01:黄昏
黄昏時、という言葉がある。
日が沈んだのちの、空が夕焼けから夜へのグラデーションを描く時間帯。元々は「誰そ彼」と書き、夕暮れで人の顔の区別がつかない――「あなたは誰」と問いかけることから来ている言葉だという。
もしくは。『異界』に関わる者であれば、こちらの呼び名の方が親しみがあると言えるのかもしれなかった。
――逢魔時。
大禍時とも書くそれは、妖怪や幽霊、魔物など、この世に存在しえないものと出会う時刻。一日のうち、最も『異界』と『こちら側』との境界線が薄れる瞬間だ。
そして、『異界』には夕暮れの景色が多い。これは何も私の感覚によるものではなく、今までXが取得してきた『異界』のデータから得られた統計情報だ。私たちの観測がXの主観を通している以上、彼の目に見えているものが必ずしも「正しい」と言い切ることはできないが、傾向としてそうである、という話。
我々から見れば『異界』である場所も、その世界から見れば『こちら側』が『異界』になる。『こちら側』の住人であるXが『異界』に赴くということは、『異界』の側にしてみれば、本来あり得ざる「魔」が混ざりこむことに等しいのかもしれなかった。
かくして、今回の『異界』もまた、夜に閉ざされる前の、薄明かりの中にあった。赤から淡い青、そして濃い紺色へと移り変わっていこうとしている空は、『こちら側』の夕暮れと何も変わらない。
いや、私の前にあるディスプレイに映る景色は、空の色に限らず『こちら側』によく似ていた。
ディスプレイに映るXの視界で判断する限り、Xが立っているのは、住宅地の只中だった。立ち並ぶ家々の窓からは明かりが漏れていて、これからやってくる夜を待ち構えているようでもある。
Xは、サンダル履きの足でアスファルトを踏んで歩みだす。私が与えている「可能な限り『異界』を観測する」というタスクを、Xはいつでも文句ひとつ言わずに実行に移す。行く場所のあてがあるわけでもないから、ただ、ゆったりとした足取りで歩きながら、その目と耳をもって、私たちに『異界』の様子を伝えるのだ。
――それにしても、静かな夕暮れ時だ。
対向車同士がぎりぎりすれ違える程度の幅の道には、通学路を示す白線が引かれている。つまり、学校に通うような子供がいる地域なのだろう。けれど、子供たちの声は聞こえない。私の感覚からすれば、例えば部活や塾帰りの子供たちはこのくらいの時刻に帰途につくと思うのだが。『異界』である以上、我々の常識は通用しないということはわかっていても、『こちら側』とよく似た景色を見せられると、そんなことを思わずにはいられない。
子供だけじゃない、例えば犬の散歩をしたり、仕事帰りであったり、もしくは買い物に出かけたり、といった人の姿も一人も見えない。しん、と静まり返った家々だけがXの視界に映る。Xの聴覚と接続しているはずのスピーカーが異常をきたしているのか、と疑いたくなるほどの、重苦しい静寂。
その時、不意に視界の端で何かが動いた。Xは立ち止まり、そちらに視線を向ける。見れば、家と家の隙間に細い道が伸びていて、そこから、何かが音もなく這い出してくるところだった。
果たして、それを「何」と形容すべきだろうか。
何とか言葉を絞り出すとすれば、毛むくじゃらの、巨大な、蛇のような。けれど、その側面からは無数の手――それも五本の指を持つ、人間の手だ――が突き出して蠢いている。首をもたげるそれに目らしき器官は無いように見えるが、しかし、不思議とXを「見ている」ことは、ディスプレイ越しにも伝わってくる。
突如として湧き出した異様な存在を、しかし、Xは驚きの声ひとつ出さずに見つめ、それから視線を横に移す。
先ほどまで何もなかった空間を、羽を持つ魚のようなものが群れを成して泳いでいる。薄明の下、その姿はぼんやりとした影に覆われ、はっきりと見て取ることはできない。だが、空中を泳ぐ魚たちは、Xを取り囲むようにぐるぐると回る。
起こった変化はそれだけではなかった。犬のような、けれど明らかにねじ曲がったシルエットの何かが曲がり道から飛び出し、家々の影から湧き出すのは無数の蜘蛛。そのいずれもが、こちらを見ている。――Xを、見ている。
その時。
「……こんな時間に外を歩いているなんて、なんて命知らずだろう?」
声が、スピーカーから聞こえてきた。それは、囁くような響きであったけれど、いやにはっきりと届く。もしかすると、Xの耳元で喋っているのかもしれなかった。Xの視界の中に、声の主は見えなかったから。
しかし、Xはそちらを振り向こうともせずに、その場に立ち尽くしている。じわりじわりと、奇怪なものたちが、Xを取り巻く輪を狭めるのがわかる。獲物を追い詰めるように。
このまま、Xに襲いかかる気だろうか。いつでも『こちら側』にXを引き上げられるように、潜航装置の操作を担当するスタッフに目配せをしたその時だった。
「と、思いきや。なんだ、ご同輩か」
スピーカーから流れる、妙に間の抜けた声。その途端、Xを取り囲んでいたものたちが急にXへの興味を失ったかのように、めいめいに散らばっていく。Xの視線はぼんやりとその行方を追っていたが、どれもこれもてんでばらばらの方角を向いており、その全てを目で追うことなど不可能だった。
かくして、アスファルトの道の上にはXひとりが残された。否、正確にはもう一人いるのだろう。そっと、Xの耳元で、誰のものともわからぬ呼吸とともに、声が囁く。
「いやはや、この『狩り場』も潮時かねえ。この通り、誰も彼も、あたしらを怖がって、家から出てきやしない。ご同輩もつまらないだろう?」
「そうですね。ひとと接触できないのは、困りものです。……しかし、流石に、招かれてもいない家に押し掛けるのも、気が引けます」
囁きに応えるのは、低く穏やかな響き。Xの声。少々とんちんかんな物言いも、彼らしいといえば、そう。『異界』における行動は特に制限していないのだが、Xは変なところで常識的で、『異界』の住人に気を遣う。
ただ、Xの応答は声の主にとってはそう見当違いのものでもなかったのだろう、愉快そうな笑いとともに言葉が続けられる。
「そういうことさね。招かれていない家の扉は開けない。もとより招かれざる客って言っちゃあそれまでだがね」
「……あなたも、私と同じで、外からやってきたのですね」
「そうさ。腹が減った時にちょいとつまむのにちょうどよかったんだが、どうやらやりすぎたようだ」
そろそろ河岸を変えるとするかね、という声とともに、呼吸の気配が離れる。Xはそこで初めて振り向いた。声の主を確かめようとしたのだろう。
だが、そこには、何もいない。ただ、見たことのない――けれどどこかで見たような懐かしさを伴う、住宅街が広がっているだけ。
いや、一つだけ。もっと正確には「二つ」。
アスファルトの道の先、夕日がすでに沈んだはずの、夕から夜へのグラデーションを描く空に、二つの丸い何かが輝いていた。星にしては大きく、月にしてはいやに赤いそれは、ぱちぱちと「瞬き」をして。
「それじゃあね、ご同輩。またどこか、別の黄昏時に会おうじゃないか」
声を最後に、ゆっくりと瞼を閉じるかのように、二つの赤い円が細められて線になり、やがて見えなくなる。
その瞬間、時間が止まったかのようだった黄昏の空が、一面の夜へと塗り替えられる。一瞬にして闇に包まれた道に、ぽつ、ぽつ、と街灯が光を投げかけ、家々の明かりがそこに人の営みがあることを示す。
黄昏時、もしくは逢魔時の終わり。夜の始まり。
Xは、ふ、と息をついて、夜の道を歩み出す。招かれざる「魔」の同輩は去って、それでも、なお、課せられた役割を果たすために、誰も己を知るものがいない世界を行く。
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