13:切手
これは何ですか、というXの問いに対して、男性は「切手ですよ」と答えた。
Xの目の前には、アルバムが積みあがっていた。その、ところどころが擦れ汚れた革張りの表紙を見る限り、それなりに年季の入ったものであるらしい。
「切手のコレクションが趣味なんですよ。これがなかなか奥深い」
「開いてみても?」
「どうぞご自由に」
一番上に積まれていたアルバムを手に取り、開いてみる。ディスプレイに映し出されるのは、男性の言葉通り、アルバムいっぱいに収められた、様々なデザインの切手だった。形状は私の知る切手と大差はない。『こちら側』ほど印刷技術が発達していないのか、ほとんどはシンプルな単色刷であったが、図柄はなかなか精密なものが多い。
ただ、ここが『異界』であると示すように、描かれているもののうちのいくつかは、一目で「何」であるかを判別することができなかった。
「すみません、これは、何を描いたものですか」
Xも当然疑問に思ったのだろう、アルバムから顔を上げて、男性を見る。Xよりも更に一回りか二回りほどは年上だろう――『こちら側』と年齢の概念が同一であれば、だが――小柄な男性は、薄く色の付いた眼鏡越しにXの手元を覗き込んでくる。
「ああ、これは終戦記念切手ですね。特に枚数の少ない、貴重なやつでしてね、自慢の品ですよ」
「終戦……」
つまり、この『異界』の、今まさにXがいる場所では、かつて戦争があったということか。
私は戦争を知らない。もちろん、『こちら側』のどこかでは必ず戦争が起こっている。しかし、それはあくまで知識の上での話でしかなく、私個人は戦争というものを肌で感じたことはないし、感じずに済んでいることを幸運と思うべきなのだろう。
Xもまた、実感としては私とそう変わらないに違いない。この国で戦争を経験した世代でない以上、どこまでも遠く感じられるであろう、話。
果たして、男性はXの反応をどう受け取ったのか、皺の浮いた口の端を持ち上げて、穏やかに笑ってみせる。
「どこまでも過去の話でしょう、そちらさんには。この切手のように、記録としてしか残らない話。しかし、記憶は時と共に薄れていく、もしくは歪んでゆくもんですからね、記録として残すことには意義がある」
もちろん、その記録だって、人の手で残す以上は主観による代物に他なりませんが、と。男性は付け加える。
歴史は勝者が記すものだ、と言ったのは誰だったか。何も歴史に限ったことではなく、記録とは、そういうものだ。どれだけデータを積み上げ論拠を示したところで、それが人の手を介したものである以上、完全に主観を排するのは不可能だ。
「……と、話が逸れましたね。これは、」
男性の唇が動き、知らない言葉を紡ぐ。音が聞き取れなかったわけではないが、その音が何を意味しているかはわからない。
『異界』ではこのようなことが起きがちだ。全く言葉が通じないこともあれば、今回のように、言葉は通じていても一部の語彙だけが欠落することも少なくない。もしかすると、無意識に『異界』の言語を自分の知る言語に合わせて解釈しているだけで、実際には日本語とはまるで異なる言語による会話なのかもしれなかった。
男性はXの顔を覗き込み、苦笑する。
「ぴんと来てない顔ですね」
「そうですね。聞き覚えが、なくて」
「どんな田舎から出てきたんです? 名前くらいは学びませんでしたか」
言われたところでもちろん知るはずもないのだから、仕方ない。きっと相当困った顔をしたのだろうXに対して、男性は「悪かったですよ」とひらひらと手を振る。
「知らないなら知ればよいだけですからね。そいつは、船の一種ですよ」
船。スピーカーから聞こえてきたのは、今度こそ私にも意味の取れる言葉だった。
Xの視線が、アルバムに戻される。古い切手に描かれているそれは、しかし、船というにはあまりにも――。
「不思議な形を、していますが」
不思議、という言葉でも足らない。私の目には、それは、虫の一種に見えていたから。所々に節が刻まれた流線型の身体、計算され尽くした曲線を描く触角、胴体部から伸びる複雑に折れ曲がった脚。よくよく目を凝らしてみれば、大きく広げられた翅の翅脈までが細かく印刷されている。
これが、虫ではなく、船だというのか。あるいは『異界』の言葉を誤って読み取ったのではないか、と思っていると、男性は「不思議でしょう」と頷いてみせる。
「戦時に使われた船の一つなんですけどね、見ての通り、まるで船に見えない形をしている」
「船ということは、人が乗るもの、なんですよね」
「ええ。とはいえ形も奇妙なら、中身も普通ではありえない船でしてね、乗りこなせる者などごく一握りでしたが。それでも、そいつが、戦争の終わりを導いた立役者なんですよ」
そう言われても、こんな虫のような形をした船が水の上に浮かんでいるところを想像しろという方が難しい。人が操っているところなど、尚更だ。Xもまた、相当納得のいかない顔をしていたに違いない、その顔を見た男性が噴き出した。
「信じてませんね?」
「信じていない、というか……、イメージが、できなくて」
「まあ、それが普通の反応ですよね。自分だって、実物を知らなきゃ信じちゃいませんよ」
「実物を、見たこと、あるんですか」
「見たことあるも何も……、と、これじゃあ老人の昔語りになっちまいますね。嫌でしょう、ろくに知りもしない爺さんの話を長々と聞かされるなんて」
「いえ。……興味は、あります。この船の話も、この切手が作られた背景も」
Xはごくごく真剣な声音で言う。『こちら側』に『こちら側』の歴史があるように、『異界』にも『異界』の歴史がある。何が『こちら側』と似ていて、何が似ていないのか。事物を観察するだけではなく、そこに生きている者の言葉を聞き取ることも、Xの役目だ。
それに、興味がある、というのも単なる方便ではあるまい。知らない世界の、知らない物語に興味を抱くことはそうおかしなことではない。そして、一度潜った『異界』にもう一度辿り着く可能性がほとんど皆無である以上、これが、この『異界』について知る最初で最後の機会であろうから。
もちろん、Xがどこから来たのかも知らず――当然これが一期一会だとも思っていないだろう男性は、いたって気楽な調子で言うのだった。
「では、茶でも飲みながら話しましょうか。取れたての蜂蜜も添えて、ね」
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