だから、これが本当に『青のクオリア』かどうかの証明も、誰にもできないってわけ」

「……はあ」

 Xから吐き出されたのは、気の抜けた声だ。私も、煙に巻かれているような気分になる。結局のところ、この青い立方体が本当は『何』であるのかは、謎に包まれたままということだ。

 どうにも納得いかない、といった調子のXに対して、「何だって、案外そんなものよ」と魔女は小さく笑ってみせるのだった。

「もちろん、お互いが考えていることも、感じているものも、何もかもが伝わる――、そんな魔法も、どこかにはあるかもしれないけどね」

 静かな美術館の一角で、にゃあ、と黒猫が鳴いた。

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