03:謎

 Xという人物について、私は何一つとして知らないと言ってよい。

 本当の名前も知らなければ、どのような経緯で死刑を宣告されたのかも知らない。片手の指では数えきれない程度の人数を殺害した、とは聞いたが、どのように、そして、何故そうしたのかをXが語ったことはないし、私も彼に聞いてみたことはない。

 我々プロジェクトメンバーにとって、Xは異界潜航サンプル――生きた探査機であり、それ以上でも以下でもない。実のところ、サンプルが必ずしも「人間」である必要もないのだ。現在我々が採用している『異界』への『潜航』の仕組みから、観測者とサンプルとの意志疎通が必要な都合、サンプルに人間を用いているというだけで。

 だから、私たちプロジェクトメンバーはXについて、何一つとして知る必要がないと思っている。

 そう、思ってはいるのだが。

「X」

 私が呼ぶのは、ただの識別記号でしかないアルファベット一文字。けれど、彼は嫌な顔一つせずに私を見やる。

「発言を許可するから、一つ、いいかしら。と言っても、大した話じゃないんだけど」

 Xは小さな頷きとともに、低い声で「はい」と返す。

 私が許可しない限り、Xは『こちら側』では声一つ出そうとしない。誰が命じたわけでもなく、彼自身が自発的にそうしている。必要以上に口を開いても、お互いによいことは何もないだろう、というのがXの主張だったから。

 かくして、私はXの視線を受け止める。片目が見えていないが故の、少し焦点があやふやな、けれど、どこまでも真っ直ぐな視線を。Xはほとんど人の顔から目を逸らそうとしないために、私の方が気恥ずかしくなることも多い。今ばかりは、言葉通り、大したことを聞こうとしているわけでもないから、尚更。

 ひとつ、意識して咳払いをして。

「あなたって、意外と、よく、鍛えているのね」

 ぱちり、Xが大げさに瞬きをする。常日頃から表情の薄いXではあるが、これは間違いなく、「そんな話だとは思っていなかった」という顔だ。だから、大した話じゃない、と言い置いたというのに。

「今まで気にしてなかったけど、さっきの『潜航』で、初めて、あなたの体を見たなと思って」

「ああ」

 ここまで言ったところで、やっと、Xの中でも話がつながってきたのだろう。合点がいった、とばかりに一つ頷いてから、首を縮めてみせる。

「見苦しかったですよね。すみません」

 先ほどまで行われていた『潜航』では、いつもの通りXの視界を映すディスプレイを通して、『異界』を目にしていた。その中で、色々な出来事が重なった結果、Xは上に着ているものを脱ぎ捨てる必要に駆られたのだった。

『異界』におけるXの姿は、我々の間では「意識体」と呼ばれるが、基本的には『こちら側』の姿を模倣したものだ。仕組み上は「X自身が己と認識している形」を投影する、と言った方が実態に近いのだが、ほとんどの場合、『こちら側』の姿とそうかけ離れたものにはならない。肉体も、その肉体を覆う着衣なども。

 だからこそ、私は、Xの視界を通して彼の体を目にし、ちょっとした驚きを覚えたのだった。

「見苦しい、とは思わないわ。ただ、想像と違って驚いただけ。そんなに鍛えてるなんて思ってなかったから」

 Xは、ほとんどの場合、ゆるいトレーナーを着ている。着衣はいくつかの制限さえ守れば自由なのだが、Xは体のラインの見えづらい、余裕のあるつくりの服を好むために、その下の体つきをこちらに意識させたことがなかったのだ。

『潜航』の際に使う寝台に座ったXは、元々そう大柄でもない体を更に縮めながら言う。

「毎日、体を動かすようには、しています。空いた時間は、ほとんど」

「意外ね。あなたに、そんな趣味があるなんて」

 これは率直な感想だ。私はこの研究室の外――つまり、研究所地下の独房でXがどう過ごしているのかも知らない。ただ、我々へ見せている態度から判断する限り、趣味らしいものがあるとも思えなかったのだ。『潜航』には真面目に取り組むが、それ以外の何にも興味を持とうとしない、そういうところがXにはある。

 Xは恥じ入るように体を縮めたまま、彼には珍しく、どこか不安げな視線を投げかけてくる。私の顔色を窺っているようにも、見えた。どうも、この話題はXにとっては相当に居心地の悪いものであるらしい。

 だから、きっと、この辺りで話を止める方がXの希望には沿っていたのかもしれない。ただ、私は、初めて知ったXの一面に、興味を抱くことをやめられなかった。

「恥じらうようなことではないでしょう。でも、少し不思議には思うの」

「不思議、ですか?」

「何故、体を鍛えようなんて思ったの? どれだけ鍛えても……、それが、現実に役に立つわけじゃないでしょう」

 私が謎に思うのは、異界潜航サンプルのXというよりも、未だ名も知らぬ死刑囚である彼が望んでそうしているらしい、ということだ。

 必ず来る死を前にして、なお、自らを鍛え続けようという精神。

 それが、私には、どうにも理解できない。

 そして、Xも私の言外の問いかけを理解したのかもしれない。気を取り直したかのように、すっかり縮めてしまっていた体を伸ばす。

「深い理由はありませんよ。昔から、そうしていたから。惰性ですね」

「惰性で続けられるようなものかしら」

「他に、することも、ありませんから。時間を潰すにはいいですよ、自分の体以外に、何が必要なわけでも、ありませんし」

 Xは、私のいささか不躾に過ぎる問いかけにも淡々と答える。それこそが己の役目であるとばかりに。

「他に、していたことはないの?」

「ええ。元々趣味らしい趣味があったわけでもなし、あなたの言う通り、『現実に役に立つわけじゃない』以上、新たに何かをする気も、起きなかったので」

 しかし、と。逆接の言葉を繋げながら、手錠で繋がれたXの両手が、ゆるりと指を組む。ひどく無骨な指は、Xの今までの経験を滲ませているようにも感じる。

「……わからないものですね。ずっと無意味だと思いながらも辞められなかったことが、役に立つ日が来るとは」

 そう、異界潜航実験においては、『潜航』時に「Xが思う己」が意識体に反映される以上、肉体的素養も『異界』での活動に活きてくる。だから、Xの唯一の趣味は「無意味」にはならない。少なくとも、異界潜航サンプルを続けていく限りは。

 Xがその事実を、私が思うよりもずっと肯定的に受け止めているらしいことに、内心驚く。

 我々はXを、意思疎通のできる実験動物としか見なしていない。それを当のXが理解していないはずもないのだが、Xの声はいつになく明るかった。どういう形であれ「役に立つ」ということが――彼の、ただ一つの希望であるかのような、物言い。

 胸の中に一抹の感情がよぎる。本来、実験動物に対して抱くべきではない、何らかの感情が。だが、それをXに見せることはできないから、代わりに、意識して笑ってみせる。

「そうね。あなたには、役に立ってもらうわよ」

 ――これからも。

 Xは異界潜航サンプルであり、いつ失われても問題ない実験動物として選ばれた。だから「これから」なんて物言いもナンセンスなはずなのだ。

 頭でわかっていても、つい、そう言葉にしてしまった私を、ちぐはぐな色の瞳で見つめたXは。

「はい」

 と、ほんの少しだけ、表情を緩めてみせたのだった。

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